(第85回)


説教日:2006年12月31日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日には降誕節の礼拝をしましたので、主の祈りについてのお話は1週空いてしまいました。今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてお話しします。
 この第2の祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御国が来ますように。

となります。そして、この祈りにおいて私たちが祈り求める「あなたの御国」、すなわち神の国は、旧約聖書において約束されている贖い主であるイエス・キリストが王として治められる御国を指しています。
 これまで、イエス・キリストが王として治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。今日は、このことがキリストのからだである教会とどのように関わっているかということについてお話ししたいと思います。
 神さまが神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということは、神さまが人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を治められるということを意味しています。その意味で、ここには神の国があります。歴史と文化を造る使命とは、この意味での神の国の歴史と文化を造る使命です。
 この神の国の歴史には目的があります。それは、神のかたちに造られている人間が歴史と文化を造る使命を忠実に果たし続けることによって、より充満な栄光に満ちた神さまのご臨在のある世界が出現するということです。人間は、その使命の遂行に対する報いとして、被造物に許される限りでの充満な栄光に満ちたものとなって、神さまのご臨在の御許で愛にあるいのちの交わりにあずかるようになるはずでした。
 実際には、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人は歴史と文化を造る使命を神さまのみこころにしたがって遂行することがなくなってしまいました。けれども、それで、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているという事実が変わってしまったわけではありません。詩篇8篇5節、6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。これは、この詩篇が記された時の現実を述べています。それで、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後も、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが取り消されていないことを示しています。
 新約聖書においては、この詩篇8篇6節の、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という言葉が引用されて、イエス・キリストが、原理的に、歴史と文化を造る使命を成就しておられることが示されています。「原理的に成就しておられる」と言いましたが、この「原理的に」ということは、そのことが実現するために必要なことはすべてなされており、すでにその実現が始まっているということです。ただ、それが完全に実現し完成するまでにはプロセスがあり、その完成は世の終わりのイエス・キリストの再臨とともに実現するということです。
 この完成のことは、黙示録21章と22章に記されています。その代表的な部分を引用しますと、21章1節〜4節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 ここでは、「新しい天と新しい地」の出現のことが、黙示文学の表象で、預言的に記されています。その中心は「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」た「新しいエルサレム」です。この「新しいエルサレム」が何を表す表象であるかについては意見が分かれていますが、少なくとも主の契約の民を表していることでは意見が一致しています。意見が分かれるのは、主の民とともに、主の民が住まう所をも表すかどうかです。いずれにしましても、ここには、この「新しいエルサレム」の表象によって表されている主の民と、その間にご臨在される神さまとの交わりの完成が記されています。
 また、22章1節〜5節には、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

と記されています。ここでは、先ほどの「新しいエルサレム」が、最初の創造の御業によって契約の神である主のご臨在の場として造られたエデンの園の表象によって描かれています。これによって、「新しいエルサレム」を中心とする「新しい天と新しい地」の出現が最初の創造の御業の完成であることが示されています。
 神のかたちに造られている人間が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を神さまのみこころにしたがって果たしていたなら、神の国の歴史が造られ、完成に至っていたはずです。その完成の中心は、ここに示されているように、そこに、神である主の充満な栄光に満ちたご臨在があり、人はその御前に立つのにふさわしく栄光化され、神さまとの愛にあるいのちの交わりが完成するようになることにあります。実際には、これは、人類の罪による堕落の直後に神である主が約束してくださった贖い主のお働きによって実現し、完成します。その意味では、その実現と完成に至る道筋は変わっていますが、その実現と完成が、神である主の充満な栄光に満ちたご臨在がある世界の実現と完成にあるという点は変わっていません。


 先ほど引用しました21章1節、2節では「新しい天と新しい地」の中心にある「新しいエルサレム」は「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」いると言われていました。さらに、21章9節〜11節には、

また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。

と記されています。
 言うまでもなく「小羊」とは、ご自身の民の贖いのために十字架の上で血を流し、いのちをお捨てになった栄光のキリストのことです。そして、その「花嫁」とは小羊の血によって死と滅びの中から贖い出された主の民であり、キリストのからだである教会のことです。
 このこととの関連で、エペソ人への手紙を見てみましょう。エペソ人への手紙5章21節〜32節には夫と妻に対する戒めが記されています。その最後の部分である31節、32節には、

「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

と記されています。

それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。

という言葉は、最初の男女の結婚を記している創世記2章24節からの引用です。その言葉を受けて、パウロは、

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

と述べています。これは、夫と妻の関係には原型があること、そしてそれは「キリストと教会」の関係であるということを示しています。本来、夫と妻の関係は、その原型である「キリストと教会」の関係を映し出すものであるということです。そして、夫に対する戒めを記しているエペソ人への手紙5章25節〜27節には、

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と記されています。
 今お話ししていることとの関係で注目したいのは、夫と妻の関係の原型である「キリストと教会」の関係におけるキリストの御業です。キリストは「教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」と言われています。そして、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と言われています。そして、このことの完成が、先ほど引用しました黙示録21章2節に、

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

と記されているわけです。
 このように、神の国の王として治める方はご自身の民を死と滅びの中から贖い出すために十字架にかかっていのちをお捨てになりました。それは、私たちをご自身のからだである教会として御前に立たせてくださるためでした。これまでお話ししてきましたように、このことのうちに神の国の本質的な特性である愛と恵みがこの上なく豊かに表されています。
 エペソ人への手紙5章27節、28節には、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と記されていました。この言葉は、同じエペソ人への手紙の1章4節、5節に、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されていることを思い起こさせます。
 父なる神さまは永遠の前から私たちをイエス・キリストのうちにあるものとしてお選びになり、「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。そのことがどのように実現したかということが、5章27節、28節に、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と記されています。
 これらのことを重ね合わせて見てみましょう。父なる神さまは永遠の前から私たちをイエス・キリストのうちにあるものとしてお選びになり、「御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」そして、

ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ

ました。そのことは、具体的には、私たちをご自身の御子であられるキリストのからだであり、キリストの花嫁である教会としてくださることによって実現しています。私たちは御子イエス・キリストのからだであり、花嫁である教会につなげられることによって、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と記されているイエス・キリストの贖いの御業にあずかっています。そして、それによって、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころが実現しているのです。言うまでもないことですが、これはまた、今お話ししている、創造の御業の目的を実現することでもあります。
 また、エペソ人への手紙1章20節〜23節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。これは少し前に取り上げたことがある個所ですが、今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、22節前半に、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と記されていることです。これは、先ほど引用しました詩篇8篇6節に記されている、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉がイエス・キリストにおいて原理的に成就していることを示しています。栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということです。
 このことを踏まえて、22節、23節全体を見てみますと、そこでは、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。ここでは、創造の御業によって神のかたちに造られた人に与えられた歴史と文化を造る使命を原理的に成就された栄光のキリストが教会に与えられたと言われています。22節後半の、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

という言葉においては、最初に置かれている「キリストを」(直訳「彼を」)と最後に置かれている「教会に」が強調されています。何と、このキリストが、教会に与えられているのだということです。
 そして、続く23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

というように、その「教会」が「キリスト」との関係で説明されています。
 最初の、

 教会はキリストのからだであり

ということには、キリストが教会のかしらであられるという面があります。これによって、かしらであられるキリストと教会が一つに結び合わされていることが示されています。
 これに続いて、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。これをより直訳調に訳しますと、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の充満

となります。この「充満」をどのように理解するかについては、意見が分かれています。結論的には、これは、受身的に、教会が「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」によって満たされているという意味であると考えられます。
 この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、「いっさいのものをあらゆる点において満たしておられる方」というような意味です。これはその前の22節で、

神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と言われていることとつながっています。そして、「いっさいのものを・・・足の下に従わせ」ておられる方は、「いっさいのものをあらゆる点において満たしておられる方」であり、「いっさいのものを」あらゆる面から支えておられる方であるということを示しています。もちろん、これも愛と恵みに満ちた神の国の本質的な特性を現すことです。このようにして、栄光のキリストが詩篇8篇6節に、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていること、すなわち神のかたちに造られている人間に委ねられている歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられることが示されています。今お話ししていることとの関わりで言いますと、栄光のキリストによって神の国の歴史が回復され、完成に向かってその歴史が造られているということです。
 ここでは、そのように「いっさいのものを・・・足の下に従わせ」ておられ「いっさいのものを」あらゆる面から支えておられる方が教会に与えられている、それで、教会はその方によって満たされていると言われています。キリストのからだである教会は、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる方によって満たされているということです。このことは、キリストのからだである教会が栄光のキリストによって原理的に成就している歴史と文化を造る使命の遂行に深く関わっているということを意味しています。キリストのからだである教会が、かしらであられるキリストによって満たされることによって、特に、その愛と贖いの恵みに満たされることによって、栄光のキリストが愛と恵みによって治めておられる神の国の歴史が造られていくのです。
 それが具体的にどのようなことであるかは、エペソ人への手紙においては、その実践編とも言うべき4章〜6章に記されています。そこには、キリストのからだである教会が、御霊によってキリストにある一致を保ちつつ、また、真理の御言葉に立って、それぞれの賜物をもって互いに仕え合うことにおいて愛を表しつつ、かしらなるキリストに達することが記されています。そこには、前回までお話ししてきました霊的な戦いのことも含まれています。
 そして、そのように神の国の歴史が造られる中で、教会は小羊の「花嫁」として整えられていき、終りの日には、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」とされて、かしらなるキリストとまったく一つとされます。そして、この小羊の「花嫁」、「新しいエルサレム」を中心とする「新しい天と新しい地」が完成するようになります。
 ですから、このことの実現を祈り求める、

 あなたの御国が来ますように。

という祈りは、キリストのからだである教会の一致した祈りであるのです。それは、地にあるキリストのからだである教会がその歴史を通して祈り続けている祈りです。

 


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