(第74回)


説教日:2006年9月24日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日は、私が中部中会の修養会で奉仕させていただくために留守をしました。そのために、主の祈りに関するお話は1週空いてしまいました。今は主の祈りの第1の祈りである、

 御名があがめられますように。

という祈りに関するお話をしています。
 これまで、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例の1つとして、出エジプト記32章〜34章に記されていることについてお話ししてきました。主はその一方的な恵みによってイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。そして、シナイ山において契約を結んでくださり、イスラエルの民をご自身の民としてくださいました。しかし、イスラエルの民は、主の命令にしたがってシナイ山に登ったモーセの帰りが遅いと感じ、主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェと呼んで礼拝してしまいました。これによって、主の契約は破棄されてしまいました。
 これを受けて主はモーセに、イスラエルの民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こすと言われました。しかし、モーセがイスラエルの民のためにとりなしますと、主はそれを受け入れてくださり、さばきをとどめてくださいました。
 けれども、主がイスラエルの民のうちにあって約束の地に上って行くなら、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民はその途上において罪を犯して主のご臨在の聖さを冒すようになり、主はイスラエルの民を御前から絶ち滅ぼしてしまわれることになります。それで、主はイスラエルの民のうちにあっては約束の地に上って行かれないと言われました。しかしこの時も、主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、イスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言われました。
 このことは、主がイスラエルの民の間にご臨在されて約束の地にまで上って行ってくださっても、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民が御前から絶ち滅ぼされないということを意味しています。そうであれば、主のご臨在の栄光がこれまでイスラエルの民とともにあった栄光より、さらに深く豊かな恵みに満ちた栄光でなければなりません。それで、モーセはそのような主の栄光を見せていただきたいと願いました。主はモーセのこの願いを受け入れてくださいました。


 主は契約を結び直してくださるために、モーセに再びシナイ山に登るように命じられました。そして、モーセがシナイ山に登ると、主はそこにご臨在されて、主の御名によって宣言してくださいました。その主の御名による宣言は、出エジプト記34章6節、7節に、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

と記されています。
 すでにお話しましたように、この主の御名による宣言は、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

というよう訳したほうがいいと考えられます。これは、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という宣言に、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という但し書きあるいは補足がつけられています。それで、ここでは、基本的に、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられることが明らかにされていると考えられます。
 この主の御名による宣言において主は、まず、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であられることを示してくださいました。そして、このことの上に立って、ご自身が「怒るのにおそく」あられ、「恵みとまことに富」んでおられることが示され、さらに、「恵みを千代も保」たれる方であられることが示されています。そして、さらにその上に「咎とそむきと罪を赦す方」であられることが積み上げられるようにして示されています。
 このことは、この時イスラエルの民が主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを主、ヤハウェであるとして拝み、十戒の第2戒に背いて主の聖さを冒したことを受けていることを考えますと、よりいっそう意味深いものとなります。主は、このようなイスラエルの民の罪が極まった時をとらえて、ご自身がその罪を赦してくださる方であられることを示してくださったのです。しかも、「咎とそむきと罪を赦す方」というように、「」と「そむき」と「」という言葉を重ねて、いかなる罪をも赦してくださる方であられることが示されています。
 前回は、この主の御名による宣言に関わる1つの問題を考えました。今日は、もう1つの問題を考えてみたいと思います。それは、シナイ山の頂で、モーセに、このような恵みとまことに満ちた主の栄光が啓示されたのに、イスラエルの民の第1世代が荒野で滅んでしまったということです。それによって、主の恵みとまことに満ちた栄光が啓示されたことは空しくなってしまったのでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。
 最終的にイスラエルの民の第1世代が荒野で滅んでしまうようになったことは、民数記13章と14章に記されています。
 この時、イスラエルの民は荒野のカデシュに宿営していました。そして、主はイスラエルの民を約束の地であるカナンの地に導き入れてくださろうとしておられました。それで、それに先立って、約束の地を探る者たちをイスラエルの各部族から選んで遣わされました。その地を探って帰ってきた者たちは、ヨシュアとカレブを除いて、自分たちは約束の地には入れないという報告をしました。13章32節〜14章4節には、

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

と記されています。
 そのような中で、ヨシュアとカレブは、なおも、主を信じてカナンの地に入るべきことを説いて、イスラエルの民を説得しようとしました。しかし、イスラエルの民は2人を石で撃ち殺そうとしました。14章10節後半〜12節には、

そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

と記されています。
 この時も、モーセは、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして礼拝して、背教した時と同じように、イスラエルの民のためにとりなしました。モーセのとりなしは13節〜19節に記されていますが、それは2つの部分に分けられます。
 まず、13節〜16節には、

エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現われて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。「主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。」

と記されています。これは、実質的に、シナイ山の麓で背教してしまったイスラエルの民のためにとりなした時のモーセの言葉と同じことを述べています。出エジプト記32章11節、12節には、

主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

というモーセのとりなしが記されています。どちらも、出エジプトの出来事に注目している異邦の民へのあかしのためにということに基づくとりなしです。
 民数記14章に戻りますが、17節〜19節には、カデシュにおいてなされたモーセのとりなしの続きが記されています。そこには、

どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。

と記されています。
 ここで、モーセは、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェであると呼んで礼拝し、背教してしまった時のこととかかわらせてとりなしをしています。モーセは、

あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。

と言ってとりなしをしています。これは、モーセがシナイ山の頂で聞いた契約の神である主、ヤハウェの御名による、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という宣言の言葉をまとめたものです。
 イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って背教してしまったときに、主は、モーセのとりなしに答えて、その民の罪を赦してくださっただけでなく、その民を約束の地にまで導き上ってくださることを約束してくださいました。そして、モーセの願いに答えて、そのことの根底にある、恵みとまことに満ちた主の栄光を、契約の神である主、ヤハウェの御名によって宣言してくださいました。ですから、モーセは、すでに主がシナイ山において自分に啓示してくださっていた主の恵みとまことに満ちた栄光に基づいてとりなしを展開しているわけです。
 その際に、モーセは、

あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。

と述べています。ここで特に注目すべきことは、モーセがあえて、主は、

罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす

方であられるということも告白しているということです。モーセは、この場合に、そのことには触れないで主の御前にとりなしをしようとはしていません。主がシナイ山において、そのご臨在の御許から語ってくださることによって示してくださった、恵みとまことに満ちた栄光は、人が決して侮ってはならないものであることをしっかりと心に銘記していたということです。
 それと同時に、主が、

罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす

方であられることは、その主の御前においてとりなしの祈りをささげることと矛盾するものではないということを、モーセは自覚していたということが分かります。モーセは、主の恵みとまことに満ちた栄光は聖なるものであり、人が決して侮ってはならないものであること告白しています。そして、そうであるからこそ、その栄光のうちに示された恵みとまことは、決して気まぐれなものではなく、人が心から信頼するに値する恵みとまことであるということを受け止めているわけです。
 モーセのとりなしに対する主のお答えを記している民数記14章20節〜23節には、

主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」

と記されています。
 主はまず、

わたしはあなたのことばどおりに赦そう。

と言われました。これによって、イスラエルの民が絶ち滅ぼされてしまうことはなくなりました。そして、その歴史は次の世代へと受け継がれていくことになりました。
 それと同時に、イスラエルの民の第1世代が、エジプトと荒野で常に自分たちとともにあった主の栄光と、主が行われた数々のしるしを見たのに、主を信じなかったと言われています。主はイスラエルの民が「十度もわたしを試みた」と言われました。この「十度も」ということは文字通りの回数である可能性もありますが、十が完全数の1つですので、「徹底的に」とか「最後の最後まで」というような比喩的な意味であると考えられます。
 イスラエルの民が主を試みたということは、主が自分たちとともにいてくださることを信じなかったということを意味しています。イスラエルの民が主を試みたことの典例となっている出来事を記している出エジプト記17章7節に、

それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

と記されているとおりです。聖書の中では、このことは、後に繰り返し言及されて、主の民への警告となっています。
 このように、イスラエルの民の不信仰は、主の栄光のご臨在を表示するシェキナの雲が幕屋にあって自分たちの旅路を導いてくださっていること、そして、主が出エジプトの際に、エジプトと紅海においてなされた大いなる御業ばかりでなく、それに続く旅路において必要なすべてを備えてくださったことを目の当たりにしても、主がともにいてくださるということを信じなかったということにあります。つまり、主を試みることは主のご臨在をめぐってのことであるのです。そして、すでにお話しした通り、イスラエルの民が主、ヤハウェの偶像として金の子牛を作ったのも、主のご臨在を表示するためのことでした。
 この荒野のカデシュにおいてイスラエルの民が主のご臨在を信じないで、約束の地に入ろうとしなかったことは、主がエジプトと紅海において大いなる御業をなさってイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださったことを忘れてしまったというだけのことではありません。イスラエルの民が主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェと呼んで礼拝して背教してしまった時に、主がモーセのとりなしを生かしてくださって、恵みとまことに満ちた栄光を示してくださったことをも踏みにじることでもありました。あの時、主は、イスラエルの民が背教してもなお、彼らとともにあって約束の地まで導いてくださると約束してくださいました。そして、その通りに、イスラエルの民の間にご臨在してくださり、限りない忍耐をもって彼らを約束の地にまで導いてくださいました。そのすべてにおいて、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という主の御名によって宣言されたことが現実としてあかしされていました。そうであれば、イスラエルの民はなおのこと、契約の神である主、ヤハウェの恵みとまことに満ちたご臨在を信じるべきでした。そして、ともにおられる主を信じて約束の地に入るべきでした。
 けれども、民数記14章3節に、

なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。

と記されていますように、イスラエルの民は主が自分たちを滅ぼすためにこの地に導いてこられたとつぶやきました。主には自分たちに対する悪意があったというのです。本来であればとうの昔に絶ち滅ぼされているべきイスラエルの民を、恵みとまことに満ちたご栄光のご臨在によって約束の地にまで導いてきてくださった主に対して、不信の言葉を投げつけました。このようにして、あの主の御名による宣言によって示された恵みとまことに満ちたご栄光さえも汚されてしまいました。これによって、イスラエルの民の第1世代の者は荒野で滅びることになりましたが、主はその恵みとまことに満ちたご栄光のご臨在の御許に、次の世代の者たちを住まわせてくださいました。
 繰り返しになりますが、私たちはイスラエルの民の第1世代と同じような罪の性質を宿しています。そのような私たちがなおも主の御名を信じて、その恵みによって救いのうちに保たれています。それは、私たちの資質や力によることではありません。そこに違いがあるとすれば、私たちは、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という主の御名による宣言によって啓示されている恵みとまことに満ちた栄光の本体である御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光のうちに保たれているということです。これに対して、イスラエルの民の第1世代の者たちは、この本体の地上的なひな型としての栄光のご臨在に接していただけであったということです。

 


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