(第65回)


説教日:2006年7月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第一の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 先週と先々週は、私たちがこのように祈るのは、神さまがご自身の御名を聖なるものとされるということを信じているからであるということをお話ししました。そして、神さまがご自身の御名を聖なるものとされるのであれば、私たちが祈る必要はないのではないかというような疑問についてもお話ししました。この点に関しての父なる神さまのみこころは、ご自身の一方的な恵みによって神の子どもとされている者たちの祈りにお答えになる形で、ご自身のみこころを実現されることにあります。このことは、すべての祈りに当てはまることです。
 今日は、この点に関して、先週と先々週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 言うまでもなく、祈りは、私たちの願いを神さまに申し上げることです。人は神のかたちに造られており、自由な意志を与えられています。ですから、祈りは人としての自由な意志に基づいて、自分が願っていることを神さまにお伝えすることです。その意味で、私たちが、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

というように主の祈りを祈ることは、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りをテープやMDなどで録音して、それを再生することとはまったく違います。そのような機材を使わなくとも、もし私たちが礼拝において祈る「主の祈り」を機械的に繰り返してしまいますと、それは祈りの本質を失ったもの、いわゆるおまじないの類いに近いものとなってしまいます。このように、祈りには私たちの心が伴っています。祈りにおいて私たちは自分の心からの願いを神さまに申し上げます。


 けれども、このことにはもう一つの問題がかかわっています。もともと、人は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として、神のかたちに造られています。アウグスティヌスは『告白』の冒頭(第1巻1章1)において、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。

と告白しています。ここで、

あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。

と言われて通りです。人は造り主である神さまに向けて造られています。それで、人の心のうちには「神への思い」があり、人は「神」を求めざるを得ません。それで、人は「神」を礼拝し「神」に祈るのです。礼拝と祈りは、本来、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることの具体的な現れです。
 問題は、このように神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているということです。それで、人間の祈りは自らのうちにある罪によって自己中心的に歪められた思いや願いを通そうとするようなものになってしまいました。
 仮にそのような自己中心的に歪められた思いが実現するということになるとどうなるでしょうか。実際には、人々の中には、祈りはそんなに簡単に実現するものではないというような暗黙の理解がありますので、祈りもつつましやかなもので終っています。けれども、仮に人の祈りがいくらでも実現するということになったとしたらどうなるでしょうか。きっと、そこに出現するのは、自己中心的な思いから出たことの際限のないぶつかり合いという恐ろしい世界であることでしょう。このように言いますと、そうではなく、みんなが仲良く暮らせる世界の実現を祈るはずだという反論もあることでしょう。けれども、残念なことに、誰かが自己中心的な祈りをしたら、それは実現しなくなります。普段は皆が仲良く暮らせる社会をと言っている人でも、何かのことで憎しみに駆られて、相手を抹殺するような祈りをしないとも限りません。人間の歴史の中で、物が豊かに溢れるようになったということで、自己中心性が消えたためしはありません。平和になったということで自己中心性が消えるわけでもありません。むしろ、今の私たちが住んでいる社会のように、物は豊かで平和であっても、格差はますます広がるようになっていくでしょう。それは、人間の欲望は、それが実現すると変えって際限もなく膨らんでいくからです。人の自己中心的な祈りが実現することは恐ろしい結果となります。
 このようなことを考えますと、父なる神さまが私たち神の子どもたちの祈りにお答えになってみこころを実現してくださるということは、かえって危険なことではないかというような気がしてきます。確かに、私たちはしばしば、罪の自己中心性によって歪められたことを願うことがあります。それを、あえて神さまに申し上げることはしないとしても、私たちのうちから湧き出てくる願いが、しばしばそのように腐敗したものであることは、私たち自身がよく知っています。これは、私たちの中になおも罪の性質が宿っており、実際に、私たちが罪を犯す者であるからです。
 しかし、それが私たちのすべてではありません。また、私たちの本質的な姿、私たちのいちばん奥にある真の姿でもありません。私たちの本当の姿は、これまでお話ししてきましたように、私たちが御霊のお働きによって、御子イエス・キリストと一つに結ばれているということにあります。それが私たちの本質的なあり方、私たちのいちばん奥にある真のあり方です。仮のもの、一時的なものを取り去ったときに、最後に残る私たちのあり方は、私たちが御霊のお働きによって、御子イエス・キリストと一つに結ばれているということにあります。
 私たちは神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかり、罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたものとしていただいています。このことによって、私たちは内側から造り変えられています。コリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されている通りです。この、イエス・キリストにある私たちのあり方が、私たちの本当のあり方、永遠に私たちのものとして残るあり方です。
 これは、ただ単に、私たちの気持ちや心構えが変わったということではありません。天地創造の御業を遂行された神さまが、それと同じ無限、永遠、不変の知恵と力を働かせてくださって、私たちを新しく造り変えてくださったのです。
 創世記2章7節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されています。最初の創造の御業において、神さまは「土地のちり」を素材として人を形造られ、これに「いのちの息を吹き込まれ」ました。これに対して、新しい創造の御業においては、すでに存在している私たちを新たに造り変えてくださいました。その際に、私たちを別の存在に造り変えられたのではなく、私たちのアイデンティティをそのままにして、私たちを造り変えてくださったのです。
 このような、最初の創造の御業と新しい創造の御業を比べてみたとき、私たちは何となく、最初の創造の御業の方が大変な御業であったような感じがしないでしょうか。というのは、最初の創造の御業はそれまで存在していなかったものを造り出すことでしたが、新しい創造の御業では、すでに存在している私たちを造り変えてくださることだからです。
 けれども、そのような感じ方は正しくはありません。知恵と力において無限、永遠、不変の神さまにとっては、「土地のちり」を素材として人を形造り、「いのちの息」を吹き込むということは、決して困難なことではなかったはずです。だからといって、神さまが無造作に人をお造りになったということではありません。

 その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

という御言葉は、神さまが人と向き合う形で人と接してくださって、「いのちの息を吹き込まれ」たことが、擬人化的な表現で生き生きと述べられています。神さまの知恵と力という点からは決して困難な御業ではありませんでした。けれども、神さまは人をお造りになるに当たって、ご自身のお心を人に注いでくださいました。1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていることにも、神さまが人をお造りになるに当たって、ご自身のお心を人に注いでくださったことが示されています。神さまの知恵と力という点からは決して困難なことではないとしても、神さまの愛と恵みといつくしみという点においては、神さまは人に深くお心を注いでくださっているのです。
 このことをしっかりと心に留めたうえでのことですが、やはり、知恵と力において無限、永遠、不変の神さまが「土地のちり」を素材として人を形造られ、「いのちの息を吹き込まれ」るということは、決して困難なお働きではなかったはずです。人間的な言い方をしますと、そこには、神さまの御前に立ちはだかるような障害はありませんでした。けれども、すでに存在している私たちを新しく造り変えてくださることには、たとえ神さまであっても、とても越えられないのではないかと思えるような障害が立ちはだかっていました。それは、最初の創造の御業において神のかたちに造られた人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったということです。そして、その罪は一介の被造物が無限、永遠、不変の栄光の造り主である神さまに背くもので、神さまの聖なる御怒りによる永遠の滅びに値するものであるということです。そして、罪はそれに対する厳正なさばきによって初めて清算されます。そのような罪を宿しているものを、罪の清算がなされないままに、造り変えるというわけにはいきません。もしそのようなことをするとすれば、神さまの義が立たず、神さまの聖さが否定されてしまいます。このように、私たちを新しく造り変えてくださる新しい創造の御業には、全能の神さまにも越えることが出来ないのではないかと思われるような障害があったのです。
 それで、父なる神さまは、何と、ご自身の御子を私たちのための贖い主として立ててくださり、実際に、この世に遣わしてくださいました。無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子は、私たちの贖い主となってくださるために、人の性質を取ってこの世に来てくださいました。そして、十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。このようにして、神さまは私たちの罪をまったく清算してくださいました。そして、このことに基づいて、私たちを新しく造り変えてくださったのです。その新しい創造の御業の初めが、私たちを御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださったことです。実際、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪をまったく清算していただいていますし、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者として新しく生れています。これが、先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・5章17節で、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と言われていることです。
 このようにして、父なる神さまは、御霊のお働きによって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかる者としてくださいました。私たちの罪を赦してくださったばかりでなく、私たちを御前に義と認めてくださり、子としての身分を与えてくださいました。
 先週お話ししましたように、これは、エペソ人への手紙1章3節〜6節に記されています、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

という、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころを実現してくださったものです。
 そればかりではなく、子としての身分を与えられている私たちに、ご自身の「みこころの奥義」を知らせてくださいました。やはり先週引用しました、エペソ人への手紙1章7節〜10節に、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されている通りです。
 これによって、私たちの祈りも変わりました。かつては自らのうちにある罪によって自己中心的に歪められた願いを実現しようとして、「神」に祈っていました。その時に、自分が祈っている「神」がどのような存在であるかということはほとんど考えません。とにかく自分の願いが実現しさえすればいいというような祈りでした。祈りは、自分のために「神」を動かすためのものでした。そのような私たちの祈りが、神さまのみこころが実現することを祈り求めるものに変わっています。

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という、主の祈りの最初の三つの祈りは、神さまのみこころが実現することによって、神さまのご栄光が現されるようになることを祈り求めるものです。それは、先ほどのエペソ人への手紙1章10節に記されている、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求めることでもあります。
 私たちは祈りにおいては、何よりもまず、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈るということを当然のことと感じています。それは、祈りは神さまを中心としたものであることを理解して受け入れていることを意味しています。かつての自分たちの祈りが自己中心的な動機からの祈りであったことを考えますと、これは180度の転換です。先ほどお話ししましたように、もし私たちの罪によって自己中心的に歪められた願いが実現するとしたら、この世界は衝突と混乱に満ちた恐ろしい世界になっていくことでしょう。しかし、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することは、この世界のすべてのものが御子イエス・キリストにあってまったき調和のうちに存在するようになること、それによって父なる神さまの栄光が豊かに映し出されるようになることを意味しています。私たちの祈りはそのような祈りに変えられているのです。
 そうではあっても、祈りが私たちの願いを神さまに申し上げるものであるという点には変わりがありません。そうしますと、何が変わったのでしょうか。今お話しした通り、変わったのは私たち自身です。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいてお働きになる御霊のお働きによる新しい創造の御業によって私たち自身が造り変えられました。それによって、私たちの願いも変わったのです。神さまのみこころが実現することによって、神さまのご栄光が現されるようになることこそが、私たちの第一の願いとなりました。コリント人への手紙第一・10章31節には、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

という戒めが記されています。これは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかって、新しく造られている私たちにとっては、外側から私たちを縛りつける戒めではなくなりました。この戒めが、私たち自身のうちからの自然な願いとなり、それゆえに、私たちが飲むことにおいても食べることにおいても、私たちの動機となり目的となっています。
 このように、私たちの願うことが父なる神さまのみこころと一致するように変えられています。それで、私たちの祈りも父なる神さまのみこころが実現することを願い求めるものに変わっているのです。繰り返しになりますが、これは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいてお働きになる御霊によって、私たち自身が新しく造り変えられていることによっています。
 祈りにおける父なる神さまのみこころは、新しく造り変えられて、ご自分の子とされているいる私たちの祈りにお答えになる形で、ご自身のみこころを実現してくださることです。このことと関連して、私たちは、ヨハネの手紙第一・5章14節に記されています、

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

という御言葉を心に留めたいと思います。そして、神さまのみこころに沿った祈りを重ねることを通して、私たちの思うこと、願うことが、ますます、神さまのみこころと一致したものとなっていくことを祈り求めたいと思います。

 


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