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説教日:2006年12月17日 |
前回と前々回は、イエス・キリストが王として治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししました。特別集会のためにお話が一週空いてしまいましたので、補足を加えながら復習しておきます。 神さまが神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということは、神さまが人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を支配されるということを意味しています。ここには、人間が神さまのみこころにしたがって、造られたすべてのものを治めるという意味での神の国があります。歴史と文化を造る使命とは、この意味での神の国の歴史と文化を造る使命です。 この神の国の歴史には目的があります。言うまでもなく、その最終的な目的は造り主である神さまの愛と恵みに満ちた栄光がより充満な形で現れるようになることです。具体的には、神のかたちに造られている人間が歴史と文化を造る使命を忠実に果たし続けることによって神の国の歴史が造られます。そして、その完成としてより充満な栄光に満ちた神さまのご臨在のある世界が出現するということです。人間は、その使命の遂行に対する報いとして、被造物に許される限りでの充満な栄光に満ちたものとなって、神さまのご臨在の御許でいのちの交わりにあずかり、神さまを礼拝することを中心として仕えるようになるはずでした。 けれども、創世記3章に記されていますように、サタンが最初の女性を誘惑して神さまの戒めに背かせました。さらに、その最初の女性を通して、最初の人を神さまに背かせました。これによって、人間は自らの罪に対するさばきを受けて、死と滅びの力に捕えられてしまいました。そればかりではありません。歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が神さまのみこころにしたがってその使命を遂行することがなくなってしまいました。その結果、神さまのより充満な栄光に満ちたご臨在のある世界を来たらせるという、創造の御業の目的が実現しないことになってしまいました。サタンが造り主である神さまのみこころを挫き、神の国とその歴史を崩壊させたかのように思われました。 これは霊的な戦いとしての意味をもっています。すぐれた御使いとして造られたサタンは、造り主である神さまの御前に高ぶり、自らを神の位置に据えようとして、堕落してしまいました。自らを神の位置に据えようとして働いているサタンは、神さまに敵対して働いています。けれども、その存在と栄光において無限、永遠、不変の神さまと直接的に戦うことはできません。サタンは神さまによって造られたものであり、神さまに支えられて存在しているものです。それで、サタンは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人間を罪に誘い込んで、神さまに背かせることによって、神さまの創造の御業の目的を挫いてしまおうとしたのです。そして、それは成功したかに見えました。霊的な戦いにおいてサタンが勝利したかのように見えたのです。 これに対して、神さまは人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に贖い主による救いを約束してくださいました。それは、創世記3章15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という言葉に示されています。 ここに記されている言葉は「最初の福音」と呼ばれますが、それは「蛇」の背後にあって働いている存在であるサタンに対するさばきの宣言です。ここでは、神さまが「おまえ」と呼ばれているサタンとその「子孫」と、「女」とその「子孫」の間に「敵意」を置いてくださると言われています。神さまがそのようにしてくださるのは、神さまの一方的な恵みによっています。「女」とその「子孫」がサタンとその「子孫」に敵対して立つということは、「女」とその「子孫」が神さまの側につくようになるということを意味しています。これが、「女」とその「子孫」の救いを意味しています。 しかし、それだけではありません。もしそれだけであったら、霊的な戦いにおいてサタンが勝利したということになってしまいます。サタンは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間を造り主である神さまに背かせることによって、神さまの創造の御業の目的を挫いてしまいました。この時、直ちにサタンへのさばきが執行されていたら、造り主である神さまに対して罪を犯してサタンと1つになっている人間も、サタンとともにさばきを受けなければなりません。そうすれば、もはや神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を造る者はいなくなり、神さまの創造の御業の目的は実現しなくなります。それで、霊的な戦いにおいては、サタンの勝利ということになってしまいます。サタンとしては、神さまの創造の御業の目的を挫くことができるなら、自分がさばかれて滅びることになっても本望であったのです。 このような状況にあって、神さまは、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と宣言されたのです。これによって、神さまはサタンへのさばきを、その時に直ちに執行されないで、後に来る「女」の「子孫」とそのかしらであられる方によって執行されるということをお示しになりました。 この場合、サタンの「子孫」と「女」の「子孫」は単数形ですが、集合名詞で「子孫」たちの集合体であると考えられます。それぞれの集合体にはかしらがあります。サタンとその「子孫」のかしらはサタンです。これに対して、「女」とその「子孫」のかしらは「女」であると言いたくなりますが、そうではなく、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 と言われているときの「彼」すなわち「女」の「子孫」の中におられます。その方は「女」の「子孫」のかしらとして来られる贖い主で、サタンとその「子孫」に対するさばきを執行されます。 それだけでなく、その贖い主をかしらとする「女」の「子孫」の群れもそのさばきの執行にあずかります。そのことはローマ人への手紙16章20節に、 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。 と記されていることに示されています。また、コリント人への手紙第1・6章3節に記されています、 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。 という御言葉も、このことを指していると考えられます。 このようにして、神さまは「女」の「子孫」のかしらとして来られる贖い主の働きを通して、「女」とその「子孫」を贖い出してくださるとともに、「女」の「子孫」によってサタンへのさばきを執行されます。そして、そのようにして贖い出された「女」の「子孫」たちが、かしらである方との一体において、歴史と文化を造る使命を果たすようになります。これによって、創造の御業における神さまの目的が実現するようになります。サタンの働きにもかかわらず、約束された贖い主のお働きによって、神さまの創造の御業の目的は実現し、完成するということです。 もし私たちが死と滅びの中から救い出されるというだけであれば、神さまの創造の御業の目的はどうなるのかという問題が残ってしまいます。そして、もし神さまの創造の御業の目的が実現しないのであれば、霊的な戦いにおいてはサタンが神さまの創造の御業の実現を阻止してしまったということになってしまいます。しかし、「女」の「子孫」のかしらであられる贖い主のお働きによって、神さまの創造の御業の目的が実現しています。そして、これはその方のお働きによって完成に至らせられるのです。 私たちはこのことを御言葉の約束にしたがって信じています。そして、 あなたの御国が来ますように。 という主の祈りの第2の祈りによって、神さまの創造の御業の目的が実現し、完成することを祈り求めています。 先ほど、主の祈りの第2の祈りにおいて、 あなたの御国が来ますように。 と祈るときの神の国は、マタイの福音書4章17節に、 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 と記されている、イエス・キリストの宣教の中心となっている「天の御国」のことであるということをお話ししました。イエス・キリストが神の国のことを宣べ伝え始められたことはマタイの福音書とマルコの福音書に記されています。そのどちらにおいても、それに先だって、イエス・キリストがサタンの誘惑を受けられたことが記されています。そのことをより詳しく記しているマタイの福音書4章1節〜11節には、 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。 と記されています。 これに先立つ3章16節、17節には、 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 と記されています。イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになって、メシヤとしてのお働きを開始されました。その時、父なる神さまはイエス・キリストに御霊を注いでくださって、 これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。 とあかししてくださいました。「メシヤ」という言葉と「キリスト」という言葉は、どちらも、特定の任務のために「油を注がれた者」という意味です。人間の社会ではオリーブ油を頭から注いだのですが、神さまがお遣わしになったメシヤ、キリストは、「神の御霊」をもって「油注がれた者」でした。イエス・キリストは御霊に満たされてメシヤとしてのお働きを遂行されました。そして、4章1節においては、 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 と記されていました。父なる神さまのみこころでは、メシヤとしてのお働きをなさるイエス・キリストが最初になすことは、悪魔の試みをお受けになることでした。そのようにして、イエス・キリストは、人々の間で神の国の福音を宣べ伝える前に、サタンと対決して、それに勝利しておられます。 この「荒野の試み」については前に詳しくお話ししたことがあります。イエス・キリストは、 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。 「あなたの神である主を試みてはならない。」とも書いてある。 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。 というように、聖書に記されている御言葉をもって悪魔と対決しておられます。しかも、イエス・キリストが用いられた御言葉は、特にメシヤだけに当てはまるものではなく、主の民すべてに当てはまる御言葉です。特に、第1の試みにおいては、サタンは「あなたが神の子なら」と切り出します。これは仮定法で記されていますが、イエス・キリストが「神の子」であられることを踏まえての仮定法です。ですからこれは「あなたは神の子ですから」という誘いかけです。これに対してイエス・キリストは「人は(パンだけで生きるのではなく)」と応じておられます。 ここでイエス・キリストは私たちとまったく同じ立場に立って試みを受けておられます。そして、最後までその御言葉に立ち続けることよってサタンに勝利されました。イエス・キリストは、そのうえで、人々の間に行って、 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。 という神の国の福音の宣教をなさいました。 このことは「最初の福音」が霊的な戦いの中で、サタンに対するさばきの宣言として与えられていることを反映しています。イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えられたことは、霊的な戦いにおいてサタンに勝利して、サタンとその主権の下にあって働いている悪霊たちへのさばきを執行されることに深くかかわっています。マタイの福音書8章28節、29節には、 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」 と記されています。この悪霊の、 神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。 という叫びは、悪霊たちが、イエス・キリストが「神の子」であられることを知っていたということとともに、イエス・キリストが「最初の福音」において示されているさばきを執行される方であられることを理解していたということを示しています。また、マタイの福音書12章28節には、 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。これもイエス・キリストが支配される神の国が霊的な戦いの中にあって暗やみの主権を打ち砕くものとして成立していることを示しています。 あなたの御国が来ますように。 という主の祈りの第2の祈りにおいて、私たちは御霊によって油注がれたメシヤであられるイエス・キリストが、愛と恵みをもって、また、御言葉を悟らせてくださることによって、ご自身の民を治めておられる神の国が実現することを祈り求めています。それは、「最初の福音」に約束されている通りに、サタンの働きにもかかわらず、「女の子孫」のかしらとして来られた贖い主のお働きによって「女の子孫」が神さまの創造の御業の目的が実現するようになることを祈り求めることでもあります。 |
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