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説教日:2006年8月13日 |
これらのことを受けて、主は、モーセとイスラエルの民が、主がアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、約束の地に上って行くようにと言われました。それとともに、主ご自身はイスラエルの民のうちにあって上って行ってくださらないと言われました。そして、その理由として、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であるので、主が途中でイスラエルの民を絶ち滅ぼしてしまうことがないようにするためであると言われました。イスラエルの民は、その「うなじのこわい民」という本質が変わりませんので、主に背き続けることでしょう。それによって主の御名の聖さを冒してしまい、主のさばきによって絶ち滅ぼされてしまうことになります。これは、もしかするとそのようなことになるかもしれないということではなく、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であるので、必ずやそのようなことになってしまうということです。そのようになることを避けるために、主はイスラエルの民とともにあって約束の地に上って行ってはくださらないと言われたのです。 これを聞いた、モーセはさらにイスラエルの民のためにとりなして、主がともに行ってくださらないのであれば、シナイ山の麓から上らせないようにしてくださいと願いました。それは、いくらそこが約束の地、「乳と蜜の流れる地」であっても、主がともに行ってくださらないのなら、イスラエルの民の存在の意味がなくなってしまうということによっています。そうであれば、むしろ、主がご臨在されるシナイ山の麓に留まっていたほうがよいということです。 主は、この時もモーセのとりなしを受け入れてくださいました。そして、モーセとイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言われました。 そうしますと、ここに2つの問題が生じてきました。 1つは、先週お話ししたことです。「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、この後も、主に背いて罪を犯し続け、彼らの中心にご臨在される主の聖さを冒すようになります。その結果、イスラエルの民は主の聖なる御怒りを招き、御前から絶ち滅ぼされてしまうことになってしまいます。 もう1つの問題は、聖書が一貫してあかししていることは、主がご自身の民の間にご臨在されるのは、ご自身の契約に基づいているということです。言い換えますと、主がご自身の民の間にご臨在してくださることは、主の契約の祝福であるのです。主が私たちの間にご臨在してくださるので、私たちは主を礼拝し、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができます。この主との愛にあるいのちの交わりこそが永遠のいのちです。そして、これが、神さまの契約の祝福であるのです。 ところが、先ほどお話ししましたように、イスラエルの民の背教によって主との契約は破棄されてしまいました。それによって、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださる法的な基盤としての契約がなくなってしまっています。そのような状況にあって、主はなおもイスラエルの民の間にご臨在してくださり、イスラエルの民を約束の地まで導き上ってくださると言われました。そうしますと、主の契約はどうなるのかという問題が生じてきます。 モーセはこのような問題を十分わきまえていたと考えられます。その後の主とモーセのやり取りが33章18節~23節に記されていますが、18節、19節には、 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 と記されています。 モーセが、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と、主に願ったのは、先ほどお話ししましたような問題を踏まえてのことであると考えられます。2つの問題のうち、すでに破棄されている契約はどうなるのかという問題とのかかわりでは、モーセが、主の栄光を見せてくださいと願ったことは、主が改めてイスラエルの民と契約を結び直してくださると信じてのことであると考えられます。というのは、主が契約を結んでくださる時には、ご自身が親しくその場にご臨在されて契約を結んでくださるからです。主がシナイ山においてイスラエルの民と最初に契約を結んでくださったことを記している24章1節~11節には、 主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。 と記されています。 ここでは、主が動物のいけにえの血によって契約を結んでくださったことが記されています。そして、契約が結ばれた後、イスラエルの70人の長老たちが主のご臨在されるシナイ山に上って行って、主の栄光のご臨在に接したことが記されています。ただし、それは1節、2節に、 あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。 と記されていますように、「遠く離れて」のことでした。 また、10節では、 彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た と言われています。ただし、彼らが見たのは、 御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。 と言われていますように、主の栄光のご臨在の現れ、それをセオファニーと呼びますが、その御足の下の部分でした。 さらに、11節では、 神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。 と言われています。これは、「契約の食事」と呼ばれるもので、主の契約によって主ご自身との親しい交わりが可能となったことを表しています。 このように、主が契約を結んでくださる時には、ご自身が親しくその場にご臨在してくださるのです。 これらのことから、モーセは、主が改めてイスラエルの民と契約を結んでくださることを信じていたので、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と願ったのであると考えられます。34章1節~7節には、実際に、主がモーセにご自身の栄光を示してくださったことが記されていますが、1節には、 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。 と記されています。これは、主がもう一度契約文書を作成してくださることを示しています。そしてそれは、主が改めてイスラエルの民と契約を結んでくださることを意味しています。実際に主は、モーセを通して、もう一度イスラエルの民と契約を結んでくださいました。 このことは、もう1つの問題とも関わっています。これにつきましては先週詳しくお話ししましたので、今日これまでお話ししてきたことと関わらせてまとめておきましょう。 モーセはすでに主に召されてシナイ山に登って、そこにご臨在される主の栄光に触れています。それは、最初にイスラエルの民と結んでくださった契約に基づく主の栄光のご臨在です。その主の栄光のご臨在がイスラエルの民とともにあるなら、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、主に背き続けて、主の主の栄光のご臨在の聖さを冒してしまい、御前から絶ち滅ぼされてしまうことになります。 それにもかかわらず、主はイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地まで導き上ってくださると言われました。そうであれば、この意味での主のご臨在の栄光は、すでにモーセが接していた栄光のご臨在よりさらに深く豊かな恵みに満ちた栄光のご臨在であるはずです。言い換えますと、主が改めてイスラエルの民と結んでくださる契約に基づく栄光のご臨在は、先に結ばれた契約に基づく栄光のご臨在より、さらに深く豊かな恵みに満ちた栄光のご臨在であるはずであるということです。モーセは、このことを信じて、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と願ったのであると考えられます。 主はモーセの願いにお答えになって、 わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。 と言われました。これは、先週お話ししましたように、主がそのようなより深くより豊かな恵みに満ちた栄光をモーセに示してくださるということを意味しています。 その実現のことを記している34章5節~7節には、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 と記されています。 ここには、主がモーセのいるシナイ山にご臨在されて、ヤハウェの御名を宣言してくださったこと、ヤハウェの御名の新しい意味を示してくださったことが記されています。繰り返しになりますが、これは、イスラエルの民が金の子牛を作って、それを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝し、主の御前に背教してしまったことと、それでもなお主が「うなじのこわい民」であるイスラエルの民の間にご臨在してくださって、約束の地まで導き上ってくださると約束してくださったことを踏まえています。 このヤハウェの御名の宣言につきましては日を改めてお話ししますが、ここでは、これまでお話ししてきたこととの関わりで1つのことに注目したいと思います。それは、この主の栄光のご臨在において語られたヤハウェの御名の宣言に出てくる「恵みとまことに富み」という言葉です。この「恵みとまことに富み」という主の栄光にかかわる言葉は、私たちの主イエス・キリストが人の性質を取って来てくださったことを記しているヨハネの福音書1章14節の、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 という御言葉に反映しています。最後に、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 と言われているときの「恵みとまことに満ちて」が、シナイ山において示された主の栄光の顕現において宣言された「恵みとまことに富み」という言葉を反映しています。前にもお話ししたことがありますが、新改訳は、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 というように、人の性質を取って来てくださった永遠の「ことば」すなわち、御子イエス・キリストが「恵みとまことに満ちておられた」としています。けれども、 私たちはこの方の栄光を見た。 と言われてから、主題が「この方の栄光」になっています。また、文法的な可能性もありますので、ここでは、 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた。 と訳したほうがいいと考えられます。 これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、主がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作って、これを契約の神である主ヤハウェと呼んで、礼拝するようなイスラエルの民を、なおもお赦しになったばかりか、そのイスラエルの民の間にご臨在されて、約束の地にまで導き入れてくださる主の栄光は、「恵みとまこと」に満ちた栄光です。その「恵みとまこと」に満ちた栄光の本体は、人の性質を取って来てくださった永遠の神の御子、イエス・キリストの栄光です。そのような「恵みとまこと」に満ちた栄光の主であられるイエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、イスラエルの民と同じように「うなじのこわい民」である私たちの罪を赦し、私たちを父なる神さまとご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに導き入れてくださいました。 この「恵みとまこと」に満ちた栄光の主であられるイエス・キリストのご臨在は、やはり、主の契約に基づくものです。しかし、それはいけにえの動物の血によって立てられた契約ではなく、「恵みとまこと」に満ちた栄光の主であられるイエス・キリストご自身の血によって立てられた契約に基づくご臨在です。 イエス・キリストが十字架におつきになる前の夜のことを記しているマタイの福音書26章26節~28節には、 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 と記されています。私たちは、ここで「わたしの契約の血」と言われている、御子イエス・キリストの血によって立てられた新しい契約にあずかっています。 ここに記されていることは、先ほど触れました「契約の食事」の本体です。シナイ山においては、イスラエルの民の70人の長老たちは主の栄光の顕現、セオファニーの足下を仰ぎ見ただけでした。私たちは「恵みとまこと」に満ちた栄光の主であられるイエス・キリストの御顔を仰ぎ見ています。そして、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかっています。私たちが、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じてこれにあずかるとき、イエス・キリストは「恵みとまこと」に満ちた栄光の主として私たちの間にご臨在してくださいます。そして、私たちをご自身と父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださいます。 |
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