(第1回)


説教日:
聖書箇所:


 今日も、主の祈りの第一の祈りである、

 御名があがめられますように。

という祈りについてのお話を続けます。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 先週と先々週は、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例として出エジプト記32章1節〜〜6節に記されていることを取り上げました。繰り返しのことになりますので御言葉の引用はいたしませんが、簡単にそこに記されている出来事をまとめておきます。
 主の力強い御手のお働きによってエジプトの奴隷の身分から解放されたイスラエルの民は、主に導かれてシナイ山の麓に来て、そこで宿営しました。主はそこでイスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、主はその契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるために、主のご臨在の場である聖所を造る際のさまざまな規定をモーセに示してくださいました。そのために、モーセは主の御声にしたがって、主のご臨在されるシナイ山に登って行って、聖所に関する戒めを受けていました。
 シナイ山の麓で待っていたイスラエルの民は、モーセの帰りが遅いと感じ、モーセの身に何かが起こったのではないかと考えました。そして、モーセの兄であるアロンのところに行って、自分たちをエジプトから連れ出してくれた神を造ってくれるように頼みました。それで、アロンは金の子牛を作りました。アロンとイスラエルの民は、この金の子牛を契約の神である主、ヤハウェと呼んで、礼拝したのです。
 この時、イスラエルの民は自分たちの契約の神、ヤハウェを捨ててほかの神を礼拝したつもりはなく、あくまでもヤハウェを礼拝しているつもりでした。それでは、どうして金の子牛を作ってしまったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトの地で身に着けてしまっていたイメージにしたがってヤハウェのことを考えて、そのイメージに合う偶像を作ったからであると考えられます。
 このような罪を犯したイスラエルの民に対して主ヤハウェの聖なる御怒りが燃え上がりました。そして、主はモーセに、この民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。けれどもモーセは、このすべてを見ているエジプト人へのあかしのため、また、イスラエルの民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約の約束のために、イスラエルの民に対する御怒りを収めてくださるようにととりなしました。一言で言いますと、契約の神である主ヤハウェの御名のために御怒りを収めてくださるようにと祈ったのです。主はモーセのとりなしを受け入れてくださり、さばきをとどめてくださいました。
 このモーセのとりなしのことに続いて出エジプト記32章15節〜19節には、

モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

と記されています。
 ここにはモーセが、シナイ山において主から受け取った十戒を記した二つの石の板を砕いてしまったことが記されています。これは、モーセが怒りのあまり前後の見境なくその石の板を砕いてしまったということではありません。その当時の文化の発想に照らして見ますと、これは主がイスラエルの民との間に結んでくださった契約文書が砕かれたということで、その契約自体が破棄されたことを意味しています。


 この後いくつかのことが起こりますが、それらは省略いたします。それらのことを受けて、33章1節〜3節には、

主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」

と記されています。
 ここでは、ある意味で互いに緊張関係にある二つのことが語られています。
 一つは、1節〜3節前半に記されていることです。そこでは、イスラエルの民が、主がご自身の契約を通してアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった約束にしたがって、約束の地に上って行くべきであることが示されています。その際に、

わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。

と言われていますように、主が「ひとりの使い」を遣わしてくださることが約束されています。この「ひとりの使い」は「使い」の単数形で表されているもので「ひとりの」という言葉はありません。また、この「使い」には冠詞がついていません。(ヘブル語の冠詞は定冠詞です。)
 ここに記されていることは、モーセのとりなしの結果、イスラエルの民がアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約のうちに保たれていることを示しています。そのために、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束がイスラエルの民に当てはめられ、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出して、約束の地まで導き入れてくださる御業が中断することなく続けられることが示されました。
 これと緊張関係にあると思われるもう一つのことは、3節後半に記されていることです。そこには、

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

と記されています。ここでは、主はイスラエルの民のうちにあって上って行ってくださらないと言われています。その理由は、イスラエルの民は「うなじのこわい民」であるので、もし主のご臨在がイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民は主ヤハウェの聖さを冒してしまい、主のさばきによって絶ち滅ぼされてしまうことになるからであると言われています。
 「うなじのこわい」というのは、文字通りには「首がかたい」ということで、高慢で、強情で、手に負えない状態を表わしています。ですから、ここで問題になっているのは、「うなじのこわい民」であるというイスラエルの民の実質的な特質です。普通に考えますと、イスラエルの民が契約の神である主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを自分たちの契約の神であるヤハウェであるとして拝んだ罪が問題であると考えられます。しかし、その出来事はイスラエルの民が「うなじのこわい民」であるということの現われの一つです。主が問題としておられるのは、そのような罪が生み出されるイスラエルの民の特質です。
 主のご臨在がそのような「うなじのこわい民」とともにあるなら、その民は繰り返し主の聖さを冒してしまうことでしょう。そうなれば主はイスラエルの民をおさばきになり、絶ち滅ぼしてしまうことになりす。それで、主は「使い」を遣わしてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約の約束の通りイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民とともには上って行かないと言われたのです。
 ここには、その「使い」が誰なのかという問題がありますが、これは後からお話ししますが、モーセにとっても問題となります。出エジプト記の中では、主がご自身の「使い」を遣わして、イスラエルの民を約束の地へと導き入れてくださるという約束は、すでに23章に記されています。23章20節〜23節には、

見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。

という主の御言葉が記されています。ここでは、主が遣わしてくださる「使い」は、イスラエルの民を導いて、約束の地に導き入れてくださる方であると言われています。
 21節の「あなたは、その者に心を留め」と訳されている部分の「その者」は、原文では「顔」とか「ご臨在」を表わす言葉(パーニーム)で表されています。それで「その者に心を留め」を直訳しますと「彼の臨在に心を留め」あるいは「彼の顔に心を留め」となります。このことは、主が遣わしてくださる「使い」は、イスラエルの民とともにいてくださる方、イスラエルの民の間にご臨在される方であることを強調するものです。
 また、同じ21節では、「わたしの名がその者のうちにある」と言われていて、主の御名がその「使い」のうちにあることが示されています。主の御名は主ご自身を表示するものです。それで、主の御名がそのうちにあるということは、主ご自身がそこにご臨在しておられることを意味しています。このように、主が遣わしてくださる「使い」は、イスラエルの民の間にある主のご臨在を意味していると考えられます。
 33章に戻りますが、そうしますと、そのような「使い」が遣わされるということは、主のご臨在がイスラエルの民の間にあるという意味ではないかという疑問がわいてきます。
 これにつきましては、先ほど言いましたように、この33章2節の「使い」に(定)冠詞がついていないことは、この「使い」が先ほどの23章20節〜23に記されていた「使い」とまったく同じではないことを示しています。同時に、その「使い」の働きはイスラエルの民をアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に約束された地に導き入れるという点で同じです。それで、この33章2節の「使い」は、主ヤハウェのご臨在ではあるけれども、そのご臨在の意味合いが23章20節〜23節に示されている「使い」におけるご臨在と違っていることを示していると考えられます。
 実際にそれがどのようなことであったかは、33章1節〜3節に続いてに記されている部分において示されていると考えられます。7節〜9節には、

モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。

と記されています。
 ここに記されていることがいつのことであるかについては、意見が分かれています。一つの見方は、これは、イスラエルの民が金の子牛を作って、これを主ヤハウェであるとして拝んだ時からのことであるというものです。その時から、主のご臨在はイスラエルの民の宿営の外の離れた所にあるようになったというものです。もう一つの見方はその時より前のこと、つまり、イスラエルの民がシナイ山に宿営し始めた時からのことであるというものです。この点については、それぞれに言い分があって、どちらとも言えない気がします。
 いずれにしましても、この後、今お話ししているイスラエルの民の背教にもかかわらず、主は恵みとあわれみによって、イスラエルの民との契約を回復してくださいます。それにつきましては日を改めてお話ししますが、主との契約が回復された後、イスラエルの民は、主がシナイ山においてモーセに与えてくださった戒めにしたがって、主がご臨在される場である聖所を中心とした幕屋を造るようになります。そして、イスラエルの民はその幕屋を中心として宿営するようになります。つまり、主のご臨在がイスラエルの民の中心にあるようになるのです。これが、祭司の国として召されたイスラエルの民の本来のあり方でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されたのは、主のご臨在の御前に住まい、主のご臨在の御前で仕えるようになるためのことでした。そして、それを実現してくださるために、主は聖所を中心とする幕屋を建設するための戒めを、モーセを通して与えてくださったのでした。
 しかし、先ほど引用しました7節に記されています、

モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。

という言葉は、主のご臨在とイスラエルの民の宿営との間の距離を示しています。シナイ山でモーセに与えられた戒めにしたがって聖所を中心とする幕屋が造られるなら、それによって、主のご臨在がイスラエルの民の間にあるようになったはずです。イスラエルの民は主がご臨在される聖所を中心として宿営したはずです。ところが、イスラエルの民が金の子牛を作って、これを主ヤハウェであるとして拝んだことによって、主の契約は破棄され、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださることはなくなってしまいました。
 先ほどの二つの見方に関してですが、もし初めから主のご臨在の場である「会見の天幕」がイスラエルの民の宿営の外の離れた所にあったのであれば、このイスラエルの民の背教によって、その状態が続くことになったということになります。また、この背教によって「会見の天幕」がイスラエルの民の宿営の外の離れた所に移された可能性もあります。いずれにしましても、これでは、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださって、イスラエルの民と契約を結んでくださったこと、そして、聖所を中心とする幕屋に関する戒めを与えてくださったことが、空しいことになってしまいます。
 そうではあっても、9節に、

モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。

と記されていますように、モーセが「会見の天幕」に入ると、主はそこにご臨在されて、モーセと語ってくださいました。そのことが、33章2節に記されている主が「使い」をモーセとイスラエルの民の前に遣わして、約束の地まで導いてくださるということが意味するところであると考えられます。
 しかし、モーセはこのことをよしとして引き下がることはありませんでした。12節〜17節には、

さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」

と記されています。
 モーセは、まず、

ご覧ください。あなたは私に、「この民を連れて上れ。」と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。

と主に祈りました。これは、1節〜3節前半に記されている、

あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。

という主の言葉に触れるものです。そして、主が、

わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし

と言われたことについて、その「使い」が誰であるかを問題としています。これに対しては、主が、

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。

とお答えになっています。実は、この「わたし自身が」と訳された言葉(パーナイ)は直訳では「わたしの臨在が」あるいは「わたしの顔が」です。それで、

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。

は、直訳しますと、

わたしの臨在が行って、わたしがあなたを休ませよう。

あるいは、

わたしの顔が行って、わたしがあなたを休ませよう。

となります。また、これに対してモーセが、

もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

とお答えしたときの「あなたご自身が」も、直訳では「あなたのご臨在が」あるいは「あなたの御顔が」です。やはり、あの「使い」は主ヤハウェのご臨在であったのです。
 モーセは、主が、

わたしの臨在が行って、わたしがあなたを休ませよう。

とお答えくださっただけでは引き下がりませんでした。というのは、それは主が遣わしてくださる「使い」が誰であるかに対する答えですし、

わたしがあなたを休ませよう。

という言葉に示されていますように、基本的にモーセ個人にかかわることです。それでは、イスラエルの民の宿営の外に主がご臨在されて、ただ、モーセとだけ語られることだけかもしれません。それで、モーセはさらに、

もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。

と祈りました。これはイスラエルの民のためのとりなしの祈りです。そして、イスラエルの民の存在の意味を回復してくださることを祈り求めることです。
 主のご臨在がイスラエルの民の中心にあって、イスラエルの民が主の御前に住み、主の御前で仕えることがなければ、イスラエルの民の存在の意味はなくなってしまうのです。それで、主のご臨在がイスラエルの民とともにないのであれば、いくらそこが「乳と蜜の流れる地」であっても、約束の地に入る意味もないのです。
 これはそのまま、私たちの存在の意味にも当てはまります。もし私たちが主のご臨在の御前に住まい、主を礼拝することを中心として主に仕えることがないのであれば、どんなに平穏なところに住んでも、私たちの存在の意味は空しくなってしまいます。そこでの歩みのすべては、この世とともに過ぎ去ってしまいます。
 主はそのような告白を伴うモーセのとりなしの祈りを受け入れてくださり、

あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。

とお答えになりました。主はイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地にまで導き上ってくださるというのです。
 このことはさらに新しい問題を生み出すとともに、主の御名についてのより豊かな意味の啓示につながっていきます。そのことについては、さらに続いてお話しします。

 


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