(第67回)


説教日:2006年7月16日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第一の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 神さまの聖さの本質は、神さまがご自身がお造りになったものと絶対的に区別される方であられることにあります。神さまはその存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方であられます。それゆえに、その存在と属性の輝きである栄光においても無限、永遠、不変の方です。これに対して、造られたものには被造物としての限界があり、時間的なものであり、時間とともに経過し変化していきます。ですから、神さまと神さまがお造りになったものの間には絶対的な区別があります。このように、神さまの聖さは無限、永遠、不変の聖さであり、何ものによっても、より聖くされたり、汚されたりすることはあり得ません。それで、私たちが、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るのは、神さまご自身がより聖なるものとなられるようにという意味ではありません。
 神さまの御名は、神さまがどのようなお方であるかを、神さまが私たちに啓示してくださったものです。私たちは、神さまが私たちに啓示してくださった御名が聖なるものとされるように、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださるようにと祈るのです。
 先週は、イスラエルの民が神さまの御名を汚してしまった事例として出エジプト記32章1節〜〜6節に記されていることを取り上げました。そこには、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。
 ここでは、イスラエルの民が主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで、礼拝したことが記されています。これは、イスラエルの民がヤハウェの偶像を作って、これを礼拝したということです。イスラエルの民としてはヤハウェを捨ててほかの神を礼拝したつもりはありません。イスラエルの民はエジプトの地で身に着けてしまっていたイメージにしたがってヤハウェのことを考えて、そのイメージに合う偶像を作ったのであると考えられます。これこそが出エジプト記20章4節〜6節に、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と記されている十戒の第二戒に背くことでした。
 イスラエルの民は、神さまがモーセをとおして啓示してくださった、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を知らされていました。また、その御名によって呼ばれる方として、神さまがエジプトと紅海と荒野でなしてくださった数々の御業を目の当たりにしてきました。それにもかかわらず、主ヤハウェを子牛のイメージで考え続けていたのです。これは、神さまの御名を汚すことです。神さまを、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方として理解しなかったし、実際にそのような方として接することをしなかったということです。

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名にふさわしく、神さまに接するということは、何よりも、まず、礼拝をささげることに現れてきます。イスラエルの民はこの、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名にふさわしい礼拝をささげませんでした。


 このようなイスラエルの民の罪に対して主がモーセに告げられたことが32章7節〜10節に記されています。そこには、

主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

と記されています。
 主はイスラエルの民をおさばきになり、聖なる御怒りをもってイスラエルの民を絶ち滅ぼし、モーセから新しい民を生み出されると言われました。このさばきは、主がご自身の御名を汚す者をおさばきになるということで、主がご自身の御名を聖なるものとされることを意味しています。
 これはモーセにとって、自分と自分の子孫が栄えるようになる機会でした。しかも、これは主の御名の聖さを守ることでもありました。しかし、モーセはイスラエルの民のためにとりなしをします。11節〜13節には、

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」

と記されています。
 このとりなしにおいてモーセは三つのことを祈っていますが、最初の二つは一つのこととして理解したほうがいいと思われます。というのは、一つ目の、

主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

という祈りに対しては、主が「偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民」であるイスラエルの民が、その主の戒めに背いて金の子牛を作り、これを主ヤハウェであるとして礼拝したのだから、聖なる御怒りによって絶ち滅ぼされるのは当然であるという答えが返ってくるからです。それで、これは、これに続く、

また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

というとりなしにつなげて理解されなければなりません。
 この部分の最後において、

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

という願いが表されています。これは、一つ目の、

主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

という祈りと、続く、

また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。

という祈りを受けて、

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

という願いが表されていると考えられます。
 その当時の強大な帝国であったエジプトは、その地域の至る所に情報網を張っていたはずです。当然、エジプトを出たイスラエルの民の情報はエジプトの当局者たちの関心の的であったはずです。また、エジプトだけでなく周辺の国々の民の関心の的であったはずです。事実、この時から40年後にイスラエルの民はモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入します。それに先だってヨシュアは二人の者を斥候、スパイとして遣わしてエリコの町を探らせました。ヨシュア記2章9節〜13節には、二人の斥候を受け入れたラハブの言葉が記されています。その中でラハブは、

主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

と言っています。出エジプトの際に主ヤハウェがなさった御業については、40年後のカナンの地の民の間においても鮮明に記憶されていたのです。
 エジプト人は主ヤハウェがイスラエルの民をエジプトから連れ出されたことを身にしみて知っていました。それで、もしこの時シナイ山の麓でイスラエルの民が絶ち滅ぼされてしまったなら、エジプト人たちは、

神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。

と考えるようになるということが、モーセのとりなしの主旨です。言うまでもなく、それでは、エジプト人の間で主の御名が汚されるようになるという意味です。
 さらにモーセは、

あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。」と仰せられたのです。

というように、主ヤハウェがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に訴えています。
 この神さまがアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブと受け継がせてくださった契約は、神さまが一方的な恵みによって与えてくださったものです。創世記15章には神さまがアブラハムに与えてくださった子孫に関する約束が記されています。15章1節〜6節には、

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
 「アブラムよ。恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。
 ここには、アブラハムが自分の子孫に関する主の約束を信じて義と認められたことが記されています。新約においては、このことに基づいて、信仰による人こそがアブラハムの子孫であると言われています。ガラテヤ人への手紙3章6節、7節に、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

と記されている通りです。
 創世記15章では、続く7節〜17節に、

また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

と記されています。
 ここには、主がアブラハムと契約を結んでくださったことが記されています。アブラハムは主の戒めにしたがって「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」しました。その時、アブラハムに対して、出エジプトの意味についての啓示が与えられました。アブラハムの子孫は4百年の間、他国の奴隷となること、その後、主がその地の民をおさばきになるので、アブラハムの子孫はその地を出て、カナンの地に戻って来るということです。そして、アブラハムの子孫がカナンの地に侵入することは、「エモリ人の咎」が満ちることに対するさばきとしての意味をもっているということです。
 そのような啓示があった後、

さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

と言われています。これが何を意味しているかは、エレミヤ書34章18節〜20節に記されていることに照らして理解されます。そこには、

また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。わたしは彼らを、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。

と記されています。
 ここには、「二つに断ち切られた子牛の間を通った者」という言葉が出てきます。これは主との間に契約を結んだ者たちのことを指しています。つまり、二つに切り裂かれた動物の間を通ることは、契約を結ぶための儀式であったのです。そして、もしその契約に背くようなことがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという「のろい」を制裁として契約が結ばれていたということです。この場合には、「二つに断ち切られた子牛の間を通った者」は「ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった」と言われています。
 これに対して、創世記15章17節では、

さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

と言われています。「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は、火と煙にかかわっていて、神さまの栄光の顕現(セオファニー)としての意味をもっています。これによって、神さまのご臨在を表しています。また、「通り過ぎた」という言葉(アーバル)も神さまの栄光の顕現にかかわる言葉です。ですから、ここでは神さまのご臨在が二つに切り裂かれた動物の間を通られたのですが、アブラハムはその間を通っていません。これは主がアブラハムと契約を結んでくださったことを表していますが、主が一方的にその誓いをしてくださり、アブラハムは、主を信じてその約束にあずかっているだけです。
 このことに、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約の特質があります。それはまた、私たちがあずかっている主の契約の特質です。そして、出エジプト記3章16節に記されていますように、神さまはご自身の御名をモーセを通してイスラエルの民に示してくださったときに、

あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主

として示してくださいました。これは、ヘブル語の順序としては、主すなわち「ヤハウェ」が先にあり、これを「あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神」と説明しています。
 モーセはこのことに基づいて、シナイ山の麓で金の子牛を作り、これを主ヤハウェであるとして礼拝したイスラエルの民のためにとりなしをしているのです。ですから、このモーセのとりなしは、主ヤハウェの御名のためにイスラエルの民を赦してくださるようにというとりなしであるのです。

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名のお方として、アブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約の約束を実現してくださることによって、御名の聖さを現してくださるようにという祈りです。
 これは、主がご自身の御前に背教したイスラエルの民を聖なる御怒りによって絶ち滅ぼしてしまうことを通して御名を聖なるものとされるのとは異なる道によって、ご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めることでした。そして、実際に、主ヤハウェはこのモーセのとりなしを受け入れてくださいます。ご自身の御名の聖さを示してくださるためにイスラエルの民へのさばきをとどめてくださったのです。このことは、かつては神さまの御前に罪を犯して、神さまを神としてあがめることもなく歩んでいた私たちが救いにあずかったのは、神さまがご自身の御名の聖さを表してくださるためであったことをあかしすることになります。このことについては、さらに続けてお話しします。

 


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