(第77回)


説教日:2006年10月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第2の祈りは、

 御国が来ますように。

という祈りです。この「御国」には「あなたの」という言葉が付いていま。それを生かして訳しますと、この祈りは、

 あなたの御国が来ますように。

となります。
 主の祈りは、

 天にいます私たちの父よ。

という呼びかけで始まり、それに続いて6つの祈りがあります。そして、これら6つの祈りはすべて命令形で記されています。その意味で、これらの祈りは父なる神さまがしてくださることを祈り求めるものです。
 ところが、同じ命令形で表されてはいても、前半の3つの祈りと、後半の3つの祈りには違いがあります。普通、命令は話している相手に命令するものですから、2人称で表されます。けれどもその場合には、「立ちなさい」とか「行きなさい」というように主語である「あなた」が省かれます。ただし、「あなたが行きなさい」というように「あなた」を強調する場合には、「あなた」という主語を付けます。主の祈りの後半の3つの祈りは、2人称で主語のない命令形で表されています。もちろんこれは、神さまに命令するというのではなく率直な願いを表しているものです。
 これに対して前半の3つの祈りは、形として直接的に父なる神さまに命令する形の2人称の命令形ではなく、3人称の命令形です。第1の祈りでは「あなたの御名」が主語となっており、この第2の祈りでは、「あなたの御国」が主語となっています。そして、第3の祈りでは「あなたのみこころ」が主語となっています。このような言い方をすることによって、より丁寧な願いを表しています。
 そうしますと、この前半の3つの祈りにおいて、その願いが丁寧な形で表されていること、そして、後半の3つの祈りにおいてはそうでない形で表されていることには理由があると考えられます。この点について一般にどのように考えられているのか調べてはみたのですが、私の手元にあるいくつかの注解書からは分かりませんでした。
 1つの考え方は、単純にそれは文学的な形式である、つまり、表現の仕方に変化をもたせただけであるということでしょう。そうであれば、この言い方の違いにそんなにこだわることはないということになります。注解者たちがこの点に触れていないのは、恐らく、このように理解されているからではないかと思います。
 私はこの前半の3つの願いと後半の3つの願いの表現の仕方の違いには、単なる文学的な表現形式の変化という以上の理由があるのではないかと考えています。それは、願い求めているものの違いによっているということです。後半の3つにおいては、「私たちの日ごとの糧を」、「私たちの負いめを」、「私たちを」というように、私たちに関わることを祈り求めています。これらのことについての祈りにおいては、率直に願いを表す形の2人称命令形になっていると考えられます。
 これに対しまして、前半の3つの祈りにおいては、「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」を主語として立てています。そして、その1つ1つが「あなたの・・・」と言われていて、それが父なる神さまのものであることが示されています。しかも、この「あなたの」という言葉は、3つの祈りのすべてにおいて、最後に置かれていて強調されています。
 ですから、前半の3つの祈りにおいては、「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」が父なる神さまのものであることがしっかりと意識されています。そして、「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」を父なる神さまのものとして、尊いものとして受け止めるとともに、自分たちにとっても大切なものとして受け止める姿勢を表すものであると考えられます。


 ですから、

 あなたの御国が来ますように。

という祈りにおいては、あくまでも神さまの御国が来ることを祈り求めるのであって、自分たちに都合のよい国が来ることを祈り求めるのではありません。
 このことを理解するために、1つの例を挙げましょう。私たちはいわゆる「キリスト教国」に住んでいるのではありません。この日本という国においては、造り主である神さまを信じ、イエス・キリストを主として告白している民はほんの一握りです。時には、主を礼拝するためにいくつかのことを犠牲にしなければならないこともあります。先の第2次世界大戦の折りには、教会が大変な妥協をしてしまったという悲しい現実があったことを認めつつお話しすることですが、イエス・キリストを主として告白しているがために不当な扱いを受けたり、職を追われたり、投獄されたりして、迫害を受けた方々もおられます。私は世界福音同盟の宗教的自由に関する委員会から、毎週、迫害の下にある教会についての情報を送っていただいています。それによりますと、今も、世界には、このような試練の中にあって苦しんでおられる方々が本当にたくさんいらっしゃいます。
 そのような現実に身を置いたときに、ふと私たちのうちに、今はこのように苦しいけれども、神の御国が来たときには、自分たちの天下になるというような思いが湧いてくることはないでしょうか。自分たちを苦しめる者たちがさばかれるようになると思ったりすることはないでしょうか。このような露骨な形ではないとしても、これに近い思いが湧いてくることはないでしょうか。そのような思いをもったままで、

 御国が来ますように。

と祈るとしたら、それは、私たち中心の御国を考えつつ、その到来を祈り求めることになってしまいます。
 正直に申しまして、私にはこのようなことに思い当たることがあります。何らかのことで理不尽な扱いを受けたりしたときに、ふとそのような悔しさをはらすような思いが湧いてきたということは何度もありました。
 しかも、そのような思いを、たとえば、詩篇37篇5節、6節に記されています、

 あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

というような御言葉に託して、そこに聖書的な根拠があるとさえ感じておりました。
 けれども、この詩篇にしましても、続く7節、8節に、

 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
 おのれの道の栄える者に対して、
 悪意を遂げようとする人に対して、
 腹を立てるな。
 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

と記されています。先ほどの5節、6節に記されている、

 あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

という約束は、決して、人への憤りや、自らの悔しさをはらすためのこととして受け止めてはならないものです。そうではなく、真実な主を信頼し、主を待ち望むというこの一点のみに心を傾けるべきことを示すものです。
 実際、私たちには、ローマ人への手紙12章20節、21節に、

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

と記されている道が示されています。このローマ人への手紙を記しているパウロは、かつては主イエス・キリストの教会を迫害しましました。そのような迫害を受けた人々には、パウロに対する主のさばきを願う道もあったでしょう。しかし、実際には、私たちの主イエス・キリストはパウロにご自身を現してくださり、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる救いにあずかる者としてくださいました。主はご自身とご自身の民に対して悪をなした者に善をもって接してくださったのです。
 私自身に覚えのある、ある種の悔しさや秘かな復讐心を消せないままに、

 御国が来ますように。

と祈ることに対しては、この「御国」は私の国ではない、いや、私たちの国ですらないということを思い起こす必要があります。これは私たちが父なる神さまに向かって「あなたの御国」と告白している「御国」であって、罪ある私たちが、そして、そのゆえに自己中心的な思いを心の奥深くに潜めている私たちが意のままに描いてよい「御国」ではないことを心に深く刻み込む必要があります。この「あなたの御国」こそ、言葉の真の意味で「神聖不可侵」なのです。
 このことは「あなたの御国」についてだけでなく、「あなたの御名」、「あなたのみこころ」にも、そのまま当てはまります。私たちは「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」についての理解を私たちの身勝手な思いに引き寄せて歪めてしまってはなりません。
 これまでお話ししてきました、主の祈りの第1の祈りで取り上げられている「あなたの御名」について言いますと、

 御名があがめられますように。

という祈りは、文字通りには、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りでした。神さまの御名は、神さまがどなたであるかを私たちに啓示してくださるものです。それは、何よりも、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを大前提として踏まえています。出エジプト記3章14節に記されています、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの御名は、このことを私たちに啓示しています。
 神さまはその存在においてばかりでなく、1つ1つの属性においても無限、永遠、不変の方です。ですから、神さまはその愛といつくしみ、恵みとまことにおいて無限、永遠、不変の方です。前回までお話ししてきました、出エジプト記34章6節、7節に記されている、

ヤハウェ、ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という御名による宣言は、このことをご自身の民に啓示してくださったものです。
 神さまはこのような方ですが、私たちはあらゆる点において限りあるものであり、時間とともに変化するものです。神さまは造り主であられ、私たちは神さまによって造られたものです。それで、神さまと私たちの間には絶対的な区別があります。神さまの聖さの本質は、神さまがご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であられることにあります。
 ですから、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、まさに、神さまが創造の御業と贖いの御業においてご自身を私たちに示してくださることを通して、ご自身が聖なる方であられることを表してくださることを願い求める祈りです。このように見ますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りにおいては、まさに、「あなたの御名」こそが、真の意味で「神聖不可侵」であること、私たち人間が勝手な考えて取り扱ってはならないものであることが暗黙のうちに告白されていることが分かります。
 「あなたのみこころ」との関わりでは、すでにいろいろな機会にお話ししましたマタイの福音書7章21節〜23節に記されているイエス・キリストの御言葉を見てみましょう。そこには、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

と記されています。
 すでにお話ししたことですので、今お話ししていることとの関わりのあることだけをお話しします。ここでイエス・キリストは、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と教えておられます。そして、イエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と言うけれども、天の御国に入ることができない人々の典型的な例を挙げておられます。それが、終りの日に来臨される栄光のキリストの御前で、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と訴えるようになる人々です。この人々は、イエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と呼びかけていますから、イエス・キリストを「」として認めている人々です。また、「あなたの名によって・・・をした」と言うことによって、イエス・キリストを信じて、また、イエス・キリストのためにすべてを行ったと言っています。けれども、イエス・キリストは、この人々は「天におられるわたしの父のみこころ」を行っていないと言われました。
 マタイの福音書5章〜7章に記されている「山上の説教」において、イエス・キリストは父なる神さまのことを「天におられるあなたがたの父」と呼んでこられましたが、その最後の部分に当たるここでは「天におられるわたしの父」と呼んでおられます。そして、天の御国に入るのは「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」であると宣言されました。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と訴えるようになる人々は、自分たちが考えている神さまのみこころを行っているだけなのです。
 この場合、イエス・キリストが「天におられるわたしの父のみこころ」と言われる「みこころ」は、天の御国に入ることに関する「みこころ」です。それについては、イエス・キリストご自身の教えが、ヨハネの福音書6章40節に記されています。そこでは、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

と言われています。また、パウロは、ガラテヤ人への手紙2章16節において、

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

と告白しています。けれども、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と訴えるようになる人々は、自分たちのなした働きを根拠として天の御国に入れていただこうとしています。これは、神さまが福音の御言葉を通して示してくださったみこころに沿うことではありません。
 繰り返しになりますが、この人々は、自分たちが考えている神さまのみこころを行っていると思っています。しかも、イエス・キリストの御名によって働き、イエス・キリストの御名のために働いているのであるから、自分たちは、当然、イエス・キリストの民であり、神の御国に入ると考えているのです。しかし、そのように、自分たちが救われた後になした働きを認めていただいて天の御国に入ろうとすることは、福音の御言葉に示されている父なる神さまのみこころではありません。自分たちの考えに合わせて考えた父なる神さまのみこころでしかありません。
 このようなことから、神さまのみこころは自分たちの思いや考えに合わせて理解してはならないものであることが分かります。
 私たちは、真心を込めてすれば神も認めてくれるという考え方になじんでいます。しかし、こと救いに関しては、そのような考え方は通用しません。永遠の神の御子であられる方が、人の性質において味わわれた十字架の死の苦しみ、すなわち、父なる神さまが御子に負わせられた、私たちの罪に対する刑罰の苦しみによって、私たちの救いの土台が据えられました。私たちの救いのためには、御子イエス・キリストの身代わりの死が必要でした。それ以外に、私たちが救われる道はありません。それで、父なる神さまは御子を救い主としてお遣わしになり、十字架の死にお渡しになられました。そして、御子イエス・キリストを贖い主として信じる者を、ただ恵みによって、その死にあずからせてくださり、罪を贖ってくださると言われるのです。それに対して、御子イエス・キリストとその十字架の死を信じ、それにより頼むことによってではなく、私たちの真心を認めて救ってくれるように要求することは、救いに関する父なる神さまのみこころを踏みにじることです。また、イエス・キリストの十字架の死を無にすることです。ガラテヤ人への手紙2章21節には、

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

と記されています。
 実際に、教会の歴史の中で、パウロが言っている、

人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということ

が、人の働きを拠り所とする信仰の姿勢によって、どれほど歪められてしまってきたことでしょうか。
 主の祈りの第3の祈りにおいて、

 あなたのみこころが天で行なわれるように
  地でも行なわれますように。

と祈るときにも、「あなたのみこころ」が罪の自己中心性によって歪められている私たちの考え方によって歪められてはならないものであることを、しっかりと心に刻んでおかなければなりません。
 これらのことから、主の祈りの前半の3つの祈りにおいて、主語として立てられている「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」は、真の意味で「神聖不可侵」なものであることが分かります。ですから、「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」は、自らのうちに罪の性質を宿している私たちが、その罪の自己中心性によって、勝手に解釈して歪めてしまってはならないものであるのです。
 このようなことを考え合わせますと、主の祈りの前半の3つの祈りにおいて「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」が主語として立てられて、3人称の命令形が用いられていることには、ただ単にこれが丁寧な願いになっているだけでなく、このようなわきまえがあってのことであると考えられます。いずれにしましても、私たちは主の祈りを祈るときに、「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」を神さまご自身に関わるものとして真実な思いをもって受け止めたいと思います。そして、神さまご自身が御名を聖なるものとしてくださり、御国をご自身のみこころに沿って実現してくださることを祈り求めたいと思います。

 


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