(第73回)


説教日:2006年9月10日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。これは、文字通りには、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りで、神さまが御自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めるものです。
 これまで、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例の一つをお話ししました。それは、主の恵みによってエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主の契約の民とされたばかりのイスラエルの民が、主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝したということです。
 これによって、主がイスラエルの民に与えてくださった契約は破られ、イスラエルの民は契約ののろいの下にあるようになりました。契約の主のさばきに服さなければならないものとなったのです。主はモーセに、イスラエルの民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こすと言われました。しかし、主がモーセのとりなしを受け入れてくださったので、さばきはとどめられました。
 けれども、主はイスラエルの民の間にあって約束の地に上って行ってくださらないと言われました。それは「うなじのこわい民」であるイスラエルの民はこの後も主に罪を犯して、主のご臨在の聖さを冒すようになるからです。そうなれば、主はイスラエルの民を御前から絶ち滅ぼしてしまわれます。そのようなことにならないために、主はイスラエルの民の間にご臨在されて、イスラエルの民とともに約束の地に上って行かれないと言われたのです。この時も、主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、イスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言われました。
 しかし、ここには「うなじのこわい民」であるイスラエルの民はこの後も主に罪を犯して、主の栄光のご臨在の聖さを冒して、主の御前から絶ち滅ぼされてしまうようになるという問題が残っています。もし、主がイスラエルの民の間にご臨在されて約束の地にまで上って行ってくださるけれども「うなじのこわい民」であるイスラエルの民が滅ぼされないというのであれば、主のご臨在の栄光がこれまでイスラエルの民とともにあったご臨在の栄光より深く豊かな恵みに満ちた栄光でなければなりません。イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださり、シナイ山において契約を結んでくださったことに現されているご臨在の栄光よりも深く豊かな恵みに満ちた栄光のご臨在でなければならないということです。それで、モーセはそのような主の栄光を見せていただきたいと願いました。主はモーセのこの願いをも受け入れてくださいました。


 主の栄光のご臨在があったことを記している出エジプト記34章5節〜7節には、

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 すでに話ししましたように、この主の御名による宣言は、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

というよう訳したほうがいいと思われます。
 この主の御名による宣言は、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という宣言に、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という「但し書き」あるいは補足がつけられていると考えられます。それで、ここでは、基本的に、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられることが明らかにされていると考えられます。
 先週お話ししましたように、この神である主の御名による宣言は、十戒の第2戒を背景として語られています。十戒の第2戒は、出エジプト記20章4節〜6節に記されていて、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

というものです。その最後の部分に記されています、

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

という主の御言葉に、34章6節、7節に記されている、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という主の御名による宣言が対応しています。
 この二つを比べてすぐに分かることですが、十戒の第2戒においては、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

という威嚇の言葉が先に来ていますが、34章6節、7節の主の御名による宣言では、それが後に来ています。けれども、34章6節、7節の主の御名による宣言は、ただ単に十戒の第2戒にある御言葉の順序をひっくり返しただけのものではありません。それをひっくり返しただけであれば、

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施し、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす

となります、けれども、これでは、イスラエルの民には望みはありませんでした。なぜなら、ここでは、主はご自身を愛して、その命令を守る者に「恵みを千代にまで施し」てくださると言われているからです。そして、イスラエルの民はこの時、主を愛して主の命令を守る者であるどころか、主の命令の中でも最も重大な命令の1つに背いてしまった状態にあるからです。
 ところが、34章6節、7節に記されている主の御名による宣言では、主はイスラエルの民には何の要求をなさらないで、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であられ、「怒るのにおそく」あられ、「恵みとまことに富」んでおられること、そして「恵みを千代も保」たれる方であられること、さらには「咎とそむきと罪を赦す方」であられることを示してくださいました。
 ここでは、主の恵みとあわれみが積み上げられるようにして示されています。まず、主が「あわれみ深く、情け深い神」であられることが示されています。その上に、主が「「怒るのにおそく」あられ、「恵みとまことに富」んでおられるということが示され、さらに、「恵みを千代も保」たれる方であられることが示されています。そして、さらにその上に「咎とそむきと罪を赦す方」であられることが積み上げられるようにして示されています。
 このように見ますと、ここでは、主が恵みとあわれみに満ちた方であられるということが、最終的に、「咎とそむきと罪を赦す方」であられることに行き着くことが分かります。これは、この時、イスラエルの民が主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝み、十戒の第2戒に背いて主の聖さを冒したことを受けています。主は、このようなイスラエルの民の罪を赦してくださる方であられることを示してくださるために、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、

というように、ご自身が恵みとあわれみに満ちた方であられることを積み上げるようにして示してこられました。そして、そのことに基づいて、ご自身が「咎とそむきと罪を赦す方」であられることをお示しになりました。
 さらに、その土台のように据えられた主の御名による宣言の言葉においては、「恵み」が2度繰り返されています。しかも、それは、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、

というように、積み上げられるように語られた言葉の最後に出てきていますので、主が「咎とそむきと罪」を赦してくださることの最終的な土台のような位置にあります。
 ここで「恵み」と訳されている言葉はヘブル語ではヘセドです。このヘセドという言葉は、神さまと人間や、人間同士など、人格間の関係にかかわる恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表す言葉です。聖書の中では、神さまが人間に示してくださっている恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表す場合の方が多いと言われています。
 この「恵み」(ヘセド)が主の契約とどのように関係しているかをめぐって議論されてきました。この「恵み」(ヘセド)は主の契約に基づくものなのか、それとも、主の契約に先だって考えられる、主ご自身の属性から出ているものなのかという議論です。それぞれに言い分がありますが、この二つの見方は矛盾するものではありません。それで、私は真実はこの二つの見方を総合したところにあるのではないかと考えています。つまり、この「恵み」(ヘセド)は主ご自身の愛の属性から出ているものであるけれども、それは主の契約の中で表現されるものであるということです。この「恵み」(ヘセド)が神さまの愛という属性から出ていることは確かなことです。それとともに、神さまと神のかたちに造られている人間の関係が初めから契約関係であるということからすれば、この「恵み」(ヘセド)が人に示されるのは、神さまの契約を通してであるということになります。
 このような意味で、この「恵み」(ヘセド)は主の契約に基づいて、私たちに示されている恵みです。

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の主、ヤハウェは永遠に変わることがない方であられ、その契約は永遠に堅く立っています。それで、主の「恵み」も永遠に変わることがありません。そのことが、主は「恵みを千代も保」たれる方であられるということに表されています。
 この「恵み」(ヘセド)という言葉が用いられている箇所の一つを見てみましょう。イザヤ書54章7節〜10節には、

 「わたしはほんのしばらくの間、
 あなたを見捨てたが、
 大きなあわれみをもって、あなたを集める。
 怒りがあふれて、ほんのしばらく、
 わたしの顔をあなたから隠したが、
 永遠に変わらぬ愛をもって、
 あなたをあわれむ。」と
 あなたを贖う主は仰せられる。
 「このことは、わたしにとっては、
 ノアの日のようだ。
 わたしは、ノアの洪水を
 もう地上に送らないと誓ったが、
 そのように、あなたを怒らず、
 あなたを責めないとわたしは誓う。
 たとい山々が移り、丘が動いても、
 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
 わたしの平和の契約は動かない。」と
 あなたをあわれむ主は仰せられる。

と記されています。
 8節で、

 永遠に変わらぬ愛をもって

と訳された言葉の「変わらぬ愛」と、10節で、

 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず

と訳された言葉の「変わらぬ愛」が、今私たちが取り上げている出エジプト記34章6節と7節で「恵み」と訳されている言葉(ヘセド)です。ここでは、主、ヤハウェの「恵み」(ヘセド)が永遠に変わらないものであることが示されています。それと同時に、主は「恵み」(ヘセド)をもって、ご自身の契約の民を贖ってくださることとが示されています。さらに、

 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
 わたしの平和の契約は動かない。

という主の言葉は、並行法で表されています。つまり、

 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、

ということと、

 わたしの平和の契約は動かない。

ということは同じことを言い換えたものです。主の「変わらぬ愛」が移らないことは、主の「平和の契約」が動かないことと同じことであるのです。これによって、「恵み」(ヘセド)が主の契約と深く結びついていることが示されています。
 出エジプト記34章6節、7節の主の御名による宣言においては、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、

というように、主が恵みとあわれみに満ちた方であられることが、積み上げられるような形で表されていきますが、その最後に「恵み」(ヘセド)が繰り返されて強調されています。そして、そのことを土台として、主が「咎とそむきと罪を赦す方」であられることが示されました。
 しかも、この最後に示されている、主が「咎とそむきと罪を赦す方」であられるということにおいては、「」、「そむき」、「」が積み上げられています。これによって、主の豊かな恵みとあわれみによる罪の赦しが完全なものであり、どのような罪をも赦してくださるものであることが示されています。
 このすべてのことが、この時、主がご臨在されるシナイ山の麓にありながら、金の子牛を作ってこれを契約の神である主、ヤハウェとして礼拝してしまったイスラエルの民にとって必要なことでした。これ以外に、イスラエルの民が赦される道はありませんでした。主がこのように恵みとあわれみに満ちた方であられることだけが、イスラエルの民が赦されるための根拠でした。そうではあっても、イスラエルの民の側には、このような恵みとあわれみを主に求める資格はまったくありませんでした。主がその一方的な愛に基づいて、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であられ、その栄光は「恵みとまこと」に満ちた栄光であるということを示してくださったのです。
 最後に一つの問題を考えておきたいと思います。それは、主の御名による宣言の後に、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という言葉が加えられていることをどのように考えたらいいのかということです。これは、これに先立つヤハウェの御名による宣言において示されている「恵み」(ヘセド)に基づく完全な赦しを台なしにしてしまうのではないでしょうか。
 これについては、いくつかのことが考えられますが、ここでは、その中心にあると思われることをお話しします。この言葉が最初に用いられた十戒の第2戒を見てみましょう。すでにお話ししましたように、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という第2戒では、基本的にヤハウェの偶像を作ることが禁じられています。そして、そのこととの関連で、

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

と言われています。
 その当時、他の国々の神々は、偶像によってその存在が表示され、その偶像のある所にそれが表示する神が宿るという発想において作られていました。しかし、無限、永遠、不変の栄光の主、ヤハウェは、どのような偶像によっても表示することができません。それで、主、ヤハウェの偶像を作ることが禁じられているのです。そればかりでなく、その文化の発想の中では、中心となる「主神」のほかに、さまざまな神々が存在していて、すべてが偶像によって表現されると考えられています。もしイスラエルの民が、主、ヤハウェを表現する偶像を作るようになるときには、イスラエルの民はその当時の文化の発想によって支配されてしまっています。そこでは、主、ヤハウェは相対化され、他の神々と並べられ、比べられる神であるかのように考えられることになります。他にも神々がある中でヤハウェがいちばん高い神であるというようなことになってしまいます。いくらヤハウェがいちばん高いといっても、それは、他の神々と比べてのことということことです。そのようにして、ヤハウェが相対化されてしまいます。そうなれば、自然と、他の神々の偶像をも取り入れられるようになります。
 このように、主、ヤハウェを表わすための偶像を作ることは、主、ヤハウェを相対化して、他の神々の偶像を作ることへとつながっています。それで、第2戒は、主、ヤハウェを相対化しようとする罪ある人間の現実を踏まえた戒めです。これらのことから、契約の神である主、ヤハウェを表わすための偶像を作ることを禁じている第2戒において、

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神[である。]

という言葉が加えられることの意味が理解できます。結論的に言いますと、この言葉は、主、ヤハウェの聖さを守るための言葉であるのです。そして、十戒の第2戒にかかわる警告においては、主、ヤハウェが「ねたむ神」であられるということに基づいて、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

と警告されています。
 ですから、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

という警告は、契約の神である主、ヤハウェの聖さを守るための警告であると考えられます。そして、神さまの聖さは、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方として、どのようなものとも「絶対的に」区別される方であられるということを意味しています。これは、神さまが神であられることの根本にかかわることです。それで、このことは、どのような場合においても見失われてはならないことです。
 シナイ山の頂においてモーセに示された契約の神である主、ヤハウェの栄光は、この上なく恵みとまことに満ちた栄光でした。しかし、その栄光は、主、ヤハウェの聖さの現われでもあります。ですから、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

というように、主、ヤハウェの恵みとまことに満ちた栄光が、いわば、積み上げるように示されて強調されていても、それによって、主の、ヤハウェの聖さが見失われることがあってはならなのです。そのことが、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という言葉によって示されています。
 このことにつきましては、さらにお話しすべきことがありますが、それは機会を改めてお話しします。

 


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