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説教日:2006年11月26日 |
これらのことを踏まえて、さらに、イエス・キリストが本来の意味で支配される神の国についてもう1つのことをお話したいと思います。それは、イエス・キリストが支配される神の国を通して、神さまの創造の御業の目的が実現し、完成するということです。このことは今回すべてお話しすることはできませんので、まずは基本的なことをお話しします。 創世記1章27節、28節には、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。神さまは人を神のかたちにお造りになって、これを祝福してくださり、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねてくださいました。 この使命は一般に「文化命令」と呼ばれていますが、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 と言われていますように、子々孫々と受け継がれていく使命であり、歴史的な意味をもっています。この使命が歴史的な意味をもっていることは、この、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という言葉からだけでなく、これからお話しすることからも分かるようになると思います。それで、私はこの使命は「歴史を造る使命」と呼んだほうがいいと考えていますが、実際には、これと一般的な理解を合わせて「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。 この使命では人が、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と命じられています。この場合の、「従えよ」とか「支配せよ」ということは、人が罪によって堕落する前の本来の支配することを意味しています。実際、 地を従えよ。 と命じられた人について、創世記2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。人が地を従えることの具体的な現れは、その地を耕すことでした。この「耕す」という言葉(アーバド)は「仕える」ということ、時には「奴隷として働く」ということをも表す言葉です。この言葉の名詞形(エベド)は「しもべ」を意味しています。ですから、本来であれば、神のかたちに造られている人間は、自分に委ねられたものたちに仕えるために、自分に与えられている能力を傾けていったはずです。それは、何よりも、神のかたちの本質的な特性である愛の表現であるはずです。 このように、歴史と文化を造る使命を遂行することは、自分に委ねられたものたちへの愛を表現することであったのです。さらに、その使命は、それに先だって語られている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という造り主である神さまの祝福の言葉に示されているように、神のかたちに造られている人間自身の社会的なつながりの拡大を示しています。それは、神のかたちに造られている人間がお互いの愛を深めつつ、その愛を拡大していくことを意味していました。そして、この使命を果たすことは、何よりも、祝福とともにこの使命を委ねてくださった神さまへの愛を現すことでありました。 ですから、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまから委ねられた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を遂行することは、神さまへの愛とお互いへの愛を表すことであり、さらには、自分に委ねられたものたちへの愛を表すことでした。それによって、神のかたちに造られている人間はあらゆる意味において愛を深めていくようになったはずです。愛はそれを具体的に現すことにより、その人のうちで深くなっていきます。愛は与えれば与えるほど豊かになるものです。 これらのことを神の国という観点から見ますと、造り主である神さまは神のかたちに造られている人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を支配されるということです。その意味で、ここには、神のかたちに造られている人間が、神さまの御名によって、それゆえに神さまのみこころにしたがって治める神の国があるということになります。このことを理解することは、主の祈りの第2の祈りにおいて、 あなたの御国が来ますように。 と祈るときの神の国を理解するうえで大切なことです。後ほどお話ししますが、この意味での神の国が、イエス・キリストが王として治められる神の国につながっています。 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人間は、このような神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たすことによって、自分自身が神のかたちとして成長し、愛において成熟したものとなっていったはずです。さらに、そのような人間の愛に基づく奉仕によって整えられるこの世界は、造り主である神さまの栄光をより豊かに映し出す世界へと整えられていったはずです。 その世界がその後どうなっていたかについては、御言葉の全体から推測するほかはないのですが、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまから委ねられた使命を忠実に果たし続けたことへの報いとして、充満な栄光に満ちたものに変えられていたと考えられます。もちろん、その充満な栄光は、被造物としての充満な栄光です。それは、神さまとの愛にあるいのちの交わりが充満な栄光に満ちた、まったき交わりとなるためです。そればかりでなく、神のかたちに造られている人間に委ねられたこの世界も、そのような充満な栄光に満ちた人間の住み処にふさわしく栄光あるものに変えられていたことでしょう。 このことは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてなされる新しい創造の御業を通して実現する、新しい天と新しい地に関する御言葉の啓示に基づいて考えられることです。その新しい天と新しい地が創造の御業の目的の回復と完成として示されているのです。 新しい天と新しい地については黙示録21章1節〜4節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 ここに示されています「新しい天と新しい地」は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてなされた新しい創造の御業によって造り出されたものです。けれども、これは最初の創造の御業と関係がないものなのではなく、最初の創造の御業の完成した姿を示しています。そのことは、この21章1節〜4節に記されていることから始まる新しい天と新しい地の描写を受けて、22章1節〜5節に、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されていることから分かります。 ここに記されていることは、創世記2章4節〜14節に記されていることを受けています。そこには、 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。 と記されています。 ここにはエデンの園のことが記されています。それは、園の中央にある「いのちの木」や「善悪の知識の木」を中心とする、豊かな実をならせる木々の生い茂るところでした。これによって、神さまのご臨在の御許にあるいのちの豊かさが表示されています。さらに、地を潤すとともに自ら豊かないのちを育む「一つの川」(「川」の単数形)が地の4方に支流となって流れ出ていました。そして、その川の流域に宝石が産出するということによっても、神さまのご臨在の豊かさを象徴的に示しています。この川の描写から、エデンの園は高い所にあったということが推測されます。いずれにしましても、エデンの園はその中央にあった「いのちの木」によって示されていますように、神さまのご臨在の場であり、そこで人はそこにご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりの祝福にあずかっていたと考えられます。 先ほど引用しました黙示録22章1節〜5節に記されていることは、このエデンの園において示されていた神さまのご臨在の祝福がさらに豊かなものとなっていることを示しています。エデンの園の中央にあった「いのちの木」は1本の木でした。これに対して、新しい天と新しい地における主のご臨在の御許においては、 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 と言われています。「いのちの木」によって示されているいのちはそこにご臨在される神さまと小羊との愛にある交わりを本質とするいのちですが、そのいのちがより豊かなものとなっていることが見て取れます。ちなみに、この黙示録22章2節に出てくる「いのちの木」も単数形です。これについては意見が分かれていますが、この場合は集合名詞で、「いのちの水の川」の両岸に「十二種の実」をならせる木々があったと考えられます。 このように、新しい天と新しい地においては、充満な栄光に満ちた神さまと小羊のご臨在があります。そして、小羊がご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている者は、そのご臨在の御許におけるいのちの交わり、すなわち永遠のいのちの祝福にあずかるようになります。ここに記されていることが創世記2章に記されていることに対応していることから、これは最初の創造の御業によって始められたことの完成であると考えられるのです。 ですから、最初の創造の御業によって造られたこの世界は歴史的な世界であって、それには目的があったと考えられます。その目的は、この新しい天と新しい地において示されている状態に至ることです。そこに神さまのより豊かな栄光のご臨在があり、被造物に許される限りでの充満な栄光に満ちた神さまの民が、そのご臨在の御許でいのちの交わりにあずかり、神さまを礼拝することを中心として仕えるようになることです。本来ですと、先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を忠実に果たし続けることによって歴史が造られ、その完成としてより充満な栄光に満ちた世界が出現するはずでした。 けれども、実際には、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。そのために、神さまの栄光のご臨在にふさわしい世界を来たらせる歴史は造られることがなくなってしまいました。このことは今日に至るまでの世界の歴史を見ればよく分かります。 このようになってしまったことの経緯は創世記3章に記されています。そこには人間の罪による堕落のことが記されていますが、その背景には、1章27節、28節に記されています、神さまが人を神のかたちにお造りになって、この世界のすべてのものをみこころにしたがって支配する使命、すなわち歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことがあります。神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは、その歴史と文化を造る使命が神さまのみこころにかなって遂行されることがなくなってしまったということを意味しています。それによって、神さまのより充満な栄光に満ちたご臨在のある新しい天と新しい地を来たらせるという、最初の創造の御業の目的が実現しないことになってしまいました。 けれども、これまでお話ししてきましたように、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい創造の御業を遂行され、新しい天と新しい地を造り出されます。その新しい天と新しい地は、最初の創造の御業の目的を実現するものです。このように、その実現に至る道筋は違っているのですが、神さまのより充満な栄光に満ちたご臨在のある新しい天と新しい地を来たらせるという、最初の創造の御業の目的は実現することになります。 そして、その実現に至る道筋は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を経るという意味で違ってはいますが、その根拠は変わってはいません。どういうことかと言いますと、具体的なことは日を改めてお話ししますが、新約聖書は一貫して、人の性質を取って来られた御子イエス・キリスト、まことの人となられたイエス・キリストが、歴史と文化を造る使命を果たされたとあかししているのです。つまり、神のかたちに造られている人間(実際にはイエス・キリストとその贖いの御業にあずかっている者たち)が歴史と文化を造る使命を果たすことによって新しい天と新しい地がもたらされるということには変わりがないということです。 再びこのことを神の国という観点から見てみましょう。先ほどお話ししましたように、造り主である神さまは神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を与えられたことによって、人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を支配されるというみこころを示されました。そこに、神のかたちに造られている人間が、神さまの御名により、神さまのみこころにしたがって治める神の国があります。その人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって神の国は崩壊したかに見えました。しかし、約束のメシヤ、すなわち、人の性質を取って来られた御子イエス・キリスト、まことの人となられたイエス・キリストが、歴史と文化を造る使命を果たされるようになりました。また、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかっている主の民も、イエス・キリストにあって、イエス・キリストの御名によって、歴史と文化を造る使命を果たすようになりました。これによって、先ほどの神の国が回復されました。これが、イエス・キリストがメシヤとして治められる神の国です。そして、私たちが主の祈りの第2の祈りによって、 あなたの御国が来ますように。 と祈るときの「あなたの御国」は、このイエス・キリストが王として治めてくださる神の国のことです。 ですから、私たちは、この主の祈りの第2の祈りを祈ることによって、神さまの創造の御業の目的が実現し、完成するようになることを祈っているのです。 |
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