(第79回)


説教日:2006年11月5日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第2の祈りは、

 御国が来ますように。

という祈りです。ギリシャ語の原文では、この「御国」には「あなたの」という言葉が付いています。そして、それは最後に置かれていて強調されています。それを生かして訳しますと、この祈りは、

 あなたの御国が来ますように。

となります。また、この祈りは3人称の命令形で記されています。それは、神さまがご自身の御国を来たらせてくださることを、ていねいな形で願うものです。
 これらのことから、私たちがこの主の祈りの第2の祈りを真実に祈るためには、この祈りの中心主題である神さまの御国がどのようなものであるかを理解していなければならないことが分かります。それで、これまで、神の国についていくつかのことをお話ししてきました。
 もっとも基本的なこととして、言葉のことをお話ししました。「国」を表すヘブル語のマルクートもギリシャ語のバシレイアも、基本的には、王の支配、王が治めることを意味しています。そして、そこから派生して、つまり2次的な意味として、王が支配している領土や民を意味します。日本語で「国」といいますと、むしろこの2次的な意味である「領土」や「民」の方を思い出します。それで、この違いをしっかりと踏まえておく必要があります。

 あなたの御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りでは、神さまが治めてくださることが、あらゆる意味においてこの世界の現実となることを祈り求めるものです。「あらゆる意味において」というのは、聖書において示されている神の国にはいくつかの意味があるからです。そのすべての意味において、神の国がこの世界の現実となることを祈り求めるのです。
 先週は、神の国のいくつかの意味のうち2つのことをお話ししました。今日は、その2つのことの関係を、先週とは別の面からお話ししたいと思います。
 神の国の意味の1つは神さまがこの世界のすべてのものをお造りになった方として、お造りになったすべてのものを、真実な御手をもって治めておられるということです。これが最も広い意味での神の国です。
 詩篇119篇89節〜91節には、

 主よ。あなたのことばは、とこしえから、
 天において定まっています。
 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えたので、
 地は堅く立っています。
 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 すべては、あなたのしもべだからです。

と記されています。
 ここには「」と「」が出てきます。この2つの言葉の組み合わせで、神さまがお造りになったすべてのものを示します。今日の言葉で言いますと、150億光年の彼方に広がっている壮大な宇宙ということになります。91節最後の、

 すべては、あなたのしもべだからです。

という言葉は、神である主がこの壮大な宇宙のすべてのものを治めておられる主であられることを示しています。90節で、

 あなたの真実は代々に至ります。

と言われていますように、神さまは真実をもってこの宇宙のすべてのものを治めてくださっています。
 これらは宇宙大の神さまの支配ですが、転じて私たちの住んでいる地に目を注ぎますと、マタイの福音書6章26節には、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。

と記されています。ここには神さまの愛といつくしみに満ちた御手の支配が、神さまによって造られた小さなものにまで及んでいることがあかしされています。私たちの間では鳥はそんなに多くはありませんが、その当時の社会では鳥はとても多かったようです。マタイの福音書10章29節に、

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

と記されていますように、「アサリオン」は小さなコインですが、2羽まとめて「一アサリオン」として売られているというのです。商品としてもそれほど価値がないものですが、神さまはそれにも目を留めておられます。
 これらは、私たちの目に見えるものですが、それだけでなく、神さまは御使いたちやサタンをかしらとする悪霊たちをも真実な御手をもって支えておられます。もちろん、神さまは悪霊たちがご自身に対して敵対して働いているのをよしとして支援するという意味で支えておられるのではありません。サタンを初めとする悪霊たちは神さまによって造られたものですので、神さまのお支えがなければ存在することさえできないものです。悪霊たちは神さまの御手に支えられながら、神さまに敵対して働いているのです。
 このように、神さまは見えるものも見えないものも、大きなものも小さなものも、ご自身がお造りになったすべてのものを真実な御手をもって治めておられます。これが最も広い意味での神の国です。


 神さまは天地創造の御業を6つの日にわたって遂行されました。この場合の日は天地創造の日ですので、必ずしも、私たちが住んでいる地上の日と同じというわけではありません。この日をどう理解するかについては意見が分かれています。ある人々はそれは地上の24時間の日と同じであると考えています。また、ある人々は一定の期間であると理解しています。さらに、それは文学的な枠組みであって、時間的な長さや順序は問題とならないと考えています。しかし、いずれの見方を取るとしましても、神さまが天地創造の御業を6つの日にわたって遂行されたことの意味について一致していることがあります。
 第1に、神さまが創造の御業によってこの世界を時間的な世界、すなわち、歴史的な世界としてお造りになったということです。
 第2に、神さまの創造の御業は、神さまが人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったこの世界を治める使命をお授けになったことにおいて頂点に達したということです。創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 第3に、神さまの創造の御業の全体が第7日の神さまご自身の安息を目的としているということです。言い換えますと、神さまがお造りになったこの世界は、造り主であられる神さまの安息の完成の実現に向かって進む歴史的な世界であるということです。創世記2章1節〜3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。
 この天地創造の第7日はまだ閉じてはいません。それで、天地創造の御業以来続いているこの世界の歴史がこの天地創造の第7日であると考えられます。この第7日は終りの日に栄光のキリストが再臨される日まで続きます。栄光のキリストが救いとさばきをもってそれまでの歴史を清算されてから再創造される新しい天と新しい地において、第8日が始まります。ですから、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間は、神さまが祝福して聖別してくださった第7日のうちで、歴史と文化を造り出すように召されているのです。ですから、私たちはこの造り主である神さまが祝福し聖別された天地創造の第7日のうちに生きています。
 このように、本来ですと、神のかたちに造られている人間が、神さまのみこころにしたがってこの世界のすべてのものを治めて、神さまの安息の完成へと至る歴史と文化を造ることによって、造り主である神さまの栄光がより充満な形で現されるようになるはずでした。それは、天地創造の第7日の祝福と聖別によって、神さまがいっさいのことを支えてくださり、導いてくださることによって実現することです。
 そのような神さまのお働きが、神さまがこの世界とその歴史を支配し、導いておられるお働きです。それで、これが最も広い意味での神の国の現れです。すでにお気づきの方もおられると思いますが、この最も広い意味での神の国の現れとして、神さまが歴史を支配し導いておられるお働きは、一般に、神さまの「摂理」のお働きと呼ばれています。先ほどは最も広い意味での神の国について、神さまは宇宙大のものから小さなものまで、また見えるものも見えないものも治めてくださり、御手をもって支えてくださっているというように、いわば空間的な側面からお話ししました。それを時間的な側面から見ますと、神さまは歴史の主として、この世界の歴史を支配し、導いておられるということになります。そのような神さまのお働きを「摂理」と呼ぶわけです。本来ですと、この摂理のお働きによって、神さまの創造の御業の目的は実現し、この世界が神さまの栄光のご臨在によって満たされるようになるはずでした。そして、それによって造り主である神さまの安息がまったきものとなるはずでした。このことが、そのまま神の国の完成を意味していたはずです。
 ところが、実際には、そのようになりませんでした。神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったのです。そこに、霊的な戦いが展開されていました。サタンはすぐれた御使いとして造られたのですが、自らに与えられた栄光のゆえに高ぶり、自ら神のようになろうとして、神さまの聖さを冒してしまいました。このことは聖書の中に直接的には啓示されていませんが、イザヤ書14章12節〜15節に、

 暁の子、明けの明星よ。
 どうしてあなたは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
 あなたは心の中で言った。
 「私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。」
 しかし、あなたはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されているバビロンの王の高ぶりは、サタンの高ぶりを映し出すものであると考えられます。そのようなことから、サタンは自らに与えられている栄光のゆえに高ぶり、自ら神の位置に立とうとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して堕落したと考えられます。
 創世記3章には、すでに神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっていたサタンが、「蛇」を通して最初の女性エバを誘惑して罪を犯させたこと、さらにエバによって最初の人アダムに罪を犯させたことが記されています。それは、これまでお話ししてきたことに沿って言いますと、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったということを意味しています。これによって、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化は、神さまの栄光を映し出すものではなく、かえってサタンの高ぶりによる罪を映し出すものとなってしまいました。この世界が神さまの栄光のご臨在によって満たされて、神さまの栄光をより充満な形で現す世界が実現し、神さまの安息が完成するという創造の御業の目的は挫かれてしまったと思われました。言い換えますと、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したかのように見えたのです。
 もちろん、この段階で神さまが、御使いであれ人であれ、ご自身に対して罪を犯したすべてのものをおさばきになることもできました。神さまはすべてのものの主として、そのようにする権威を持っておられます。また、サタンの高ぶりによる罪を映し出すものとなってしまう歴史を、そのまま存続させることは、神さまの御名を汚すだけのことになってしまいます。それで、この段階で神さまが、御使いであれ人であれ、ご自身に対して罪を犯したすべてのものをおさばきになることもありえたわけです。その場合には、神さまの支配はすべてのものをおさばきになる形で現れてきますので、それが神の国の現れとなっていたはずです。ただし、それは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人間が造り出す歴史の最終的な清算となります。そのような形で歴史は終わり、創造の御業の目的は実現しなかったということになってしまいます。
 けれども、神さまは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人間が造り出す歴史をそのような形で終らせることはなさいませんでした。人を罪へと誘って神さまに背かせることに成功したサタンに対するさばきの言葉を記している創世記3章14節、15節には、

神である主は蛇に仰せられた。
 「おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。
 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されています。これは「」に向けて語られたさばきの言葉です。しかし、創世記3章にに出てくる「」は神さまによって造られた生き物としての限界を越えたことを発言しています。生き物たちには造り主に対するわきまえはありません。生き物たちは造り主である神さまを知らず、神さまを礼拝することもありません。しかし、1節に記されていますように、この「」は最初の女性に向かって、

あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

と神さまの戒めのことを問いかけています。ここですでに、単なる生き物以上の存在が「」を通して働いていることが示されています。サタンが「」を通して働いたことに対して、神さまもサタンが用いたその「」をお用いになって、サタンへのさばきを宣言しておられます。14節では、

 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。

と言われています。「腹ばいで歩く」こと自体は、神さまが蛇をそのようなものとしてお造りになったのですから、のろいを意味してはいませんでした。神さまはほかにも這うものをお造りになりました。しかし、ここでは、「」の這うという様態が用いられてサタンへののろいを象徴的に表すようになったのです。また、「ちりを食べる」ということは「」の食べ物のことを言っているのではありません。というのは、蛇が小さな生き物を食べることはよく知られていたことであるからです。「ちりを食べる」ということは、慣用表現で、戦いに負けることを意味しています。日本語で言えば「土がつく」というようなことです。つまり、これは、先ほどお話ししましたように、神さまの創造の御業の目的を挫いてしまい、霊的な戦いにおいて勝利したかのように見えるサタンが、その霊的な戦いにおいて破れることになるという宣言なのです。
 そのサタンの敗北がどのようにして実現するかということを示しているのが、15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の言葉です。
 これは「最初の福音」と呼ばれるものです。しかし、これは、本来はサタンへのさばきの言葉です。この神である主の言葉については、いろいろな機会にお話ししてきましたので、今お話ししていることと関わっていることだけをお話しします。この神である主の言葉は、サタンへのさばきがどのようにして執行されるかを示しています。それは、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われていますように、神さまが「おまえ」と呼ばれているサタンと「」の間に「敵意」を置かれることから始まります。この時、「」は神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまっていましたので、罪によってサタンと結びついてしまっていました。それに対して、神である主がサタンと「」の間に「敵意」を置いてくださって、その結びつきを断ち切ってくださるというのです。しかも、それは、サタンと「」の間のことだけでなく、続いて、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われていますように、その「敵意」は、それぞれの子孫の間にまで受け継がれていくというのです。このすべてを神さまがなしてくださるということに、すでに福音としての特質があります。ここに出てくる「女の子孫」と「おまえの子孫」は単数形ですが、集合名詞として集合体を表しています。ちなみに、「おまえの子孫」は、御使いたちであれ人であれ、罪によってサタンと1つに結ばれている者たちを指しています。
 このときサタンは霊的な戦いにおいて神である主に敵対しています。「女の子孫」はそのサタンに対して「敵意」をもって立ち向かうようになると言われています。それは、「女の子孫」が神である主の側に立つようになることを意味しています。このことに「女の子孫」が救われるようになることが示されています。
 そればかりでなく、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われています。「」と呼ばれている「女の子孫」が「おまえ」と呼ばれているサタンの「頭を踏み砕く」というのです。ここに出てくる「女の子孫」と「おまえの子孫」は集合名詞として集合体を表していました。その「おまえの子孫」には「かしら」があります。言うまでもなく、それは「おまえ」と呼ばれているサタンです。当然、「女の子孫」にも「かしら」があるはずです。それは「」ではなく、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

と言われている「」です。
 ですから、このサタンに対するさばきの宣言において、神である主は、ご自身が直接さばきを執行をしないで、「女の子孫」のかしらである方を通してさばきを執行されると宣言されたのです。もし、この時に、ご自身が直接さばきを執行しておられたら、それによって、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造り出す歴史と文化は罪によって腐敗したものとして清算され、歴史は終わっていたはずです。しかし、神である主は「女の子孫」のかしらである方を立てられ、その方を通して救いとさばきの御業を遂行されることを示されました。このようにして立てられた「女の子孫」のかしらである方が約束のメシヤです。この「女の子孫」のかしらである方がメシヤとして立てられたことによって、サタンに対するさばきはこの方が来られる時まで引き延ばされることになりました。それで、歴史は人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に清算されて終ることはなかったのです。
 このようにして、「女の子孫」のかしらである方がご自身の民のための救いの御業を成し遂げてくださり、神である主に敵対して働いているものたちをおさばきになるという形で支配してくださることが示されました。それが「メシヤの国」、「キリストの国」としての神の国です。先週お話ししましたように、この「メシヤの国」と「キリストの国」は同じものです。そして、この「メシヤの国」、「キリストの国」としての神の国が実現するまで、すなわち、「女の子孫」のかしらである方がメシヤとして来られて、救いとさばきの御業を執行され、ご自身の民を治めてくださるようになるまで、神さまはお造りになったすべてのものを治めてくださり、御手をもって支えてくださっているのです。これが最も広い意味での神の国です。このようなことから、最も広い意味での神の国は、「メシヤの国」、「キリストの国」としての神の国が実現するためにあると言うことができます。
 先週お話ししましたように、

 あなたの御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りは、この「メシヤの国」、「キリストの国」としての神の国の完全な実現を祈り求めるものです。

 


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