主の祈りの第1の祈りは、
御名があがめられますように。
という祈りです。これは文字通りには、
あなたの御名が聖なるものとされますように。
というもので、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めるものです。
今は、この主の祈りの第1の祈りと関連して、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例をお話ししています。それは、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民としていただいたイスラエルの民が、主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェと呼んで礼拝してしまったことです。
このイスラエルの民の背教によって、主の契約は破棄され、イスラエルの民は絶ち滅ぼされるべきものとなりました。しかし、主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、さばきを留めてくださいました。
けれども、主は途中で「うなじのこわい民」であるイスラエルを絶ち滅ぼすことにならないために、彼らのうちにあって約束の地に上って行かないと言われました。この時も、主はモーセのとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民とともにあって約束の地まで上って行ってくださると言われました。主の栄光のご臨在がともにあってもイスラエルの民が絶ち滅ぼされないというのであれば、主がこれまでに示してくださった恵みとあわれみより深く豊かな恵みとあわれみに満ちた栄光をもってイスラエルの民の間にご臨在してくださらなければならないということになります。奴隷の身分にあったイスラエルの民をエジプトの主権の下から解放してくださった恵みとあわれみにまさる恵みとあわれみに満ちた栄光であるということです。
モーセは、そのような恵みとあわれみに満ちた主の栄光を見せていただきたいと主に願いました。主はそのモーセの願いを受け入れてくださいました。モーセが主の戒めにしたがってシナイ山に登りますと、主はそこにご臨在されて、主、ヤハウェの御名によって宣言をしてくださいました。それは、出エジプト記34章6節、7節に記されていますように、
ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。
というものでした。
主、ヤハウェがこの御名による宣言に示されているように、
あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。
であられるので、その栄光のご臨在がともにあっても、「うなじのこわい」イスラエルの民も御前から絶ち滅ぼされることなく、約束の地まで導かれていくことができたのです。
*
そのようにして、主は再びイスラエルの民と契約を結んでくださいました。出エジプト記34章27節、28節に、
主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。
と記されている通りです。
これに続く29節〜35節には、
それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
と記されています。
ここには、モーセの「顔のはだが光を放った」ことが記されています。そして、それは、モーセがシナイ山の頂において「主と話した」からであると言われています。けれどもモーセはこの時に初めて栄光の顕現(セオファニー)においてご臨在される「主と話した」わけではありません。モーセはこれ以前に、少なくとも2回、栄光の顕現においてご臨在される「主と話した」ことがあります。1つは、3章に記されていますが、主が最初にモーセをエジプトに遣わしてくださるために召してくださった時のことです。それも「神の山ホレブ」、すなわちシナイ山において起ったことです。主は燃える柴の形で表されたご自身の栄光の顕現の御許からモーセに語ってくださいました。そして、そのやり取りの中で、
わたしは、「わたしはある。」という者である。
というご自身の御名を啓示してくださいました。
もう1回は、主が最初にイスラエルの民と契約を結んでくださった後のことです。24章15節〜25章1節には、
モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。主はモーセに告げて仰せられた。
と記されています。この時、主は契約文書として、十戒が記されている2枚の石の板を授けてくださり、イスラエルの民の間にご臨在してくださるために必要な聖所に関する戒めを与えてくださいました。31章18節には、
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
と記されています。この時も、主はご自身の栄光の顕現の御許からモーセに語ってくださいました。
けれども、これらの時には「主と話した」モーセの「顔のはだが光を放った」ことはありませんでした。また、それはモーセが「主と話した」時間の長さの違いによってもいません。モーセが最初にシナイ山に登って「主と話した」期間は「四十日四十夜」でしたから、2度目にシナイ山に登って「主と話した」期間と同じです。
これらのことから、モーセが2度目にシナイ山に登って「主と話した」ことによってモーセの「顔のはだが光を放った」のは、その時にシナイ山にご臨在された主の顕現(セオファニー)の栄光の違いによっていると考えられます。
*
このことは、33章18節〜23節に記されていますモーセと主のやり取りからも汲み取ることができます。そこには、
すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
と記されています。
ここで主は、シナイ山の頂において示される主の栄光の顕現としてのご臨在について、
あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。
と言われました。このことについては、少し前にすでにお話ししましたので要点の復習をしておきますと、この「うしろを見る」ということは、ある人の後ろ姿を見ることにたとえられるような感じがしますが、そういうことではありません。これは、むしろ、太陽が西に沈んだ後に夕焼けがしているときに、その夕焼けを見ることにたとえられます。そして、主が「わたしの顔」と言われるのは、主の栄光のご臨在のことを指しています。この時、モーセはシナイ山にご臨在された主の栄光の顕現を直接的に見ることはできませんでした。ただ、その主の栄光の顕現が通り過ぎるまで「岩の裂け目に入れ」る形で主の御手に覆っていただいて、主の栄光の顕現が通り過ぎた後の「残光」を見ることができただけでした。
先に、主が燃える柴の中からモーセに語ってくださった時にも、また、最初にシナイ山の頂でモーセに語ってくださった時にも、そこに主の栄光の顕現があったのですが、このような制限はありませんでした。このことは、主の栄光の顕現において示されている栄光に違いがあったことを意味しています。この時に示された主の栄光は、先の2つの場合に示された栄光に比べて、より充満な栄光であったので、モーセでさえもその栄光の顕現によるご臨在を直接的に見ることができなかったのだと考えられます。
その一方で、モーセは主の栄光の顕現が通り過ぎる時に、主がご自身の御名によって宣言された御声を聞くことができました。それが、あの、
ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。
という主の御名による宣言でした。それによって、モーセは、そこにご臨在された主の栄光の顕現において示されている栄光がどのようなものであるかの啓示を受け止めることができたのです。
すでにお話ししてきましたように、この主の御名による宣言は、主、ヤハウェの、
わたしは、「わたしはある。」という者である。
という御名のさらなる意味を明らかにしてくださったもの、主、ヤハウェがどのような方であるかをさらにお示しくださったものです。これによって示されていることは、主、ヤハウェは、
わたしは、「わたしはある。」という者である。
という御名をもって呼ばれる方、すなわち、「永遠に在る方」、何ものにも依存しないで「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」として、すなわち、永遠に変わることなく、また、どのような状況にも左右されることなく、
あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。
方として、ご自身の契約の民にご自身を示してくださるということです。そのような方としてご自身の契約の民に接してくださるということです。
モーセがシナイ山の頂で接したのは、このような恵みとまことに満ちた栄光の主の顕現でした。そのようにしてご自身を表してくださった「主と話したので」モーセの「顔のはだが光を放った」のであると考えられます。主、ヤハウェはこのことを通してご自身の贖いの恵みに関して1つの重大なことを啓示してくださっています。それは、モーセの、
どうか、あなたの栄光を私に見せてください。
という願いに答えて、主、ヤハウェが、
ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。
という御名の宣言とともに示してくださった栄光は、充満な栄光であり、恵みとまことに満ちた栄光でしたが、その恵みとまことに満ちた栄光は、その充満な栄光のご臨在に接するご自身の民を栄光ある者に造り変えてくださるものであるということです。主の契約の民は、恵みとまことに満ちた栄光の主との交わりのうちにあって、その語りかけを聞きくことを通して、その恵みとまことに満ちた栄光を映し出すような者に造り変えられるのです。
この時モーセは、シナイ山の頂にご臨在された主、ヤハウェの栄光に直接的に触れてはいません。モーセは主の栄光が通り過ぎるまで岩の裂け目にかくまわれていました。そして、主の栄光が通り過ぎた後に、その「残光」として示された栄光に触れただけでした。けれども、このような形であったとしても、主の栄光に触れ、主の語りかけを聞いたモーセの「顔のはだ」は光を放つようになっていました。そして、このことは、この時に主の栄光の顕現としてのご臨在をとおしてモーセに示された主、ヤハウェの恵みとまことに満ちた栄光が、それに接する者を栄光ある者に造り変える栄光であるということを意味しているのです。
モーセは、そのような意味での恵みとまことに満ちた栄光の主のご臨在に接しました。これは、古い契約の下で与えられた契約の神である主、ヤハウェの恵みとまことに満ちた栄光の啓示の頂点の1つです。
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このことに触れて、コリント人への手紙第2・3章6節〜8節には、
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
と記されており、12節、13節には、
このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
と記されています。
シナイ山の頂において恵みとまことに満ちた栄光の主のご臨在に接したモーセは、その栄光にあずかって栄光化されました。しかし、それは「彼の顔のはだが光を放つ」と言われていることに現われたもので、あくまでも、外側の見える形での栄光化でした。また、このコリント人への手紙第2・3章7節では、「モーセの顔の、やがて消え去る栄光」と言われており、13節では、「消えうせるもの」と言われています。そのように、その栄光化は一時的なものでした。そのように、この場合にモーセがあずかった栄光化は外面的で一時的なものであったのです。そして、このすべてが、動物のいけにえの血によって立てられた古い契約の下での「ひな型」としての限界を表しています。
ヘブル人への手紙10章4節には、
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
と記されています。動物のいけにえの血は、それがどんなに大量に流されたとしても、神のかたちに造られている人間の罪をきよめることはできませんし、その人を内側から新しく造り変えることはできません。それで、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、その内側からきよめられて、主の栄光の御前に近づくのにふさわしい者に造り変えられることはできなかったのです。
これに対して、私たちの場合はどうでしょうか。先ほどのコリント人への手紙第2・3章13節では、
モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
と言われています。私たちはそのような「おおい」を掛ける必要はないと言われています。これは、私たちが外側に現れる形での栄光や一時的で消え去るべき栄光にあずかっているのではないということを意味しています。
そして、同じ3章の18節には、
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
と記されています。私たちは内側からきよめていただき、主の恵みとまことに満ちた栄光を映し出す者に造り変えていただいているのです。
このようなことが私たちの現実となるのは、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架の上で流された血が、ご自身の民のすべての罪を完全に贖うことができるからです。ヘブル人への手紙10章10節に、
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
と記されており、14節に、
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
と記されている通りです。
このように、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架の上で血を流して死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、主の民のための贖いの御業は成し遂げられました。それで、その贖いに基づいてお働きになる御霊が、イエス・キリストを約束のメシヤ、父なる神さまが備えてくださった贖い主として信じて受け入れている私たちに、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを当てはめてくださいます。御霊は、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって私たちの罪をまったく贖ってくださり、私たちを罪からきよめてくださいます。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって私たちを新しく生かしてくださいます。これは、古い契約の下にあって、やがて来るべきものの「ひな型」に仕えていたモーセの「顔のはだが光を放った」ことが指し示していたことが、私たちの間で実現しているということです。
今日では、一時的で外面的であれ、誰かの「顔のはだが光を放った」というようなことがあれば、人々は驚嘆し、大評判になることでしょう。しかし、御霊が御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて私たちのうちになしてくださっていることは、それをはるかに越えて驚嘆すべきことであるのです。
あの時、モーセは恵みとまことに満ちた栄光の主のご臨在を直接的に見ることはできませんでした。けれども、私たちは、
鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
と言われています。私たちは恵みとまことに満ちた栄光の主であられるイエス・キリストの御名によって主のご臨在の御前に近づき、恐れなく主の御顔を仰ぎ見て、主を礼拝することができるのです。ヘブル人への手紙10章19節〜22節には、
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
と記されています。ここで言われている「まことの聖所」とは天にある聖所のことです。そこには父なる神さまと御子イエス・キリストの充満な栄光によるご臨在があります。
このように、主、ヤハウェがご自身の御名によって宣言してくださったことに示されている恵みとまことに満ちた栄光のご臨在は、御霊による御子イエス・キリストのご臨在として、常に私たちとともにあります。そして、私たちがこの主の恵みとまことに満ちた栄光にあずかって、「主と同じかたちに姿を変えられて」行くことを通して、また、御子イエス・キリストの御名によって、恐れなく父なる神さまの御許に近づいて、礼拝をささげることを通して、あの、主の御名による宣言の確かさがあかしされ、父なる神さまの御名があがめられるようになります。
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