(第81回)


説教日:2006年11月19日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてのお話を続けます。ギリシャ語の原文では「御国」に「あなたの」という言葉がついていて強調されていますので、それを生かして訳しますと、この祈りは、

 あなたの御国が来ますように。

となります。これまでこの祈りの中心主題である「あなたの御国」すなわち神の国についてをお話ししてきました。
 まず、言葉の問題をお話ししました。私たちの言葉で「国」と言いますと地理上の領土やそこに住んでいる国民を思い起こします。しかし、聖書において、神の国というときの「国」という言葉はヘブル語でもギリシャ語でも基本的には「王が支配すること」を表しています。それで、神の国とは神さまが王として支配されることを意味しています。
 さらに先週は、この「支配すること」の意味が、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、自己中心的に歪められてしまっているということをお話ししました。自らのうちに罪の性質を宿している人間は、その罪の性質の現れである自己中心性に捕えられてしまっています。そのために、「支配すること」は力のある者、能力のある者が上に立って権力を振るうことであるというイメージができてしまっています。けれども、天地創造の初めに神さまが人をご自身のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったものを支配するようにお命じになったときの「支配すること」は、堕落後の人間の言葉でいえば、「仕えること」「お世話をすること」というような意味です。自分に委ねられたものの特性を知り、それらを育み育てることのために与えられている能力を傾けるということです。
 神さまはこの世界のすべてのものをお造りになった方として、すべてのものを支配しておられます。それは、この世界のすべてのものが、神さまの御手のお支えによって、それぞれの特性を発揮して存在していることに現れてきています。神さまは空の鳥を養い、野の花を装わせておられますが、決してそれらを搾取されることはありません。神の国の基本的な意味は、神さまがこのような本来の意味で支配されることです。


 神さまが支配されることとしての神の国にはいくつかの面があります。その最も広い意味は、先ほどお話ししましたように、造り主である神さまがお造りになったすべてのものを治めておられるということです。言い換えますと、神さまがお造りになったすべてのものの存在を支えておられるということです。この神さまの支えがなければ、造られたものは何一つ存在することはできません。神さまに敵対して働いているサタンでさえも、神さまに支えていただいて存在しているのです。この意味での神さまの支配は、今すでにこの造られた世界の現実となっています。それで、私たちが主の祈りの第2の祈りにおいて、

 あなたの御国が来ますように。

と祈るのは、この最も広い意味での神さまの支配が現実になるように祈るのではありません。
 この主の祈りの第2の祈りにおいて私たちが祈り求めている神の国は、マルコの福音書1章15節に記されている、

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

というイエス・キリストの言葉に示されている「神の国」のことです。ここでは、イエス・キリストが約束のメシヤとしてのお働きを開始されたので、「神の国」が近くなったと言われています。つまり、この「神の国」はイエス・キリストが約束のメシヤとして治められること、本来の意味で支配することを意味しています。もちろん、それは、ヨハネの福音書10章10節、11節に記されている、

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

というイエス・キリストの言葉に示されていますように、「」にたとえられているご自身の民が豊かないのちをもつようになるために、主であられるイエス・キリストがご自身のいのちを捨ててくださることに典型的に現れてくる支配です。それは、この世の支配者たちや特権階級の者たちが、自分たちの下にいる人々の上に権力を振るうこととはまったく違っています。
 このようなメシヤの支配については旧約聖書においてさまざまに預言されていました。その典型的な預言は、イザヤ書40章以下にある4つの「主のしもべの歌」です。少し前にその第1の歌を取り上げましたが、4番目の歌は52章13節〜53章12節に、次のように記されています。

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
 多くの者があなたを見て驚いたように、
    その顔だちは、
 そこなわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。  
 そのように、彼は多くの国々を驚かす。
 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らは、まだ告げられなかったことを見、
 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕は、だれに現われたのか。
 彼は主の前に若枝のように芽生え、
 砂漠の地から出る根のように育った。
 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。
 彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く小羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。
 しいたげとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
 生ける者の地から絶たれたことを。
 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
 彼は富む者とともに葬られた。
 彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。
 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

 この歌についてはいろいろな機会に触れてきましたが、ここでは、今お話ししているメシヤの支配ということと関わりのあることをお話ししたいと思います。この歌で取り上げられている「主のしもべ」は一般に「苦難のしもべ」と呼ばれています。それは、この歌は「主のしもべ」が受ける苦難についての歌であるという見方を反映しています。この見方にはそれとしての意味があります。この歌の大部分は「主のしもべ」が受ける苦難のことを述べています。
 けれども、この歌は、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

という言葉で始まっています。また、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

という言葉で終っています。ですから、この歌は「主のしもべ」の栄光のことを預言的に述べているものです。
 このように、この歌は「主のしもべ」の栄光のことを述べている歌ですが、その歌のほとんどの部分で「主のしもべ」の苦難のことが歌われています。これは、一見するとおかしなことに見えます。けれども、先週もお話しし、先程もお話ししましたように、神の国の王であられるメシヤ、すなわち、イエス・キリストの栄光がどのようなものであるかを考えますと決しておかしなことではありません。4節〜7節において、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。
 彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く小羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。

と歌われているメシヤの姿こそが、神の国の王としてのメシヤの栄光の現れです。
 このことは新約聖書においてもあかしされています。それは先週取り上げましたマタイの福音書20章20節〜28節に記されていることから分かりますが、その他の個所にも示されています。たとえば、ヨハネの福音書12章20節〜24節には、

さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

と記されています。
 20節で言われている「祭り」は過越の祭りのことです。イエス・キリストは過越の小羊の成就として、過越の日に十字架につけられて、その血を流されることになります。出エジプトの時代に、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放してくださるために、十のさばきをもって、エジプトをおさばきになりました。その最後のさばきは、人も家畜も含めて、エジプトの地にある初子を撃つことでした。イスラエルの民は過越の小羊を用意し、その日の夕暮れにそれをほふって、その血を家の鴨居と門柱に塗りました。さばきを執行する御使いはエジプトの初子を撃ちました。しかし、その家に小羊の血が塗ってあるのを見ると、そこではすでにさばきが行われているとして、その家を通りすぎました。それが過越です。過越の小羊はその家の初子の身代わりとなっていのちの血を流したのです。その後、イスラエルの民はこのことを覚えて過越の祭りを行ってきました。
 この過越の祭りのためにエルサレムに上ってきた人々の中に「ギリシヤ人が幾人かいた」と言われています。その人々がイエス・キリストにお会いしたいと願いました。間もなく、ユダヤ人たちはイエス・キリストを見捨てて十字架につけて殺してしまうことになります。そのような状況にあって、異邦人である「ギリシヤ人」がイエス・キリストの御許にやって来たのです。そのことを受けて、イエス・キリストは、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。

と言われました。ここで「人の子が栄光を受けるその時」とは、イエス・キリストが十字架につけらる時、過越の小羊の本体としてご自身の民の罪を贖い、彼らにいのちを与えるためにご自身の血を流される時です。そのことは、これに続いて、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と言われていることから分かります。
 このイエス・キリストの言葉はさらに続きますが、27節〜32節には、

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

と記されています。
 イエス・キリストが、

父よ。この時からわたしをお救いください。

と言われ、さらに、

いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

と言われたときの「この時」とは過越の小羊の成就として十字架にかかられる時のことです。父なる神さまはこのイエス・キリストの祈りにお答えになって、

わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。

と言われました。この「またもう一度栄光を現わそう」と言われているときの「栄光」は、イエス・キリストが、

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

と言われることに現れる栄光です。この、

わたしが地上から上げられるなら

という言葉は、先ほど引用しましたイザヤ書52章13節の、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

という「主のしもべの歌」の言葉を思い出させます。実際、この少し後の37節、38節においては、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

と記されています。ここではイザヤ書53章1節が引用されています。このようなユダヤ人の不信仰にもかかわらず、異邦人である「ギリシヤ人」がイエス・キリストの御許にやって来ていました。

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

というイエス・キリストの言葉の「すべての人」にその「ギリシヤ人」も含まれているわけです。
 ヨハネは、このイエス・キリストの言葉について、

イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

と注釈しています。この注釈がなければ、このイエス・キリストの言葉は、ご自身が天にあげられ、父なる神さまの右の座に着座されることを述べていると考えることでしょう。しかし、ここであかしされているイエス・キリストの栄光は、ご自身の民の罪の贖いのために十字架につけられて死ぬことに現される栄光です。そして、それによってご自身の民をご自身の御許に引き寄せてくださることに現される栄光です。まさに、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と言われている栄光と同じです。
 イザヤ書52章13節〜53章12節に記されている「主のしもべ」の栄光は、「主のしもべ」であるメシヤが、ご自身の民の罪を贖うために、その罪のさばきを彼らに代わって受けてくださり、彼らには罪の赦しと回復を与えてくださることに現される栄光でした。そのようにして、神の国の王として支配される方が、ご自身の民のためにいのちをお捨てになることに、神の国の栄光の本質的な特性があります。そして、これこそが神さまの栄光の現れであるのです。それは、ヨハネの福音書12章27節、28節に記されていましたが、イエス・キリストの、

父よ。御名の栄光を現わしてください。

という祈りにお答えになった父なる神さまの、

わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。

という父なる神さまの言葉に示されています。
 イザヤ書52節13節〜15節には、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
 多くの者があなたを見て驚いたように、
    その顔だちは、
 そこなわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。  
 そのように、彼は多くの国々を驚かす。
 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らは、まだ告げられなかったことを見、
 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

と記されていました。父なる神さまの栄光、すなわちまことの栄光は、栄光の主、約束のメシヤが、ご自身の意志で、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれたことにおいて最も豊かに現されました。これが、神の国の王の栄光であり、神の国の栄光の本質的特性です。
 これに対して、この世の王たち、支配者たちは、その主権の下にある人々の上に権力を振るうという、それとはまったく違う方向に栄光を求めてきました。彼らがまことの栄光とはまったく違う栄光を求めていたことは、やがて世の終りに真の栄光が現される時、すなわち、ほふられた小羊が栄光のうちに現れる時に明らかになります。その時には、イエス・キリストの十字架こそが真の栄光の現れであるということがこの上なくはっきりと示されます。それで、この世の王たち、支配者たちは、自分たちが求め続け、実際に積み上げた栄光が真の栄光ではなかったこと、まったく空しいものであったことを悟るようになります。そのことは、すでにこれまでの歴史においても示されています。かつてその栄華を誇った帝国や王国は、今や廃虚と化しています。そのような事実が積み上げられていても、人々はそれが空しい栄光であることを悟ることがありません。
 イザヤが、

 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らは、まだ告げられなかったことを見、
 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

と預言していることは、やがて、メシヤの苦難と死こそが真の意味で神さまの栄光を映し出すものであることがはっきりと示され、王たちがそれを悟るということでしょう。

    その顔だちは、
 そこなわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。  

と言われるほどに痛めつけられ苦しめられる「主のしもべ」こそが栄光の主であられるということ、その方がご自身の民のために苦しみを味わわれることこそが神さまの栄光の現れであることが示されるようになります。そして、その事実を前にして、

 王たちは彼の前で口をつぐむ

ほかはありません。
 私たちは、イエス・キリストの十字架において示されている栄光を映し出す神の国を考えて、

 あなたの御国が来ますように。

と祈るのです。

 


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