(第78回)


説教日:2006年10月29日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第2の祈りは、

 御国が来ますように。

という祈りです。ギリシャ語の原文では、この「御国」には「あなたの」という言葉が付いています。それを生かして訳しますと、この祈りは、

 あなたの御国が来ますように。

となります。主の祈りでは、

 御名があがめられますように。

という第1の祈りにおいて取り上げられている「御名」と、

 みこころが天で行なわれるように
  地でも行なわれますように。

という第3の祈りにおいて取り上げられている「みこころ」にも、これと同じように「あなたの」という言葉が付いています。しかも、その3つの祈りにおいて「あなたの」という言葉は最後に置かれていて強調されています。第3の祈りは、直訳調に訳しますと、

 あなたのみこころが行われますように。
   天におけるように地においても。

となりますが、この、

 あなたのみこころが行われますように。

の最後に「あなたの」という言葉が置かれています。
 先週は、このことに注目しまして、主の祈りにおいて私たちが祈り求めているのは、神さまの「御名」が聖なるものとされることであり、神さまの「御国」が来ることであり、神さまの「みこころ」が行われることであるということを確認しました。そして、この祈りを真実に祈るためには、神さまの「御名」と「御国」と「みこころ」を神さまが御言葉を通して示してくださっていることに沿って理解し受け止めなければならないということをお話ししました。というのは、今なお罪の性質を宿している私たちには、神さまの「御名」と「御国」と「みこころ」を自分の思いに引き寄せて理解して歪めてしまう傾向があるからです。私たちは自らのうちにそのような傾向があることをしっかりとわきまえて、謙虚に御言葉から学びたいと思います。


 そのようなわけで、

 あなたの御国が来ますように。

という第2の祈りを祈るときに大切なことは、神さまの御国がどのようなものであるかを理解して祈ることです。それで、まず、神さまの御国について理解するために必要ないくつかのことをお話ししたいと思います。ただし、今日は、そのすべてをお話しすることはできません。
 私たちが「国」と言いますと、まず、日本地理や世界地理などに描かれている、それぞれの国の領土を思い起こします。けれども、「国」を表すヘブル語のマルクートもギリシャ語のバシレイアも、基本的には、王の支配、王が支配することや、支配する王の権力を意味しています。そして、そこから派生して、つまり2次的な意味として、王が支配している領土を意味することがあります。
 ですから、主の祈りの第2の祈りにおいて、

 あなたの御国が来ますように。

と祈るときには、そのような基本的な意味においての御国が踏まえられています。その御国の本質は、神さまが王として治めてくださることにあります。私たちは、その神さまの支配があらゆる意味において私たちの現実となることを祈り求めるのです。「あらゆる意味において現実となる」というのには意味があります。それは、神さまの支配はすでに私たちの現実となっているけれども、それはいまだ完成していないという面があるからです。それで、私たちは神さまの支配があらゆる面において実現し、完成することを祈り求めるのです。これがどのようなことであるかは、さらにお話を進めるうちに明らかになります。
 神の国の本質が神さまが支配されることにあるとしますと、神さまは天と地をお造りになった方として、造られたすべてのものを治めておられるという事実に思いが至ります。実際、これが最も広い意味での神の国です。
 神さまが、天と地をお造りになった方として、造られたすべてのものを治めておられることは確かなことです。この意味での神さまの支配は造られたすべてのものに及ぶのですが、その中には神さまに敵対して働いているサタンとその下にある悪霊たちも含まれています。エペソ人への手紙6章11節、12節には、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されています。ここに記されている「悪魔」も「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちも、神さまによって造られたものであり、神さまによって支えられて存在しています。もちろん、これらの存在も神さまによって造られたときには、神さまの御前に義である人格的な存在、すなわち、御使いとして造られたのですが、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったのです。そのようにして神さまに敵対するものとなってしまいましたが、神さまによって造られ、神さまの御手に支えられていることには変わりがありません。それは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間が、神さまに造られたものであり、神さまの御手に支えられていることに変わりがないのと同じです。
 私たちは、神さまが永遠の聖定において、この世界に起こり来るすべてのことを永遠に定めておられることを信じています。それは「永遠の」聖定として神さまの永遠のみこころによるものです。それで、存在においても考え方や理解においても有限であり、時間的な制約の中にある私たち人間には、神さまの永遠の聖定がこの時間的な世界とどのように関わっているかを見通すことはできません。そのような私たちの限界を踏まえた上で言うのですが、この世界に起こりくるすべてのことは、神さまの永遠の聖定における定めにしたがって起ります。そのすべてのことの中には、150億光年の彼方に広がっている大宇宙の中に起っているすべてのことが含まれていることはもちろんですが、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落することや、悪魔や悪霊たちが同じように堕落することも含まれています。
 最も広い意味での神さまの支配は、神さまがそのようなご自身の永遠の聖定にしたがってお造りになったすべてのものを、永遠の聖定において定められた通りに実現しておられることの現れの1つです。
 この最も広い意味での神さまの支配としての神の国について、さらに注意したいことがあります。この意味での神さまの支配は、神さまがすべてのものをお造りになったので、すべてのものを御手をもって治めておられるというものです。このこととの関連で注目したいのは、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されていることです。そこには、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 この個所につきましては、何度かお話ししていますので、結論的なことだけをお話しします。ここでは、まず、天地創造の御業の「初めに」「ことば」がずっと存在しておられたことが記されています。時間はこの世界の時間ですので、この世界が造られて初めて時間が始まりました。そのようにして時間的な世界が造り出される前に「ことば」はずっと存在しておられたということです(時間が造り出されていないのに「前に」というのはおかしいのですが、時間を離れて考えられない私たちの限界のために、このように言うほかはありません)。それで、「ことば」は時間を越えた方、永遠に存在しておられる方であるのです。また、18節までの文脈から分かることですが、この「ことば」は永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられて、まったく充足しておられることが示されています。そして、3節では、この永遠の「ことば」がこの世界の「すべてのもの」をお造りになったと言われています。
 ある人が家を建てたとします。その場合、その人は家を立てる計画を立てて、それを大工さんに依頼したのです。実際に家を建てる働きをしたのは大工さんです。大工さんはその人の依頼に沿って家を建てました。永遠の「ことば」がこの世界の「すべてのもの」をお造りになったというのはこれにたとえられます。永遠の「ことば」が、創造の御業のご計画者であられる父なる神さまのみこころに沿って、この世界の「すべてのもの」をお造りになったのです。その意味で、父なる神さまは天地の造り主であられ、御子は天地創造の御業を遂行された方であられます。
 御子が天地創造の御業を遂行されたということは、コロサイ人への手紙1章16節にも、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と記されています。ここで「万物」と訳されている言葉はヨハネの福音書1章3節で「すべてのもの」と訳されている言葉と同じ言葉(タ・パンタ)です。コロサイ人への手紙ではこれに続く17節において、

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。ここでは、御子が「万物」をお造りになった方として「万物」を治め、保っておられることが示されています。今お話ししたことからお分かりのことと思いますが、御子は父なる神さまのみこころにしたがって「万物」を支配し、保っておられるわけです。この世界は、御子が治めておられるので、天地創造の初めから今日に至るまで調和のとれた世界として保たれています。
 もちろん、これらすべての奥には、神さまの永遠の聖定があります。その永遠の聖定において、御子が父なる神さまのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、お造りになった「すべてのもの」を支配され、保ってくださることが定められているのです。
 さて、神さまが永遠の聖定において定められたことには、これまでお話ししてきたことだけでなく、神さまの一方的な恵みによってご自身の民を御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストによって罪と死の力から贖い出してくださり、救いの完成に至るまで導いてくださることも含まれています。そのこととの関連で、特別な意味での「神の国」が考えられます。それは、私たちの贖い主となられた御子イエス・キリストがご自身の民の贖い主として治めてくださる御国、いわゆる「メシヤの御国」、「キリストの御国」です。
 この「メシヤの御国」、「キリストの御国」は、これまでお話ししてきました最も広い意味での「神の国」の枠の中に実現します。言い換えますと、それは、神さまがお造りになった「すべてのもの」を支配し、保ってくださっておられることによって保たれているこの世界の歴史の中に実現するものです。さらに言いますと、神さまがお造りになった「すべてのもの」を支配し、保ってくださっておられるのは、この「メシヤの御国」、「キリストの御国」を実現してくださるためであるのです。もし、この「メシヤの御国」、「キリストの御国」が実現されることがないのであれば、この世界の歴史が保存されることはなかったはずです。というのは、「メシヤの御国」、「キリストの御国」が実現されることがないということは、贖いの御業が遂行されないということですので、造り主である神さまに対して罪を犯した御使いと人間に対するさばきが執行されて、すべてが清算されて終ります。それ以上、罪を犯している者たちが造り主である神さまに逆らい続ける歴史、神さまの御名が汚され続ける歴史を存続させる理由はなくなってしまいます。
 「メシヤ」はヘブル語やアラム語の音訳で、特別な任務のために「油注がれた者」を表しています。それに当たるギリシャ語が「キリスト」で、やはり、特別な任務のために「油注がれた者」を表しています。ですから、「メシヤの御国」と「キリストの御国」は同じものを表しています。御子イエス・キリストはご自身の民のための贖い主として、父なる神さまによって、御霊をもって「油注がれた方」です。
 マタイの福音書3章16節、17節には、

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

と記されています。これに先立つ5節、6節には、

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

と記されています。イエス・キリストは罪のない方でしたが、自らの罪を告白してバプテスマのヨハネから洗礼を受けている人々と1つになられました。それによって、これらの人々の罪の贖いのためにお働きになる贖い主としての第1歩を踏み出されました。父なる神さまはそのことを受け入れてくださって、御霊を注いでくださり、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。

と宣言してくださったのです。
 この父なる神さまの宣言は、旧約聖書のイザヤ書42章1節において、

 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は国々に公義をもたらす。

と記されている、メシヤについての預言の成就です。イエス・キリストこそは、神さまが旧約聖書を通して約束してくださっている贖い主であられます。
 この方のお働きについては、続く2節〜4節に、

 彼は叫ばず、声をあげず、
 ちまたにその声を聞かせない。
 彼はいたんだ葦を折ることもなく、
 くすぶる燈心を消すこともなく、
 まことをもって公義をもたらす。
 彼は衰えず、くじけない。
 ついには、地に公義を打ち立てる。
 島々も、そのおしえを待ち望む。

と記されています。

 彼はいたんだ葦を折ることもなく、
 くすぶる燈心を消すこともなく、

と言われていますように、この罪に満ちている世界において、自らの罪によってであれ、外側からの痛めつけによってであれ、傷つけられ、痛んでおり、今にも消えかかっているような者たちを包んでくださり、いやしてくださり、立たせてくださるのがメシヤの支配であると言われています。
 もちろん、これはメシヤが成し遂げられる贖いの御業を通して実現することです。そのことはここには表されていませんが、このイザヤ書42章1節〜4節に記されていることは、イザヤ書40章以下に記されている4つの「主のしもべの歌」の第1の歌で、これに続く3つの歌につながっていきます。第2の歌は49章1節〜6節(あるいは13節まで)、第3の歌は50章4節〜9節(あるいは11節まで)、第4の歌は52章13節〜53章12節に記されています。その最後の歌においては「苦難のしもべ」のことが記されていて、メシヤによる贖いの御業が記されています。
 マルコの福音書1章14節、15節には、

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

と記されていました。ここでイエス・キリストが宣べ伝えておられる「神の国」は、先ほどの最も広い意味での「神の国」のことではありません。
 イエス・キリストは、

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

と宣べ伝えられました。そのように「神の国は近くなった」というのは、イエス・キリストが、父なる神さまが約束してくださった贖い主としてのお働きを始められたことによっています。すでにお話ししましたように、「神の国」の本質は神さまが支配されること、神さまがその主権を行使されることにあります。父なる神さまが遣わしてくださった贖い主が、メシヤ、キリストとしての主権を行使して治めてくださるところに「メシヤの御国」、「キリストの御国」があります。そのメシヤ、キリストの贖い主としての主権の行使は、イザヤが預言していた通り、罪のために、傷つけられ、痛んでおり、今にも消えかかっているような者たちを包んでくださり、いやしてくださり、立たせてくださることに現れてきます。それが、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められたことによって現実となったので、イエス・キリストは、

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

と宣べ伝えられたのです。
 このメシヤの支配、メシヤの主権の行使には、もう1つの面があります。旧約聖書の詩篇2篇1節〜9節には、

 なぜ国々は騒ぎ立ち、
 国民はむなしくつぶやくのか。
 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。」
 天の御座に着いておられる方は笑う。
 主はその者どもをあざけられる。
 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」
 「わたしは主の定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 『あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。』」

と記されています。
 2節で「主と、主に油をそそがれた者」と言われているときの「主に油をそそがれた者」がメシヤすなわちキリストです。そして、そのメシヤについて、9節では、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と言われています。ここでメシヤが打ち砕く「彼ら」とは2節で「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」と言われている「地の王たち」です。
 ここには、先ほど引用しましたイザヤ書42章1節〜3節に預言的にあかしされているのとは正反対とも思えるメシヤの支配の姿が記されています。けれども、これはメシヤの支配の2つの面です。というのは、メシヤの支配には「救い」と「さばき」の両面があるからです。言うまでもなく、イザヤ書42章1節〜3節に預言的にあかしされているメシヤのお働きは罪の贖いを通しての救いをもたらしてくださるものであり、詩篇2篇1節〜9節に記されているメシヤのお働きは造り主である神さまに逆らって立つ者たちへのさばきを預言的にあかししています。このように、「メシヤの御国」、「キリストの御国」は、御子イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げてくださり、それに基づいて救いとさばきを執行されることを通して実現します。
 私たちは主の祈りの第2の祈りによって、

 あなたの御国が来ますように。

と祈リます。これは、この意味での「メシヤの御国」、「キリストの御国」としての「神の国」の完全な実現を祈るものです。

 


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