(第83回)


説教日:2006年12月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節~15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りについてのお話を続けます。ギリシャ語の原文では、

 御国が来ますように。

という祈りの「御国」には「あなたの」という言葉がついていて、強調の位置に置かれています。それを生かしますと、この祈りは、

 あなたの御国が来ますように。

となります。
 この主の祈りの第2の祈りが祈り求めるのは、旧約聖書を通して約束されていたメシヤとして来られたイエス・キリストが王として支配される国です。それで、今はこのイエス・キリストが王として治めておられる神の国についてお話ししています。このように言いますと、何となくよその国の話のような気がします。けれども、この神の国はそこに私たちの永遠の国籍がある国です。私たちはイエス・キリストの恵みによって、この神の国の民としていただいています。
 先主日は、イエス・キリストが王として治めておられる神の国が、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることとつながっている、ということをお話ししました。
 今日お話しすることとの関わりでの補足を加えながら、そのことをまとめてみましょう。
 先ほど引用しました創世記1章27節、28節には、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。これは、神さまが人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を支配されるということを意味しています。神のかたちに造られている人間は、神さまの御名により、神さまのみこころにしたがって、この世界のすべてのものを治めるように召されているのです。
 ここには、人間が神さまの御名によって、神さまのみこころにしたがって、造られたすべてのものを治めるという意味での神の国があります。神さまが神のかたちに造られている人間を通してご自身がお造りになったこの世界を支配される神の国です。歴史と文化を造る使命とはこの意味での神の国の歴史と文化を造る使命であるわけです。
 本来ですと、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を忠実に果たし続けることによって神の国の歴史が造られ、その完成としてより充満な栄光に満ちた神さまのご臨在がある世界が出現するはずでした。そこでは、神のかたちに造られている人間が被造物に許される限りでの充満な栄光に満ちたものとなって、神さまのご臨在の御許でいのちの交わりにあずかり、神さまを礼拝することを中心として仕えるようになるはずでした。
 けれども、実際には、人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、歴史と文化を造る使命が神さまのみこころにかなって遂行されることがなくなってしまいました。先ほどの神の国の歴史は造られなくなってしまったということです。その結果、神さまのより充満な栄光に満ちたご臨在のある世界を来たらせるという、最初の創造の御業の目的が実現しないことになってしまいました。


 これには霊的な戦いが関わっています。先主日はこの点に触れないでお話をしました。創世記3章に記されていますように、野の獣として造られた「」の限界を越えた人格的な働きをする存在、サタンが最初の女性を誘惑して、神さまの戒めに背かせました。さらに、その最初の女性を通して、最初の人を神さまに背かせました。これによって、サタンが造り主である神さまのみこころを挫き、神の国とその歴史を崩壊させたかのように思われました。
 けれども、神さまは人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に贖い主による救いを約束してくださいました。創世記3章14節、15節に、

神である主は蛇に仰せられた。
 「おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。
 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されている通りです。これは「最初の福音」と呼ばれるものですが、実際には、霊的な戦いにおいて「」の背後にあって働いているサタンに対するさばきの宣言です。そのさばきは、最終的には、「」と呼ばれている「女の子孫」のかしらが、「おまえ」と呼ばれているサタンの頭を踏み砕くという形で執行されると言われています。
 これからお話しすることとの関わりで大切なことですが、ここでは、私たちは「女の子孫」として救われるということが示されています。私たちは、霊的な戦いにおいて「女の子孫」のかしらであられるメシヤがサタンに対するさばきを執行されることの中で救われるということです。
 神さまは、実際に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によってご自身の民の罪を贖ってくださり、贖い主の死者の中からのよみがえりによってご自身の民を復活のいのちによって生かしてくださいました。これによって、人間の罪による堕落をもって崩壊したかに見えた神の国と神の国の民とその歴史が回復されました。コロサイ人への手紙1章13節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されています。ここで「愛する御子のご支配」と言われているときの「ご支配」と訳されている言葉(バシレイア)は「国」を表す言葉です。ですから、「愛する御子のご支配」は「愛する御子の国」、イエス・キリストがメシヤとして治められる神の国のことです。
 神さまは、さらに、終りの日に再臨される栄光のキリストによって、サタンとそのしもべたちへの最終的なさばきを執行されます。そして、栄光のキリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい創造の御業を遂行されます。これによって、神さまが充満な栄光をもってご臨在される新しい天と新しい地が造り出されます。その新しい天と新しい地の到来によって神の国の歴史は完成します。これによって、最初の創造の御業の目的が実現します。

 あなたの御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りにおいて、私たちは、この神の国の歴史が造り出されるとともに、完成に至ることを祈り求めているのです。
 御言葉を通して示されている神の国の歴史についてのこのような全体的な見通しを踏まえたうえで、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を果たされたことに触れている新約聖書の教えを見てみましょう。
 新約聖書は創世記1章28節に記されている、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

という歴史と文化を造る使命に直接的には触れていません。その代わりに、詩篇8篇3節~6節に記されている、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という言葉を、時には部分的にですが、取り上げています。というのは、この詩篇8篇3節~6節に記されている言葉は、神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命が委ねられていることに触れているだけでなく、その使命が人間の罪による堕落によって取り消されたのではなく、今日に至るまで継続していることを示しているからです。
 その代表的な個所は、ヘブル人への手紙2章5節~10節です。そこには、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 ここでは、詩篇8篇3節~6節が引用されたうえで、

それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

と言われていますように、そこに示されている歴史と文化を造る使命が完全には実現していないことが示されています。それとともに、「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方」と言われているイエス・キリストが、その十字架の死を通して栄光をお受けになったことによって、原理的に歴史と文化を造る使命が成就していることが示されています。そして、神さまがイエス・キリストの死を通して「多くの子たちを栄光に導」いてくださることによって、歴史と文化を造る使命が成就されるようになることも示されています。
 エペソ人への手紙1章20節~23節に記されていることもこれを反映しています。そこには、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 ここで、神さまが、

キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

と言われているのは、詩篇110篇1節に、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることが成就したことを示しています。これは、メシヤのことを預言しているものです。そこに「あなたの敵」すなわちメシヤの敵が出てくることから分かりますように、これは霊的な戦いのことに触れるものです。それで、エペソ人への手紙1章に戻りますが、続く21節において、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われているときの「すべての支配、権威、権力、主権」は神さまと神さまがお立てになったメシヤに敵対して働いている霊的な存在のことです。同じエペソ人への手紙6章11節、12節には、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されています。
 1章では、続く22節において、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われています。ここには、

いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

ということが語られています。この「いっさいのもの」(パンタ)は「万物」のことです。つまり、これは、イエス・キリストが、先ほど引用しました詩篇8篇5節、6節において、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていたことが、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストによって成就していることを示しているのです。
 その成就は、22節、23節において、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていますように、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている栄光のキリストが、ご自身のからだである教会に宿ってくださることに具体的に現れてきます。そして、このキリストのからだである教会を中心として神の国の歴史が造られていきます。
 ここで注意したいのは、まず詩篇の110篇の成就として、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されて、その敵を足台とすることが記されており、次に、詩篇8篇5節、6節の成就として、歴史と文化を造る使命の実現が記されているということです。このことは、霊的な戦いにおける勝利を経て歴史と文化を造る使命が実現するということを意味しています。
 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業の完成によって、神のかたちに造られた人間に委ねられている歴史と文化を造る使命は原理的に成就しています。けれども、その最終的な完成は世の終わりのさばきの後に実現します。コリント人への手紙第1・15章23節~28節には、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

と記されています。
 先ほど取り上げましたエペソ人への手紙1章20節~23節においては栄光のキリストの現在の支配の姿が記されていました。それは、栄光のキリストの現在の支配としての神の国がどのようになっているかを示しています。これに対して、このコリント人への手紙第1・15章23節~28節では、この栄光のキリストの支配としての神の国が世の終りにどのようになるかを記しています。そして、ここでも、霊的な戦いにおける勝利を経て歴史と文化を造る使命が実現するということが示されています。
 具体的に見てみますと、24節、25節には、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

と記されています。

キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

という言葉は、詩篇110篇1節に記されている、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というメシヤに関する預言、メシヤの霊的な戦いにおける勝利のことを述べるものです。
 これに続いて、26節、27節節には、

最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。

と記されていて、詩篇8篇6節が引用されています。これは、神のかたちに造られた人間に委ねられている歴史と文化を造る使命が最終的に実現するに至ることを示しています。
 このように、新約聖書においては、神のかたちに造られた人間に委ねられている歴史と文化を造る使命の遂行が霊的な戦いの中でなされていること、そして、栄光のキリストが霊的な戦いに勝利されることを通して、歴史と文化を造る使命が最終的に実現することが示されています。このことから、最後に実現すべきことは、創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられている歴史と文化を造る使命が達成されることであることが分かります。
 このことは、創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられている歴史と文化を造る使命が、終末に至るまでの歴史においていかに大切なものであるかを示しています。さらに言いますと、霊的な戦いは、この歴史と文化を造る使命をめぐってなされている戦いです。サタンが最初の人とその妻を誘って、神である主に対して罪を犯させたことは、ただ単に、人を死と滅びに追いやっただけのことではありません。サタンは、神のかたちに造られている人間が歴史と文化を造る使命を果たすことがなくなることによって、造り主である神さまの創造の御業の目的が実現しないようになることを狙っていたのです。
 すでに見ましたように、歴史と文化を造る使命は栄光のキリストによって原理的に実現しています。それで、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによって、神の国の歴史は隠された形において造られています。そして、それは栄光のキリストの再臨の日に完成されます。これに対して、サタンとその下にある悪霊たちは最終的に栄光のキリストによってさばかれるようになりますが、今はしばらくの時を得て、神の子どもたちに歴史と文化を造る使命を果たさせまいとして、最後のあがきのような激しさをもって働いています。その意味で、今は霊的な戦いの状態が続いています。そして、それはよりいっそう激しさを増しています。
 これまでお話ししてきましたように、今日において、歴史と文化を造る使命は栄光のキリストのからだである教会を中心にして実現していきますので、霊的な戦いも栄光のキリストのからだである教会を中心にして戦われます。私たちはこのような御言葉が示す、神の国の歴史についての理解の下で、霊的な戦いの厳しさを覚えつつも望みをもって、切なる思いを傾けて、

 あなたの御国が来ますように。

と祈っていきたいと思います。

 


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