(第69回)


説教日:2006年8月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第一の祈りである、

 御名があがめられますように。

という祈りに関連したお話を続けます。
 これまで、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例として出エジプト記32章1節〜6節に記されていることを取り上げてお話ししてきました。まず、そこに記されている出来事と、それに続いて起こった出来事について、これまでお話ししたことをまとめることからお話を始めます。
 イスラエルの民は父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、主の力強い御手のお働きによってエジプトの奴隷の身分から贖い出されました。エジプトを出たイスラエルの民は主に導かれてシナイ山の麓に来て、そこで宿営しました。主はシナイ山にご臨在され、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、その契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるために、主のご臨在の場である聖所を造るためのさまざまな戒めをモーセに示してくださいました。出エジプト記25章8節には、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

と記されています。そのために、モーセは主の御声にしたがって、主のご臨在されるシナイ山に登って行って、四十日四十夜そこで過ごし、聖所に関する戒めを受けていました。
 シナイ山の麓で待っていたイスラエルの民は、モーセの帰りが遅いと感じ、モーセの身に何かが起こったのではないかと考えました。そして、モーセの兄であるアロンのところに行って、自分たちをエジプトから連れ出してくれた神を作るように頼みました。それで、アロンは金の子牛を作りました。アロンとイスラエルの民は、この金の子牛を契約の神である主、ヤハウェと呼んで、礼拝しました。
 このような罪を犯したイスラエルの民に対して主の聖なる御怒りが燃え上がりました。そして、主はモーセに、この民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。このことは、イスラエルの民が主の契約の民としての存在の意味を失ってしまっていたことを意味しています。
 けれどもモーセは、このすべてを見ているエジプト人へのあかしのため、また、イスラエルの民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約の約束のために、イスラエルの民に対する御怒りを収めてくださるようにと、とりなしました。言い換えますと、主の御名のために、イスラエルの民を赦してくださるようにと願ったのです。主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、さばきをとどめてくださいました。


 これらのことを受けて、主は、モーセとイスラエルの民が、主がアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、約束の地に上って行くようにと言われました。その際に、主は「使い」を遣わしてくださって、モーセとイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださると言われました。この「使い」は、出エジプト記の中では、契約の神である主のご臨在のことであると考えられます。
 同時に、主ご自身はイスラエルの民のうちにあって上って行ってくださらないと言われました。その理由は、イスラエルの民は「うなじのこわい民」、すなわち、かたくなな民であるので、主のご臨在がそのようなイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民は主の聖さを冒してしまい、主のさばきによって絶ち滅ぼされてしまうことになるからであると言われています。
 そうしますと、主が「使い」を遣わしてイスラエルの民を導いてくださるというときの「使い」は主のご臨在を指していると考えられますから、それは主ご自身がイスラエルの民とともにいてくださるということではないかという疑問が出てきます。これにつきましては、前回お話ししましたように、主の栄光のご臨在はあるけれども、それはイスラエルの民の宿営の外の離れた所にあるということであると考えられます。主が聖所に関する戒めを与えてくださったのは、主の栄光のご臨在がイスラエルの民の中心にあって、イスラエルの民が主のご臨在を中心として住まい、主との交わりのうちに生きることができるようになるためでした。けれども、イスラエルの民の罪によって、このことが実現しなくなってしまったということです。
 この後に起ることを理解するうえで大切なことは、このことが私たちにも深く関わっているということです。イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作って、これを契約の神である主ヤハウェと呼んで礼拝したことは、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であることの典型的な現れでした。実際、イスラエルの民が「うなじのこわい民」であることは、この後も別の形で現れてきました。しかし、それは、はたして、このイスラエルの民だけの特徴であるのでしょうか。イスラエルの民が主の民の地上的なひな型であるというとき、この「うなじのこわい民」であるということは、そのまま、私たちの現実をも表しています。私たちも含めて、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間の現実を表しているのです。私たちがシナイ山の麓にいたら、形は違っているかもしれませんが、私たちも「うなじのこわい民」であることを現していたはずです。荒野のイスラエルの不信仰は、そのまま、私たちの姿でもあるのです。このことをしっかりと見据えて、この後に起ったことを見てみましょう。
 このように、主は「使い」を遣わしてくださって、イスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民とともには上って行ってくださらないと言われました。これを聞いて、モーセは再びイスラエルの民のためにとりなしました。33章12節〜13節には、

さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」

と記されています。
 これに対して主は、

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。

とお答えになりました。しかし、これだけでは、主がモーセ個人とともにおられるというだけのことかもしれません。それで、モーセはさらに祈ります。15節、16節には、

それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」

と記されています。主はこのモーセの祈りを受けて、

あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。

と言われました。
 この主の言葉を聞いたモーセは、意外なことを願います。18節には、

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

と記されています。これが意外な願いであるというのは、モーセはすでに主がご臨在されるシナイ山に登っていって、主の栄光のご臨在に接しているからです。24章15節〜18節には、

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

と記されています。ここでは「」のことが繰り返し語られています。これは自然現象としての雲のことではありません。これはやはり繰り返し出てくる「主の栄光」と結びついていることから分かりますように、主の栄光のご臨在を表示する雲です。つまり、ここにはモーセが主の栄光のご臨在の御前に立ったことが示されているのです。そして、これに続く25章1節に、

主はモーセに告げて仰せられた。

と記されていることは、栄光のうちにご臨在される主がモーセに語りかけてくださったことを示しています。そして、主はご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための聖所に関する戒めをモーセに示してくださいました。
 このように、モーセはシナイ山に登って、主の栄光のご臨在に触れています。そして、栄光のご臨在の御許からの語りかけを聞き、主との交わりのうちに過ごしました。しかもそれは束の間のことではなく、「四十日四十夜」にわたってのことです。またそれは、モーセひとりに許された特権でした。すでに、そのような経験をしているモーセが、いまだ主の栄光を見ていない者であるかのように、

どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と、主に願ったのです。これはいったい、どういうことでしょうか。
 このことの意味を考えるための鍵は、すでにお話ししました33章1節〜3節に記されている主の言葉です。主はモーセにイスラエルの民を率いて約束の地に上るように命じられました。しかし、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民を途中で絶ち滅ぼしてしまうことがないために、イスラエルの民とともに約束の地に上っては行かれないと言われました。主がともに行かれないことは、イスラエルの民が主のさばきによって絶ち滅ぼされてしまうことがないようにという、主のご配慮によっていました。ところが、主はモーセのとりなしにお答えになって、ご自身がイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言われました。主のご臨在がイスラエルの民の宿営の中心にあって、イスラエルの民は主のご臨在の御前に住まう状態で、約束の地まで導かれていくということです。
 そうしますと、ここに別の問題が生じてきます。主がこのような形でイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださるなら、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、その本質は変わりませんから、主に対して罪を犯し、主のご臨在の聖さを冒してしまうことになります。そのために、主の聖なる御怒りを引き起こして、絶ち滅ぼされてしまうことになります。
 モーセが、

どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と主に願ったのは、このような問題を踏まえてのことであると考えられます。どういうことかと言いますと、モーセはすでに主の栄光のご臨在のあるシナイ山に上って行って、主の栄光のご臨在に触れました。その主の栄光は「うなじのこわい民」であるイスラエルの民の罪を罰して、御前から絶ち滅ぼしてしまうことによって、主が聖なる方であられることを表す栄光でした。この主の栄光のご臨在がイスラエルの民とともにあるなら、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、必ずや、主の御名の聖さを冒し、主の聖なる御怒りに触れて滅ぼされることになります。
 けれども、主は、ご自身の栄光のご臨在が「うなじのこわい民」であるイスラエルの民とともにあって、イスラエルの民を約束の地に導き入れてくださると約束してくださいました。それで、これは必ず実現します。そうであれば、主の栄光のご臨在は、先にモーセがシナイ山で触れた栄光のご臨在とは違った意味をもつ栄光のご臨在であるはずです。これまで、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださった御業を通して主の恵みに満ちた栄光が現されました。それは、それとして十分な恵みに満ちた栄光の現れでした。けれども、その主の栄光のご臨在は「うなじのこわい民」であるイスラエルの民の罪をさばき、ついにはその御前から絶ち滅ぼしてしまうに至るものでした。そのようなイスラエルの民とともにあって、なおも、イスラエルの民が約束の地に至るまで導いてくださる主の栄光のご臨在は、さらに深く豊かな恵みに満ちている主の栄光のご臨在であるはずです。モーセはそのような新しい意味をもっている主の栄光のご臨在、より深く豊かな恵みに満ちている栄光を見せていただきたいと主に願ったと考えられます。
 主はモーセの願いを受け入れてくださいました。33章19節〜23節には、

主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されています。
 19節に記されていますように、主は、まず、

わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。

と言われました。この場合の「わたし自身」は(代名詞による)強調形です。これと響き合うように対応しているのが、2回繰り返されている「あなたの前に」という言葉です。この言葉は文字通りには「あなたの顔に」で、慣用句として「あなたの前に」ということを表します。ここでは、強調形の「わたし」と、2回繰り返されている「あなたの前に」という言葉が響き合って、主が親しくモーセとかかわってくださることを表しています。
 さらに、この強調形の「わたし」は、同じ19節後半の、

わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。

という言葉に示されている主の恵みの主権性にもつながっていると考えられます。主の恵みは主権的な恵みです。私たちが死と滅びの道から贖い出されたのは主の一方的な恵みによることですが、それを言い換えますと、私たちは、主ご自身が、

わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。

とあかししておられる主権的な恵みによって死と滅びの道から贖い出されているということです。つまり、主は私たち自身のうちに何か良いところがあるの私たちをあわれみ、恵みを示してくださったのではないということです。ここでは、モーセであってさえ、主の主権的で、それゆえに一方的な恵みにあずかって、主のご臨在の御前に近づけられていることが示されています。
 主が、

わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ

と言われたときの「わたしのあらゆる善」は単数形です。これが何を意味しているかについては意見が分かれていますが、結論的に言いますと、主の本質的な特性を総称的に表していると考えられます。実際に、主の栄光がモーセに示されたことを記している、34章5節〜7節には、

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。この、

あわれみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者

と言われていることが「わたしのあらゆる善」の具体的な表れであると考えられます。
 主は続いて、

主の名で、あなたの前に宣言しよう。

と言われました。この場合の「主の名」の「」は契約の神の御名である「ヤハウェ」です。新改訳によりますと、ここでは、何が宣言されるのかが示されてはいません。
 新改訳が「主の名で・・・宣言しよう。」と訳したのは、「」の前に「」に当たる前置詞(ベ)があるからです。新改訳は、この前置詞(ベ)を手段としての意味をもつものと理解しています。これに対して、新国際訳は、この「主の名で」を「宣言しよう」の目的と取って、

 わたしの名、主、を宣言しよう。

と訳しています。新共同訳も、これと同じように、

 主という名を宣言する。

と訳しています。これに関しての議論を省略して、結論だけを言いますと、この主の言葉の意味は、これら2つの訳(新国際訳、新共同訳)と新改訳の中間にあると思われます。ここで「御名」の前に前置詞(ベ)を用いて表わされていることは、ただ単に、「ヤハウェ」という御名そのものが宣言されるということではなく、その「ヤハウェ」という御名が表していることが明らかにされるということであると考えられます。
 しかも、それは、これまでお話ししましたように、主のご臨在されるシナイ山の麓で宿営していたイスラエルの民が、金の子牛を作って、これを契約の神である主ヤハウェと呼んで、礼拝したことを踏まえてのことです。繰り返しになりますが、「うなじのこわい民」であるイスラエルの民は、その本質が変わりませんので、主に対して罪を犯し続けます。それで、主の御名の聖さを冒すことになり、主のさばきを招いて絶ち滅ぼされることになります。しかし、主は、モーセのとりなしを受け入れてくださって、そのようなイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地まで導き上ってくださると言われました。それは、イスラエルの民が本質的に「うなじのこわい民」であるにもかかわらず、なおも、イスラエルの民を最後まで約束の地へと導き上ってくださるという、より深く豊かな恵みに満ちた栄光において示されるヤハウェの御名であるはずです。

 主の名で、あなたの前に宣言しよう。

という主の言葉は、ヤハウェの御名のそのような意味を明らかにしてくださることを意味しています。
 初めにお話ししましたように、本性的、本質的に「うなじのこわい民」であるという点では、私たちはイスラエルの民と同じです。その意味で、主ヤハウェが、より深く恵みに満ちた栄光にかかわる御名の意味を明らかにしてくださることは、イスラエルの民にとってだけでなく、私たちにとっても意味をもっています。事実、私たちは、より深く、より豊かな恵みに満ちた栄光の主の御名のうちに保たれています。この点につきましては、さらに、続けてお話しいたします。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第68回)へ戻る

「主の祈り」
(第70回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church