(第75回)


説教日:2006年10月1日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。これは文字通りには、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

というもので、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めるものです。
 これまで、この主の祈りの第1の祈りと関連して、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例の1つとして、出エジプト記32章〜34章に記されていることをお話ししてきました。
 主の一方的な恵みによってエジプトの奴隷の身分から贖い出され、シナイ山において主との契約に入れられて、主の民としていただいたイスラエルの民は、主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェと呼んで礼拝してしまいました。これによって、主の契約は破棄され、イスラエルの民は絶ち滅ぼされるべきものとなりました。主はこの民を絶ち滅ぼしてモーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセがイスラエルの民のためにとりなしますと、主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、さばきを留めてくださいました。
 そればかりでなく、主は、モーセのさらなるとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民の間にご臨在されて約束の地まで導き上ってくださることを約束してくださいました。主が、かたくなな心をもって主に背き続けるであろうイスラエルの民とともにいてくださっても、なお、イスラエルの民が絶ち滅ぼされないというのであれば、主がこれまでに示してくださった恵みとあわれみに優る恵みとあわれみに満ちた栄光をもってイスラエルの民の間にご臨在してくださらなければならないということになります。モーセは、そのような恵みとあわれみに満ちた主の栄光を見せていただきたいと主に願いました。
 主はそのモーセの願いを受け入れてくださり、モーセにシナイ山に登るようにお命じになりました。そして、そこにご臨在されて、主、ヤハウェの御名によって宣言をしてくださいました。その主の御名による宣言は、出エジプト記34章6節、7節に記されています、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

というものでした。これは、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という宣言に、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という但し書きあるいは補足がつけられているものです。それで、ここでは、基本的に、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられることが明らかにされていると考えられます。


 このヤハウェの御名による宣言は、先にエジプトに遣わしてくださるためにモーセを召してくださった時に示してくださった、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名の新しい意味を明らかにしてくださるものでした。主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主ヤハウェと呼んで礼拝するようなイスラエルの民を、なおも受け入れてくださる恵みとまことに満ちたヤハウェの御名の栄光を啓示してくださることでした。

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名は主、ヤハウェが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを示しています。ですから、このヤハウェの御名による宣言は、ヤハウェが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」として、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

方であられることを示してくださったものです。
 それで、このヤハウェの御名による宣言によって示されたことは、この時、すなわち、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主ヤハウェと呼んで礼拝してしまったことだけに意味をもっているのではありません。主がこのようなお方であられることが、今日の私たちをも含めて、主の民の歴史の全体に対して意味をもっており、特に、主の民が自らの罪のどん底に陥ってしまった時に、最後の拠り所となるという意味をもっています。言い換えますと、歴史を通して主の民は、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

方であられるということに支えられ続けてきたのです。
 ここで、このこと、すなわち、この主の御名による宣言が主の民の歴史の全体を支えていることを示すものを、御言葉の中からいくつか見てみましょう。
 言うまでもなく、先週取り上げました民数記13章、14章に記されていることも、そのことをあかしするものです。イスラエルの民は、主が導き入れようとしてくださっている約束の地に、不信仰のために入ろうとしませんでした。そればかりか、主が悪意をもって自分たちをここまで導いてこられたとさえ言ったのです。それで主がイスラエルの民に対するさばきを執行しようとされた時に、モーセはイスラエルの民のためにとりなしました。そのとりなしの祈りの中で、モーセは、民数記14章17節〜19節に記されていますように、

どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。

と言って、出エジプト記34章6節、7節に記されている主の御名による宣言に触れています。主は、このモーセのとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民の歴史が途絶えないようにしてくださいました。
 このことを確認したうえで、詩篇の中からより一般的なあかしを見てみましょう。
 86篇14節〜16節には、

 神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、
 横暴な者の群れは私のいのちを求めます。
 彼らは、あなたを自分の前に置いていません。
 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、
 情け深い神。
 怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。
 私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 あなたのしもべに御力を与え、
 あなたのはしための子をお救いください。

と記されています。
 15節に記されている、

 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、
 情け深い神。
 怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。

という告白は、出エジプト記34章6節、7節に記されています、契約の神である主、ヤハウェの御名による宣言に触れるものです。
 これは、出エジプト記に記されていることと違い、特に自らの罪のために生み出された問題のことを述べているのではありません。むしろ、1節、2節に、

 主よ。あなたの耳を傾けて、
 私に答えてください。
 私は悩み、そして貧しいのです。
 私のたましいを守ってください。
 私は神を恐れる者です。
 わが神よ。どうかあなたに信頼する
 あなたのしもべを救ってください。

と記されており、11節に、

 主よ。あなたの道を私に教えてください。
 私はあなたの真理のうちを歩みます。
 私の心を一つにしてください。
 御名を恐れるように。

と記されていますように、この詩人は、神さまを神として恐れ、信頼して歩んでいるがゆえに受ける苦しみの中にあることが分かります。
 それは、私たち新しい契約の下にある神の子どもたちにも当てはまる状況です。ヨハネの福音書15章18節、19節には、

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 そのように主を恐れ、主のみこころに従って歩むときに受ける苦しみの中にある主の民にとって主ご自身が、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられることが拠り所となります。
 ここで、注意したいことは、この詩人は、自分が契約の神である主のみこころに従って歩んでいるということ、すなわち、自分の良さや業績を根拠として主の助けと救いを求めてはいないということです。どうしてそうなのかと言いますと、私たちが主のみこころに従って歩むことができたということさえも、主が、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

として、真実に私たちを支えてくださっているからに他なりません。そのうえ、私たちが主のみこころに従ったといっても、そこには常に私たち自身の罪が影を落としており、それも完全無欠のものではありません。それで、私たち自身や私たちから出たものを根拠として主のあわれみを求めることはできません。ただ、主ご自身が、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられることだけが、どのような場合においても、私たち主の民の拠り所であるのです。
 次に、詩篇103篇7節〜14節を見てみましょう。そこには、

 主は、ご自身の道をモーセに、
 そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
 主は、あわれみ深く、情け深い。
 怒るのにおそく、恵み豊かである。
 主は、絶えず争ってはおられない。
 いつまでも、怒ってはおられない。
 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
 私たちの咎にしたがって
 私たちに報いることもない。
 天が地上はるかに高いように、
 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
 父がその子をあわれむように、
 主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。

と記されています。
 7節の、

 主は、ご自身の道をモーセに、
 そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。

という言葉とのつながりからも分かりますが、8節の、

 主は、あわれみ深く、情け深い。
 怒るのにおそく、恵み豊かである。

という告白は、出エジプト記34章6節、7節に記されています、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられるという主の御名による宣言に触れるものです。そして、これに続く9節〜14節には、

 主は、絶えず争ってはおられない。
 いつまでも、怒ってはおられない。
 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
 私たちの咎にしたがって
 私たちに報いることもない。
 天が地上はるかに高いように、
 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
 父がその子をあわれむように、
 主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。

と記されていて、主がご自身の民の罪をお赦しになることが告白されています。
 この場合は、出エジプト記32章〜34章に記されているような特定の罪のことが問題になっているわけではありません。むしろ、より一般的な意味で、主の民が自らのうちに罪を宿す者であり、罪を犯す者であるのに対して、主は恵みとあわれみをもってご自身の民を取り扱ってくださることが告白されています。さらに、主は、ご自身の民がもともとちりから取られたものとしての弱さをもっているということをご存知でいてくださって、あわれみをもって接してくださることが告白されています。
 ここでは主、ヤハウェの恵みとあわれみが告白されていますが、この恵みとあわれみは「主を恐れる者」に向けられていることが、11節と13節で示されています。「主を恐れる」ということは、いたずらに主を恐がることではありません。「主を恐れる」とは、主の契約の民、主の一方的な恵みによって主との契約のうちに入れていただいている主の民が、契約の主を恐れることです。ですから、それは、主が、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名の方として、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることをわきまえること、そして、そのような方として、ご自身の契約に対して真実であられることを信じることから始まります。そして、今お話ししていることとの関わりで言いますと、主、ヤハウェが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」として、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

方であられることを、主の御名による宣言にしたがって信じて、このような恵みとまことに満ちた栄光の主を信頼することです。そのような意味で「主を恐れる者」に対して、主は、その御名による宣言の通りに、恵みとあわれみをもって接してくださいます。
 最後に、簡単にですが、詩篇145篇を見てみましょう。1節に、

 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。
 あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

と記されていますように、ここでは「」としての主の御名が讚えられています。そして、これを受けて、4節〜7節には、

 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
 あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。
 私は栄光輝くあなたの主権と、
 あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
 人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、
 私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を
 熱心に語り、
 あなたの義を高らかに歌うでしょう。

と記されています。これは、「」として治められる主がなされた贖いの御業の歴史を、主の民が代々にわたって語り告げることの中で、主の御名が讚えられることを示しています。これは、すでになされた主の贖いの御業の方に力点が置かれています。
 そして、このことを受けて、これに続く8節〜13節には、

 主は情け深く、あわれみ深く、
 怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
 主はすべてのものにいつくしみ深く、
 そのあわれみは、
 造られたすべてのものの上にあります。
 主よ。あなたの造られたすべてのものは、
 あなたに感謝し、
 あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。
 彼らはあなたの王国の栄光を告げ、
 あなたの大能のわざを、語るでしょう。
 こうして人の子らに、主の大能のわざと、
 主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。
 あなたの王国は、永遠にわたる王国。
 あなたの統治は、代々限りなく続きます。

と記されています。
 ここでは、主が贖いの御業を遂行されることによって確立されるようになる永遠の御国のことが告白されています。その主権は「造られたすべてのもの」に及び、その中心に、主の聖徒たちがあります。
 このような壮大な主の御国における讃美と、これに先立って4節〜7節に記されている主の贖いの御業の歴史を結びつけているのが、8節に記されています、

 主は情け深く、あわれみ深く、
 怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

という告白です。ですから、主が遂行された贖いの御業の御業の歴史は、

 主は情け深く、あわれみ深く、
 怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

という告白に至ります。そして、

 主は情け深く、あわれみ深く、
 怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

ということが、壮大な主の御国がとこしえに確立されることの基礎にあるのです。
 繰り返しになりますが、私たちはイスラエルの民と同じように自らのうちに罪を宿しており、主に対してかたくなであり、罪を犯す者です。主はそのような私たちを、ご自身の栄光のご臨在の御前に立たせてくださっています。このことこそが、主がご自身の御名を聖なるものとされることの中心にあることです。なぜなら、それは、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という、主の御名による宣言に示されていることを、私たちの間に実現してくださることだからです。この主の御名による宣言に示されている、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられるということが、主の贖いの御業の遂行を通してあかしされることが、主の御名が聖なるものとされることの中心にあるのです。

 


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