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説教日:2006年11月12日 |
これらのことから、「神の国」について理解するためには、ヘブル語やギリシャ語で表される「神の国」と、日本語で表される「神の国」の間に意味合いの違いがあることをわきまえなければならないことが分かります。けれども、ここには、ヘブル語やギリシャ語が表すことと日本語が表すことの違い以上に大きな問題があります。それはどのような言語で「神の国」と言っても変わりなく問題となることです。 それは、私たちがこの世界の現実である、罪のために自己中心的に歪んでしまっている支配になじんでいるために、「支配すること」についての私たちの発想も歪んでしまっているということです。このことにつきましては、これまでいろいろな機会にお話ししてきましたが、この主の祈りの第2の祈りとの関連でも大切なことですので、改めて確認しておきたいと思います。 私たち自身のうちに罪の自己中心性があるうえ、罪のために自己中心的に歪んでしまっている支配になじんでいるために、「支配」とか「支配する」という言葉を聞くと、権力者がその下にある者を力尽くで押さえつけて従わせることというような発想が出てきます。かつての専制君主や今日の独裁者が民を抑圧し、特権階級が弱い立場の者を搾取しているという現実が、昔も今も変わることなくあります。民主的な政治体制の下でも、数の力の横暴が目に余る事態が生じたり、特権的な立場にある者が、さまざまな工作をして自分たちに有利な政策を遂行するということは随所に見られます。このような現実が「支配すること」のイメージを作り上げてしまっています。けれども、それは人間の本性が罪によって腐敗しているために、「支配すること」が自己中心的に歪められてしまっているからです。それは、本来の「支配すること」の意味ではありません。 このような現実がありますので、たとえば、創世記1章26節〜28節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていることを取り上げて、聖書は神のかたちに造られている人間が自然を破壊し、生き物たちを搾取することを許可している、というようなことが言われたりすることがあります。 けれども、ここに記されている造り主である神さまの命令は、神さまに対して罪を犯して御前に堕落する前の人間に対して与えられたものです。それで、ここでは「支配せよ」という言葉は、人間の罪の自己中心性によって歪められる前の、本来の意味で語られています。 それでは、その本来の意味での「支配すること」とはどのようなことなのでしょうか。 イエス・キリストは、自らの罪の自己中心性によって歪められてしまっている「支配すること」のイメージをもってお互いの間で争っている弟子たちに、その「支配すること」の本来の意味を教えられました。マタイの福音書20章20節〜28節には、 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」 と記されています。 ここには「ゼベダイの子たちの母」が出てきます。「ゼベダイの子たち」とはイエス・キリストの十二弟子の中のヤコブとヨハネのことです。ですから、ここには、いわばゼベダイの家族が登場してきているわけです。 ここに記されていることに先立って17節〜19節に、 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 と記されていますように、イエス・キリストはエルサレムに上ろうとしておられました。同じ頃のことを記しているルカの福音書19章11節には、 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。 と記されています。そのように、イエス・キリストがエルサレムに上られることを見た人々は、それは、イエス・キリストがメシヤの国を確立されるためのことであると考えたようです。 その当時の人々が抱いていたメシヤに対する期待に当てはめて言いますと、イエス・キリストがエルサレムにおいてメシヤとしての力を発揮されて、自分たちを支配しているローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人を中心として世界を支配する国を来たらせるということです。それは、メシヤの支配する国ですから、ローマ帝国以上に壮大で華麗な繁栄を誇る国であるはずでした。 ゼベダイの家族も、このような機運を感じて、いち早くイエス・キリストにお目通りを願い、母親が代表して、 私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。 と願ったのであると考えられます。彼女はイエス・キリストに「あなたの御国」と言っています。それは、まさにイエス・キリストがメシヤとして支配し、治める御国のことです。当然その王位にはイエス・キリストが着座されることが踏まえられています。そして、その次の位がその右の座であり、次いで左の座であるわけです。 これに対してイエス・キリストは、 あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。 とお答えになりました。もちろん、彼らは自分たちが何を求めているか知っています。メシヤが来たらせてくださる栄光の御国においてメシヤの次に栄光ある位に着きたいということです。そのことはイエス・キリストも十分に承知しておられます。そのうえで、 あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。 とお答えになりました。それで、イエス・キリストが問題としておられるのは、ゼベダイの家族がメシヤの国、神の国のことを根本的に誤解しているということです。それがどのようなことであるかは、後ほど語られるイエス・キリストの教えにおいて示されることになります。 イエス・キリストは続いて、 わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。 と問いかけられました。この場合の「杯」は比喩的に用いられていますが、旧約聖書においては苦難、特に、神さまのさばきによってもたらされる苦難を表すものでした。イエス・キリストが十字架にかかられる前の夜、ゲツセマネにおいて祈られた祈りを記しているマタイの福音書26章39節には、 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 と記されています。イエス・キリストが言われる「この杯」は、十字架の苦しみを意味しています。それは、十字架刑がもたらす肉体的な苦しみ以上の苦しみです。私たちご自身の民の罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださることによる苦難です。それは、文字通り、地獄の刑罰の苦しみです。それを、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって負ってくださり、実際に味わってくださったので、私たちの罪は完全に贖われているのです。イエス・キリストの言われる「わたしが飲もうとしている杯」はこのようなことを意味しています。 ゼベダイの子たちはその「杯を飲むこと」が苦難を経験することであることは理解したはずです。しかし、具体的にどういうことであるかを問うことなく、即座に「できます。」と答えました。それは、メシヤの国で栄光の座に着くためなら何でもするという意味でしょう。その当時の考え方から言いますと、メシヤがローマ帝国との戦いを始めたなら、そのためにいのちをも捨てるというような意味合いがあったと考えられます。いずれにしましても、ゼベダイの子たちは、イエス・キリストが飲もうとしておられる「杯」のことをまったく誤解していました。 これに対してイエス・キリストは、 あなたがたはわたしの杯を飲みはします。 と言われました。もちろん、ゼベダイの子たちは、イエス・キリストと同じように、人の罪を贖うために死ぬことはできません。それは彼ら自身に罪があり、彼ら自身が罪のさばきを負うべき者であるからです。その罪はイエス・キリストの十字架の死によって贖っていただくほかはありません。けれども、彼らは、そして、私たちもですが、そのイエス・キリストの成し遂げてくださった罪の贖いによって罪を贖われた者として、生きることができます。実際、ゼベダイの子であるヤコブは殉教し、ヨハネはパトモスという島への流刑に遭いました。ヨハネはそこで栄光のキリストの啓示を受けて黙示録を記すことになります。それが、狭い意味での、彼らがイエス・キリストの苦難にあずかることでありました。これにはより広い意味がありますが、それについては、後ほどお話しいたします。 24節には、 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。 と記されています。もちろん、これは競争心や嫉妬心から出たことです。「ほかの十人」もゼベダイの子らと同じことを考えていたわけです。 このことを受けて、イエス・キリストは、続く25節〜27節に記されていますように、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 と教えられました。 あなたがたも知っているとおり、 というのは、それは一般常識として皆が知っていることであるというを意味しています。そして、 異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 と言われました。「異邦人の支配者たち」の「異邦人」(エスノス・ここでは複数形エスノイ)は、「民族」、「国民」とも訳せます。その場合には、イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の区別をされないで、この世界の「支配者たち」や「偉い人たち」のことを述べておられるということになります。いずれにしましても、これを聞いた当時の人々が具体的に思い出すのは、ローマ帝国による圧制です。強大な軍事力を背景として国々を制圧し、その属領となった地の民たちを搾取して帝国を富ませています。その陰でどれほどの人々の血が流され、苦しみと悲しみの涙と叫びがあったことでしょうか。 イエス・キリストは続いて、 あなたがたの間では、そうではありません。 と言われました。ここには「しかし」というような接続詞もありません。これによって、その前とのつながりがまったくないという感じを伝えています。「あなたがたの間では」というのは、イエス・キリストの弟子たちの間ではということですが、言い換えればメシヤの御国としての神の国においてはという意味です。「そうではありません」というのは、未来形で記されています。未来形で記されていることは、この後のイエス・キリストの教えもそうですが、新改訳で命令として訳されていることから分かりますように、命令としての意味合いをもっています。それを生かしますと、これは、 あなたがたの間では、そうであってはなりません。 となります。そして、イエス・キリストは、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 と言われて、メシヤの御国の民のあり方をお示しになっておられます。 これは、読み方を間違えますと、「将来、天国に行ってから皆の上に立ちたいなら、今は皆に仕えるようにしなさい。そうすれば、神さまはそれに報いてくださって、皆の上に立つようにしてくださいます。」というような教えと理解してしまいます。これは、まったくの誤解です。そもそも、「天国」というのは「天の御国」のことです。それは、メシヤであられるイエス・キリストが支配し、治めておられる御国のことです。 そして、イエス・キリストの支配がどのようなものであるかは、イエス・キリストご自身が、 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 と言っておられる言葉に表されています。メシヤの御国において最も栄光ある出来事は、その王であられる方がご自身の民を罪と死と滅びから救い出すために十字架にかかって死なれたことなのです。王として支配する方がその民のためにいのちをお捨てになったということがメシヤの御国における支配の出発点であり、土台であり、本質です。メシヤの御国における支配はこのことを映し出すものです。この点は永遠に変わることがありません。 すでに旧約聖書において、支配者の本来の姿が羊を養い、育み育てる羊飼いにたとえられています。そして、メシヤの支配は羊飼いが弱った羊を強め、傷ついた羊をいやし、迷った羊を連れ戻したりして、羊を養うことにたとえられて預言されています。それを受けてイエス・キリストは、ヨハネの福音書10章10節後半と11節に記されていますように、 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 と言われました。これがメシヤの御国の支配のあり方です。メシヤの御国における栄光の規準は、王としてのイエス・キリストの十字架の栄光です。それをどれほど映し出すかによって栄光の度合いが決まるのです。 このメシヤの御国において、「支配すること」の本来の意味が回復されています。天地創造の初めに造り主である神さまが、神のかたちに造られている人間に命じられた、生き物たちを支配するようにという命令は、この本来の意味において「支配すること」を求めるものです。それはヨハネの福音書10章のイエス・キリストの言葉を用いれば、その生き物たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つためです」ということになります。さらにマタイの福音書20章のイエス・キリストの言葉を用いれば、生き物たちに「仕える者」となるということです。 先ほど、ゼベダイの2人の子、ヤコブとヨハネは殉教と流刑に至る迫害を受けたことにおいて、イエス・キリストの苦難にあずかったということをお話ししました。しかし、そのような迫害に遭わないとしても、主の民すべては、イエス・キリストの苦難にあずかる生き方へと招かれています。ゼベダイの子の1人であるヨハネは、その第1の手紙3章16節で、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と述べています。兄弟への愛において自分を捨てること、そのようにして兄弟に仕えることが、メシヤの御国の王であられる方の支配を映し出すことであり、メシヤの国の民としての栄光の本質的な特性なのです。 主の祈りの第2の祈りにおいて、 あなたの御国が来ますように。 と祈るのは、ご自身の民のためにいのちをお捨てになった方の栄光が映し出される御国が私たちの間の現実となることを祈り求めることです。 |
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