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説教日:<2006年8月20日/B> |
ただ、この主のお答えには「但し書き」とも言うべきものがつけられています。これに続く20節〜23節には、 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」 と記されています。 最後の、 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。 という主の言葉は、モーセがセオファニーすなわち主の栄光のご臨在の顕現にどのように接することになるかということを示しています。 テモテへの手紙第1・6章15節、16節に、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。 と記されていますように、いかなる被造物も神さまの無限、永遠、不変の栄光を直接的に見ることはできません。ですから、これはモーセが、あくまでも、神さまが啓示してくださったかぎりにおいての栄光の顕現に接するということです。 そうではあっても、主はモーセに、 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。 と言われました。これは、これまでお話ししてきました状況において示されるようになったヤハウェの御名の新しい意味と結びついている栄光の顕現、すなわち、改めて結ばれる契約に基づく主のご臨在の栄光について、モーセはそれを直接的に見ることはできないということです。 ここでは主の栄光の顕現の「うしろ」と「顔」が対比されています。これですと、主の栄光の顕現が人にたとえられて、モーセはその背中を見ることができるが御顔を見ることはできないという感じがします。けれども、この場合の「うしろ」と訳された言葉、アーホールは、ここ以外の個所では、人間のからだの「うしろ」である「背中」を指すことはありません。「背中」はガヴやゲーヴ、あるいは、基本的に首の「うしろ」を指すオーレフで表します。ここで「うしろ」と訳されている言葉、アーホールは、基本的に「後ろの方」という方向性を表わしています。それで、ここで用いられている「うしろ」は「顔」と対比される「背中」ではないと考えられます。 そうしますと、この場合の「うしろ」が何を表しているかということが問題となります。これは、22節、23節で、 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。 と言われている中の前の部分とのつながりで考えるべきものです。そして、これは主の栄光の顕現が通り過ぎてしまった後の「残光」あるいは「反映」、たとえて言えば、日が落ちた後の夕焼けのようなものであると考えられます。 そうしますと、これと対比されている「顔」をどう考えたらいいのかということになります。すでにいろいろな機会にお話ししましたが、ヘブル語では「顔」(パーニーム)は、文字通りの「顔」とともに神さまの「ご臨在」をも表します。それで、この場合の「顔」は主の栄光の顕現という形で示された主のご臨在のことであると考えられます。主のご臨在は必ずしも見ることができるわけではありませんが、この場合には、それが主の栄光の顕現という形で示されているということです。 このようにして、20節〜23節に記されている「但し書き」においては、モーセは主の栄光の顕現という形で示される主のご臨在を直接的に見ることはできないけれども、それが通り過ぎた後の反映あるいは残光を見ることができるということが示されていると考えられます。これは古い契約の地上的なひな型としての限界にかかわっていることですが、そのことについてお話しする前に踏まえておかなければならないことがありますので、今日は、そちらのほうをお話しします。 これらのことを受けて、主はモーセに、先にモーセが砕いた2枚の石の板と同じ石の板を作り、それを持って再びシナイ山に登るように命じられました。34章1節、2節には、 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。 と記されています。 これは主がもう1度イスラエルの民と契約を結び直してくださることを意味しています。それは、先ほどお話ししましたように、主がこれまでの契約に基づく主のご臨在の栄光よりも、さらに深く豊かな恵みに満ちた栄光にあって、イスラエルの民の間にご臨在してくださるようになるためです。そして、モーセはそのような、より深く豊かな恵みに満ちた栄光の主のご臨在の現れである主の栄光の顕現(セオファニー)を直接的に見ることはできず、ただ、その主の栄光の顕現が通り過ぎて行った後の反映あるいは残光を見るだけであると言われたのです。 主の栄光のご臨在があったことを記している5節〜7節には、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 と記されています。 前々回、33章19節に記されている同じ言葉との関係でお話ししたことですが、5節に記されている、 主の名によって宣言された。 ということは、すでにモーセがエジプトに遣わされるために召された時に示されている、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という契約の神である主ヤハウェの御名のさらなる意味が啓示されたことを示しています。これまでお話ししてきたような状況において、ヤハウェの御名がどのような意味をもっているかを明らかにしてくださるということです。 すでに示されていたように、モーセは主の栄光のご臨在の現れである主の栄光の顕現(セオファニー)を直接的に見ることはできませんでした。けれども、モーセは主がご臨在の御許から語られた御声を聞きました。それは、 主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。 というものでした。 これをどのように理解するかについては意見が分かれるところです。ヘブル語の順序としましては、最初に契約の神である主の「ヤハウェ」という御名が2回繰り返されています。続いて、「神」を意味するエールが続いており、それに「神」エールを説明する言葉が続いています。新改訳は2番目の「ヤハウェ」をそれ以下の部分の主語であると理解しています。これも可能ですが、ここでは、最初に「ヤハウェ」という御名が繰り返し宣言されていて、「神」すなわちエール以下が同格の形で「ヤハウェ」を説明していると理解したほうがいいのではないかと思われます。その場合には、 ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。 というようになります。 このように理解した場合の2回繰り返されている「ヤハウェ」という御名の宣言は、強調のためです。この時、「雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立たれた」「ヤハウェ」の栄光の顕現は通り過ぎてしまい、モーセはそれを直接的に見ることはできませんでした。しかし、この「ヤハウェ」という御名の宣言によって、確かに、「ヤハウェ」という御名をもって呼ばれる方がそこにご臨在しておられるということが示されています。そして、これによって導入される主ヤハウェの自己啓示の言葉によって、3章14節、15節に記されているモーセの召命の時の出来事をとおしてモーセに啓示されている「ヤハウェ」という御名が、このようなイスラエルの民の背教の時において、その豊かな意味をもつものとなっているということが示されています。 主は、すでに、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって呼ばれる方として、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることを、モーセにお示しになりました。そして、それは、ご自身が一人超然としておられることをお示しになったものではなく、ご自身の契約に対して真実であられて、歴史の移り変わりの中で、この世界の状況がどのように変わってしまうとしても、契約をとおして約束されたことを必ず成し遂げてくださる方であるということを示してくださるものでした。 このように、主は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられるので、イスラエルの民がエジプトというその当時の最も強大な帝国の奴隷となっていたとしても、父祖アブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、奴隷の身分から贖い出してくださったのでした。 しかし、そのようにエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主ヤハウェとの契約のうちに入れていただいたイスラエルの民が、こともあろうに、主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作り、それを主ヤハウェであるとして礼拝したのです。それによって主との契約は破棄されてしまいました。それでも、モーセは、主が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられるので、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいてイスラエルの民を赦してくださるようにとりなしました。そして、主はイスラエルの民へのさばきを留めてくださいました。さらに、主がイスラエルの民とともにあって約束の地に上ってくださらないと言われたときにも、主が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることに基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約によって約束してくださった約束の地にまで、イスラエルの民を導き上ってくださるようにという願いをもってとりなしました。主はそのとりなしをも受け入れたくださいました。そして、このことを実現してくださるために、これまで啓示されていた以上に深く豊かな恵みに満ちた主の栄光のご臨在を啓示してくださったのです。それが、 ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。 という、ヤハウェという御名の意味のさらなる啓示であったのです。 このように見てみますと、このすべての根底に、主ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることがあることが分かります。そして、イスラエルの民の罪が深まり、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であることがこの上なくはっきりとしたときに、主が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることのより豊かな意味が明らかにされるようになったことが分かります。これらのことを通して、ローマ人への手紙5章20節に記されている、 しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 という、贖いの御業における主の恵みの不思議な現れがあかしされています。これは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して現された恵みであり、先ほどお話ししました、より深く豊かな恵みが現実になったものです。 この主の贖いの御業における恵みを知り、この恵みにあずかるためには、私たち自身が「うなじのこわい民」であるという現実に気付く必要があります。そして、私たちがそのことに気付くことができるのも、同じ主の恵みに基づく、御霊のお働きによっています。私たちは「うなじのこわい民」であることにおいてはイスラエルの民と同じであるのに、このような主の贖いの御業を通して現された恵みにあずかって、主の民とされています。そして、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かされています。 |
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