(第72回)


説教日:2006年9月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 私が夏季休暇をいただいたために1週空いてしまいましたが、今日も、主の祈りの第1の祈りである、

 御名があがめられますように。

という祈りに関連したお話を続けます。今は、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例として、出エジプト記32章〜34章に記されていることをお話ししています。
 主はエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出してくださり、シナイ山にご臨在され、その麓に宿営しているイスラエルの民と契約を結んでくださいました。それは、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための契約でした。そして、ご自身のご臨在の場である聖所に関する戒めを与えてくださるために、主がモーセを召してくださいましたので、モーセはシナイ山に登り、40日40夜、主のご臨在の御前で過ごしました。モーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、金の子牛を作り、これを契約の神である主、「ヤハウェ」と呼んで、礼拝しました。
 これに対して、主はモーセに、イスラエルの民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセはイスラエルの民のためにとりなしました。そして、主はそれを受け入れてくださり、イスラエルの民へのさばきをとどめてくださいました。けれども、このイスラエルの民の罪によって、先に結ばれていた主の契約は破棄されてしまいました。それによって、主がイスラエルの民の間にご臨在されるための法的な基盤がなくなってしまいました。
 これを受けて、主はモーセにイスラエルの民を約束の地へと導き上るように命じられました。しかし、主ご自身は、イスラエルの民の間にあって約束の地に上ることはないとも言われました。その理由として、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であるので、途中で主のご臨在の聖さを冒すような罪を犯して、御前から絶ち滅ぼされてしまうことになってしまうからであると言われました。しかし、モーセは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださらないのであれば、イスラエルの民の存在の意味がなくなってしまうということを訴えて、イスラエルの民のためにとりなしました。すると、主はこのモーセのとりなしも受け入れてくださり、ご自身がモーセとイスラエルの民とともにあって、約束の地まで上ってくださると約束してくださいました。
 すると、モーセは、主の栄光を見せていただきたいと願いました。この願いには2つの意味があると考えられます。
 1つは、主がイスラエルの民とともにあって約束の地に上って行ってくださるのであれば、主がご自身の民の間にご臨在してくださるための法的な基盤である契約を結び直してくださる必要があります。そして、主が契約を結んでくださるときには、ご自身が親しくそこにご臨在してくださって契約を結んでくださいます。それで、モーセは、そのようにご臨在される主の栄光を見せていただきたいと願ったのであると考えられます。
 もう1つは、主ご自身が言われたように、先に結ばれた契約に基づく主の栄光のご臨在がイスラエルの民とともにあるなら、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、さらに主のご臨在の聖さを冒すような罪を犯して、御前から絶ち滅ぼされてしまうことになります。それで、主が結び直してくださる契約に基づくご臨在の栄光は、先に結ばれた契約に基づくご臨在の栄光より深く豊かな恵みに満ちた栄光であるはずです。モーセはこのことをも信じて、主の栄光を見せていただきたいと願ったのであると考えられます。
 主はそのような意味をもっているモーセの願いを受け入れてくださいました。


 主はモーセに、先にモーセが砕いた2枚の石の板と同じ石の板を作り、それを持って再びシナイ山に登るように命じられました。これは主がイスラエルの民と契約を結び直してくださることを意味しています。それは、主がこれまでの契約に基づく主のご臨在の栄光より深く豊かな恵みに満ちた栄光にあって、イスラエルの民の間にご臨在してくださるようになるためです。
 主の栄光のご臨在があったことを記している出エジプト記34章5節〜7節には、

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 5節に記されている、

主の名によって宣言された。

ということは、モーセがエジプトに遣わされるために召された時に示された、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という契約の神である主、ヤハウェの御名のさらなる意味が啓示されたことを示しています。ヤハウェの御名がイスラエルの民の背教という事態にあってどのような意味をもっているかを明らかにしてくださるということです。
 主が栄光の顕現(セオファニー)として現れたご臨在の御許から語ってくださった宣言は、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

というものでした。前回お話ししましたように、この主の御名による宣言は、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

というよう訳したほうがいいと思われます。この訳から1つの大切なことが見えてきますが、それは後ほどお話しします。
 ここでは、「ヤハウェ」という御名が2回繰り返して宣言されていて強調されています。これによって、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方が、確かにそこにご臨在しておられるということが示されています。この、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、この方が「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを示しています。これは、どちらかと言いますと、契約の神である主、ヤハウェの存在に強調点があります。
 これに対して、これに続いて語られている、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という言葉は、主、ヤハウェの聖なる属性に強調点があります。これは、主が「うなじのこわい民」であるイスラエルの民の間にご臨在してくださってもなお、イスラエルの民が御前から絶ち滅ぼされてしまうことがないことの理由を示してくださるものです。
 もちろん、神さまの存在と属性は論理的に区別されますが、それを切り離すことはできません。
 契約の神である主、ヤハウェは、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる方として、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられるので、永遠に変わることなく、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という方であられるのです。そして、それゆえに、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であることがこのうえもなく明らかになったときも、なおも、ご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるのです。
 このように、主、ヤハウェが、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という方であられることが、明確に、ご自身の言葉を通して啓示されたのは、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェであるとして拝んで背教してしまった時のことでした。しかしこれは、この時に主が、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という方になられたということではありません。主は、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる方として、初めから、そして常にこのような方であられます。その主が、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェであるとして拝んで背教してしまった時に、モーセのとりなしとそのとりなしの奥に生きて働いている信仰を生かしてくださって、ご自身がこのような方であられることをより豊かに、また、明確にお示しくださったのです。これは、いわば、暗い夜であればあるほど星が輝いて見えるというようなことです。もちろん、これは主が一方的な恵みによって啓示してくださったことであって、自動的に啓示されることではありません。イスラエルの民が罪を犯して主に背けば、当然、啓示されるというようなことではありません。その意味で、これは、前回お話ししましたように、ローマ人への手紙5章20節で、

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

と言われていることに当たります。
 このようにして啓示された、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という、主、ヤハウェがどのような方であるかの啓示は、同じ出エジプト記20章4節〜6節に記されている、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

という、十戒の第2戒の、偶像を作ることと、それを拝むことを禁じた戒めの言葉を背景として語られたものです。
 この、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という十戒の第2戒は、第1戒を踏まえて語られています。第1戒は、3節に記されていて、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と言われています。これは、

あなたには・・・ほかの神々があってはならない。

と言われていて、神はただお一人であって、主のほかに神はいない、というのとは少し意味合いが違います。もちろん、神はただお一人であって、天と地とその中のすべてのものをお造りになった方です。主のほかに神はいません。ただ、ここでは、そのような言い方がされてはいないのです。
 これは、古代オリエントの文化圏において、それぞれの国が、さまざまな神々を自分たちの神として取り入れていたことを踏まえています。長いことエジプトの奴隷であって、エジプトの文化に触れていたイスラエルの民は、当然、その影響を受けていました。金の子牛を作ってしまったこともその現れです。そうしますと、イスラエルの民は、自分たちの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの神である主、ヤハウェを自分たちの神とするだけでなく、ほかの神々をも自分たちの神として取り入れてしまう可能性がありました。それで、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と戒められていると考えられます。主は天と地をお造りになった方で、ただお一人の神です。イスラエルの民はそのことをしっかりと心に留めておかなければなりません。それだけでなく、主を自分たちの神として、主にのみ心をささげて、主にのみ従い、主のみを礼拝しなければなりません。第1戒は、そのような、主、ヤハウェとイスラエルの民の間の人格的な関係の中に、ほかの神々が入り込んできてはならないということを示しています。
 このような、十戒の第1戒を踏まえて、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という第2戒が語られています。もし、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

という第1戒を受け入れて、それを守っているなら、ほかの神々を自分の神とするということはありません。そうすれば、ほかの神々の偶像を作るということもありません。そうしますと、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という第2戒が想定している偶像は、他の神々の偶像ではなく、契約の神である主、ヤハウェの偶像であると考えられます。それで、第2戒が禁止しているのは、主、ヤハウェを拝むために偶像を作ってはならないということであると考えられます。
 このことと調和して、第2戒は、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

となっていて、「自分のために」という言葉が入っています。それは、第1戒にしたがって契約の神である主、ヤハウェを自分の神としている者が、ヤハウェを礼拝するために、自分の考えや都合に合わせて、ヤハウェの偶像を作ってはならないと戒められていると考えられます。
 ですから、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝したことは、まさに、十戒の第2戒に背く罪を犯したということを意味しています。
 このような意味をもっている第2戒の理由を述べている、

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

という言葉が、34章6節、7節に記されている、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という主、ヤハウェの自己啓示の言葉に対応しています。
 この2つの言葉を比べてみますと、まず、目につくのは、主が、第2戒においては、ご自身のことを「ねたむ神」として示しておられ、それを受けて、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

という説明が先にきていることです。これに対して、34章6節、7節では、主はご自身のことを「あわれみ深く、情け深い神」として示しておられます。そして、さらに、

怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

と説明しておられます。ここに出てくる「恵みを千代も保ち」ということは第2戒にも出てきますが、それは、

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す

と言われていますように、主を愛し、主の命令を守ることを条件とし、そのようにする者に限定されています。そうしない者、つまり主の命令を守らない者が、その前で「わたしを憎む者」と言われています。そして、そのような者に対しては、

父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす

と言われています。
 第2戒の理由を表している部分を少し直訳調に訳しますと、

わたし、あなたの神であるヤハウェは、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す、ねたむ神だからである。

となります。ここでは、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

ということと、

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す

ということが同じように(「ねたむ神」にかかる分詞で表されていて)「ねたむ神」を説明しています。そして、順序として、

わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

ということの方が先に来て強調されています。
 これに対して、34章6節、7節では、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という言葉は、最後に来ているだけではなく、それは、いわば「但し書き」に当たります。34章6節、7節の中心は、

ヤハウェ。ヤハウェ。あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

という神である主の御名による宣言です。そして、これに、

しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という「但し書き」がつけられているのです。ですから、ここ34章6節、7節では、基本的に、主が、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方

であるということが示されています。
 ここには、十戒の第2戒への理由のように「恵みを千代も保ち」ということが述べられていますが、第2戒への理由の場合と違って、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には」という条件あるいは限定はありません。ここでは、むしろ、主、ヤハウェが「あわれみ深く、情け深い神」であられて、「恵みとまことに」富んでおられるから、「恵みを千代も」保ってくださると言われています。そればかりか、主、ヤハウェは「咎とそむきと罪を赦す方」であるとさえ言われているのです。
 このように、モーセのとりなしとその奥に働いている信仰を用いてくださって、改めて結び直してくださった契約に基づく、主の栄光のご臨在は、「あわれみ深く、情け深い神」としての主の栄光のご臨在です。その栄光は、

怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

と宣言されている栄光です。このような栄光に満ちておられる主のご臨在が、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民を約束の地まで導いてくださったのです。
 前にお話ししましたように、ここで示されている恵みとまことに満ちた主の栄光のご臨在は、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

とあかしされている、イエス・キリストにおいて成就しています。それで、「うなじのこわい民」である点においてはイスラエルの民と変わらない私たちも、この恵みとまことに満ちている栄光の主であられるイエス・キリストにあって、父なる神さまの御許に近づくことができるのです。

 


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