(第66回)


説教日:2006年7月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も主の祈りについてのお話を続けます。
 これまで主の祈りの第1の祈りについてお話ししてきました。第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 このように、私たちは主の祈りの第1の祈りにおいて、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めます。これは、神さまご自身が聖くされるようにと祈ることとは違います。繰り返しお話ししてきましたが、神さまは聖なる方です。そして、神さまの聖さは無限、永遠、不変ですから、神さまがさらに聖くなられるということはありませんし、何ものかが神さまの聖さを損なうということもありえません。
 確かに、私たちはあることが神さまの聖さを冒すことであると言うことがあります。しかし、厳密に言いますと、それは、神さまを聖なる方と認めないこと、神さまを聖なる方として扱わないことを意味しています。
 そのような例として出エジプト記32章1節〜6節に記されていることを見てみたいと思います。そこには、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。
 この出来事が起った背景を見ておきますと、神さまはエジプトの奴隷となってしまっているイスラエルの民のうめきをお聞きになって、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を覚えてくださいました。出エジプト記2章23節、24節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されている通りです。それで、神さまはイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放してくださるために、モーセを召してくださり、エジプトの王パロのもとに遣わしてくださいました。その際に、神さまは、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

というご自身の御名を啓示してくださいました。この御名の意味についてはこれまで繰り返しお話ししました。
 契約の神である主はモーセをとおして力強いお働きをなさり、エジプトの地と紅海においてエジプトへのさばきを執行されるとともに、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出されました。そして、イスラエルの民をシナイ山の麓まで導いて来られ、そこでご自身との契約を結んでくださいました。その時、主はシナイ山にご臨在されました。19章16節〜18節には、

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

と記されています。
 このように、主はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、モーセにシナイ山に登るように命じられました。それは、主がご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるために必要な聖所に関する戒めを与えてくださるためでした。それで、モーセはシナイ山に登りました。25章8節、9節には、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

という主がモーセに語られた言葉が記されています。これに続いて、主は幕屋とそこで仕える祭司たちのことなどに関する戒めをモーセにお示しになりました。
 そのようにして、主からの戒めを受け取っているモーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、主の栄光のご臨在のあるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを礼拝してしまったのです。
 これは、単なる偶像礼拝ではありません。先ほど引用しました32章4節、5節には、

彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」

と記されていました。アロンは、

あすは主への祭りである。

と言いましたが、この「」は、新改訳で太字で記されていることに示されていますが、神さまの固有名詞としての御名である「ヤハウェ」です。つまり、この時イスラエルの民は偶像の神を作ったのではなく、自分たちの契約の神、ヤハウェを表す偶像を作ったのです。そのことは、この金の子牛について、彼らが、

イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。

と言ったことにも表れています。
 これは十戒の第2戒に反することです。第2戒は出エジプト記20章4節〜6節に、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と記されています。これは偶像を作ることを禁じる戒めですが、これに先立つ3節に記されている第1戒においては、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と戒められています。ここでは、主ヤハウェだけを神とすべきことが示されています。それで、第2戒においては、他の神々の偶像を作ることではなく、ヤハウェを表す偶像を作ってはならないと戒められていると考えられます。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という戒めに「自分のために」という言葉が加えられていることもこのことを支持していると思われます。
 このように、エジプトの地と紅海において主の力強い御手のお働きに接し、主がご臨在しておられるシナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民が、金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝したのです。これは神さまの聖さを冒すことです。けれども、厳密に言いますと、これによって神さまの無限、永遠、不変の聖さそのものが傷ついたということはありません。神さまご自身が汚されたということではありません。そうではなく、イスラエルの民が契約の神である主、ヤハウェを無限、永遠、不変の栄光の神にふさわしく礼拝しなかったということです。

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名のお方を、金の子牛になぞらえて表して、これを礼拝してしまったのです。このようにして、イスラエルの民は神さまの御名を汚してしまいました。


 私たちはこれらのことを啓示の御言葉を通して知らされていますので、イスラエルの民の愚かさが分かります。けれども、本当に分かっているのか、考えてみる必要があります。これをイスラエルの民の立場に立って考えてみましょう。イスラエルの民からすれば、自分たちは契約の神である主、ヤハウェを礼拝したのであって、ヤハウェ以外の神を礼拝したつもりはまったくありません。主観的には、つまり、イスラエルの民の気持ちの上では、ヤハウェを礼拝しているのです。
 それでは問題は何だったのでしょうか。それは、イスラエルの民のうちにあった神概念にありました。イスラエルの民は長いことエジプトの地に住まい、奴隷としての生活を続けておりました。そのことを通して、エジプトの文化の発想の影響を強く受けていたと考えられます。実際、牛はエジプトの神々の一つでした。
 イスラエルの民は金の子牛を作りましたが、イスラエルの民からしますと、契約の神である主、ヤハウェを捨ててしまったという思いはまったくありません。古代オリエントの文化の発想では、偶像そのものは神ではありませんでした。偶像は「神」の臨在を表示するものでした。イスラエルの民はヤハウェのご臨在を表示するものとして金の子牛を作ったわけです。ですから、イスラエルの民はヤハウェを礼拝しようとして金の子牛を作ったのです。そのようなことをしてしまったのは、イスラエルの民がエジプトの地で身に着けてしまっていた神の概念をもってヤハウェのことを理解していたからにほかなりません。その時に至るまで、イスラエルの民は主、ヤハウェの力強い御業を目の当たりにしてきました。また、シナイ山にご臨在される主、ヤハウェの栄光の顕現に触れて震え上がってしまいました。そのような経験をしても、彼ら自身のうちにあったエジプト的な神概念は変わることはなかったのです。そして、その神概念に合わせて、ヤハウェのことを考え続けていたわけです。そのことが、この時、金の子牛を作って、これをヤハウェと呼んで礼拝したこととして表れてきました。
 私たちは神さまを礼拝するときに偶像を作ることはいたしません。けれども、私たち自身のうちにある神さまについての理解は、本当に、御言葉に沿ったものとなっているでしょうか。そして、私たちのささげる礼拝は、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方に対する礼拝にふさわしいものとなっているでしょうか。それとも、自分たちの考えに合わせて神さまのことを理解し、自分たちの好む方法で主、ヤハウェを礼拝しているというようなことはないでしょうか。
 出エジプトの時代に金の子牛を作って、それをヤハウェと呼んで礼拝したイスラエルの民に対して、神である主の聖なる御怒りが燃え上がりました。32章7節〜10節には、

主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

と記されています。
 ここでは、イスラエルの民を滅ぼしてしまって、モーセから新しい民を起こして、それをご自身の契約の民としようと言われています。これは、自分たちの考えに合わせて神さまのことを理解し、自分たちの好む方法で神さまを礼拝することが、神さまの御名の聖さを冒すことであり、主の契約の民の存在の意味を無にすることであることを示しています。
 ここに記されていることも含めて、御言葉に示されている礼拝に関する教えから、私たちは御言葉に示されていることにしたがってのみ神さまを礼拝しなければならないと告白しています。逆に言いますと、御言葉に示されていないことを礼拝の要素として取り入れてはならないということです。これを「礼拝における規制的原理(レギュラティヴ・プリンシプル)」と呼びます。『ウェストミンスター信仰告白』21章1項の後半では、

しかし、このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。(日本基督改革派教会大会出版委員会訳)

と告白されています。
 このことと関連して一つのことを考えておきたいと思います。
 神さまの聖さは、神さまが、ご自身がお造りになったこの世界のいかなるものとも絶対的に区別される方であることを意味しています。神さまは、その存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方です。神さまの存在は無限、永遠、不変ですし、神さまの知恵と力は無限、永遠、不変です。神さまの真実と義も無限、永遠、不変ですし、神さまの愛といつくしみと恵みも無限、永遠、不変です。このように、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられます。それで、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。これに対して、神さまがお造りになったものは、人間でも御使いでも、あるいはそのほかのどのようなものでも、存在においても一つ一つの性質においても、有限なものであり、時間的なものであり、時間とともに経過し変化するものです。
 このように、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であること、そして、それゆえに、神さまがお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であることが、神さまの聖さの本質です。そして、この神さまの聖さも無限、永遠、不変のものですので、何ものもこれを変えることはできません。
 私たちは、「神さまの聖さは、神さまがその存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の方であられ、それゆえに、神さまがお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であられることにある。」と、言うことはできます。けれども、それは、私たちが神さまの無限、永遠、不変の聖さを知っているという意味ではありません。私たちは神さまの聖さのゆえに、すなわち、神さまと私たちの間にある絶対的な区別のゆえに、神さまを直接的に知ることができません。テモテへの手紙第1・6章15節後半と16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されている通りです。これが私たちと神さまとの間の最も基本的な関係です。私たちはこのことを忘れがちになってしまいますが、いつも、神さまが「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」であられるということを、私たちのいちばん奥深いところにおいて記憶し続けなければなりません。
 しかし、そうであれば、私たちは無限、永遠、不変の栄光の神さまにふさわしい礼拝をささげることはできないのではないだろうかという気がいたします。
 この問題については、今お話ししたことを踏まえた上でお話しするのですが、神さまが「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」であられるということが私たちと神さまとの関係のすべてではありません。そのことは私たちと神さまの関係のいちばん奥深くにあることですが、それがすべてではありません。神さまは私たち人間をご自身のかたちにお造りになって、私たちにご自身を啓示してくださいました。それで、私たちは神さまが啓示してくださっている限りにおいて神さまを知ることができます。
 言うまでもなく、この神さまの啓示は、私たち被造物、神さまによって造られたものとしての限界があるものに合わせて、神さまがご自身を示してくださっているものです。そのためには、神さまが無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身を示してくださらなければなりません。人間的な言い方をしますと、無限、永遠、不変の栄光の神さまが、限りなく身をかがめて、ご自身を私たちに示してくださっているのです。
 そのように、無限、永遠、不変の栄光の神さまが限りなく身を低くしてご自身を啓示してくださっているので、私たちは神さまを知ることができます。そして、限りなく身を低くされてご自身を示してくださっておられるのは、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子です。ヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されている通りです。これを三位一体の神さまの啓示のお働きという点から見ますと、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられます。それで、先ほど引用しましたテモテへの手紙第1・6章15節後半と16節に記されています、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

ということは、父なる神さまが担っておられる役割にかかわることです。そして、そのように「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」であられる父なる神さまを私たちに啓示してくださったのが御子イエス・キリストです。それが、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

という御言葉が意味するところです。
 このことに、私たちが無限、永遠、不変の栄光の神さまを礼拝することができる土台があります。私たちは、自分なりに真心を尽くせば、神さまはその礼拝を受け入れてくださるというような考え方をしてはなりません。先ほどお話ししましたイスラエルの民もそのようなことを言うことはできたのです。そのイスラエルの民と同じように、私たちのうちには罪のために歪められた神概念があります。それをもったままで、真心を尽くせばよいというのは、御言葉が教えるところではありません。私たちは「父のふところにおられるひとり子の神」であられるイエス・キリストが解き明かしてくださったことにしたがって、神さまのことを理解し、神さまの御言葉が示していることにしたがって神さまを礼拝しなければならないのです。
 私たちが「父のふところにおられるひとり子の神」であられるイエス・キリストが解き明かしてくださったことにしたがって神さまのことを理解するのは、

いまだかつて神を見た者はいない。

ということを認めているからです。

いまだかつて神を見た者はいない

ので、私たちは「父のふところにおられるひとり子の神」であられるイエス・キリストが解き明かしてくださったことにしたがって神さまのことを理解するのです。また、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

ということを認めているので、「父のふところにおられるひとり子の神」であられるイエス・キリストが解き明かしてくださったことにしたがって神さまのことを理解するのです。
 しかし、それでも、私たちのうちには罪がありますので、私たちの神さまに対する理解には欠けがありますし、私たちの礼拝は無限、永遠、不変の栄光の神さまにふさわしい礼拝とは言えません。けれども、神さまを礼拝するために私たちがしたがっている御言葉は、そのように、御言葉に基づく礼拝を導いてくださっているのは、私たちの大祭司として天の聖所で仕えてくださっている栄光のキリストであられることを示しています。私たちはこの栄光のキリストの大祭司としてのお働きにあずかって初めて、無限、永遠、不変の栄光の神さまにふさわしい礼拝をささげることができます。私たちの大祭司であられるイエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いを私たちに当てはめてくださり、私たちをご自身の礼拝にあずからせてくださるのです。私たちの大祭司であられるイエス・キリストは天の聖所で仕えておられます。私たちはそのイエス・キリストの礼拝に連なるものとされています。そのような礼拝を言い換えますと、イエス・キリストの御名による礼拝ということです。父なる神さまは御子イエス・キリストの御名による礼拝を受け入れてくださいます。そして、御子イエス・キリストの御名によって礼拝する者を真の礼拝者として受け入れてくださいます。

 


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