(第64回)


説教日:2006年6月25日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りの原文のギリシャ語を文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 先週お話ししましたように、私たちがこのように祈るのは、神さまはご自身の御名を聖なるものとされるということを信じているからです。そして、実際に、神さまはご自身の御名を聖なるものとされます。これに対しまして、神さまがご自身の御名を聖なるものとされるのであれば、私たちが祈る必要はないのではないかというような疑問が出されるかもしれません。しかし、この点に関しての神さまのみこころは、私たち、神さまの一方的な恵みによって神の子どもとされている者たちの祈りにお答えになる形で、ご自身のみこころを実現されることにあります。このことは、すべての祈りに当てはまることです。なぜかと言いますと、父なる神さまはイエス・キリストにあって私たちをご自身の子としてくださっており、子として扱ってくださり、私たちに子として接してくださっているからです。
 エペソ人への手紙1章4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。これは「世界の基の置かれる前から」と言われていることから分かりますように、父なる神さまがご自身の永遠のみこころ、すなわち永遠の聖定において定められたことを示しています。
 実際に、この歴史の中で、父なる神さまはこの永遠に定めておられるみこころにしたがって人を神のかたちにお造りになりました。そして、人が神さまに罪を犯して御前に堕落してしまった後には、ご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、御霊のお働きによって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかる者としてくださいました。私たちの罪を赦してくださったばかりでなく、私たちを御前に義と認めてくださり、子としての身分を与えてくださいました。イエス・キリストにあって、私たちを御前に聖く傷のない者として立たせてくださり、ご自身の子としてくださったということです。さらに、父なる神さまは、御霊によって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちで生きる者として新しく生まれさせてくださいました。この、私たちを生かしてくださっているイエス・キリストの復活のいのちが、聖書で言われている永遠のいのちです。
 このように、私たちは父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころにしたがい、イエス・キリストにあって、御前に聖く傷のない者として立たせていただき、父なる神さまの子どもとされています。そればかりではありません。同じエペソ人への手紙1章の7節〜10節には、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されています。父なる神さまは私たちを「御子の血による贖い、すなわち罪の赦し」を与えてくださっただけでなく、ご自身のみこころの奥義を知らせてくださいました。
 この父なる神さまのみこころの奥義は、ここでは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われていますが、3章6節では、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と言われています。
 この2つの御言葉は調和しています。父なる神さまのみこころの奥義は、最終的には、1章10節にありますように、イエス・キリストにあって造られたすべてのものがまったき調和のうちに完成することにあります。それは最終的には新しい天と新しい地において実現します。しかし、そこに至るまでには順序があります。その最初に来るのが、3章6節に記されている、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

つまり、地上のすべての民の中から福音の御言葉によって召された者たちが、ともに栄光のキリストのからだを形成するようになることなのです。
 このように、私たちは父なる神さまのみこころの奥義を啓示されていますし、その実現のために福音の御言葉による召しを受け、栄光のキリストのからだとしての教会に連なるものとしていただいています。これは、父なる神さまが私たちをご自身の子として扱ってくださっているからに他なりません。ですから、私たちは父なる神さまが知らせてくださったみこころの奥義が実現することを祈り求めるのです。父なる神さまは必ずご自身のみこころの奥義を実現されます。その際に、御子イエス・キリストにあって神の子どもとされている私たちの祈りにお答えになる形で、ご自身のみこころの奥義を実現されることを望んでおられるのです。


 これらのことはすべて、主の祈りの、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りとかかわっています。
 先週もお話ししましたが、旧約に記されている記事では、一貫して主の契約の民であるイスラエルの民が不信仰によって主の御前に背教してしまったことが記されています。その結果、イスラエルの民は主の聖なる御怒りによるさばきを招いて、その王国の歴史は滅亡をもって幕を閉じるに至ります。それとともに、旧約には、それでも主がイスラエルの民に対して忍耐を示してくださり、終りの日においてご自身の民のために贖いを完成してくださることを預言してくださったことが記されています。そして、その預言の言葉の確かさを示してくださるために、神である主はユダヤ人をその捕囚の地であるバビロンから帰還させてくださいました。不信仰によって背教し続けたイスラエルの民に対して神さまが忍耐をもって接してくださっただけでなく、さばきの後に、再びご自身の民として回復してくださったのは、イスラエルの民にその資質や資格があったからではなく、神である主の御名のためであり、主の御名の聖なることを示してくださるためのことでした。
 このように、旧約に記されている御言葉があかししていることは、イスラエルの民自身には神さまの御前に立つのにふさわしい資質や資格は何もなかったけれども、それどころか、イスラエルの民は不信仰のゆえに背教し続けて、最後には神さまのさばきを招くに至ったけれども、神さまがイスラエルの民を贖い、イスラエルの民を回復してくださったのは、神さまの御名の聖なることを示してくださるためであったということです。
 この「神さまの御名が聖なることを示してくださるために」という原理は、旧約と新約を通して、神さまの贖いの御業の歴史を貫いているものです。そして、それは私たちにとっても当てはまることです。というのは、不信仰によって主の御前に背教してしまうことは、イスラエルの民だけの問題ではないからです。イスラエルの民の不信仰と背教は、罪の下にある全人類の現実を典型的に示しています。すべての者が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した者であり、実際に、罪を犯しています。そのために、神さまの聖なる御怒りの下にあります。この点は、イスラエルの民も例外ではなかったということです。
 神さまはイスラエルの民がこのような民であることををご存知であられて、あえて、ご自身の契約の民としてお選びになりました。その第一歩として、一方的な恵みによってイスラエルの民の父祖であるアブラハムを召してくださいました。神さまがアブラハムを召してくださった時のことは創世記12章1節〜3節に、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されています。ここで、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と言われていますように、アブラハムの召しは「地上のすべての民族」を視野に入れており、「地上のすべての民族」の祝福のためでした。そして、後にアブラハムがその子イサクを主にささげた時のことを記している、創世記22章18節には、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されています。これは、最終的には、アブラハムの子孫として来られたイエス・キリストによって成就しています。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されている通りです。
 このことを、これまでお話ししてきたこととかかわらせて言いますと、神さまがアブラハムとその子孫であるイエス・キリストによって「地上のすべての民族」を祝福してくださり、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活にあずかって罪を贖われ、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者とされるのは、最終的には、神さまの御名が聖なることを示してくださるためのことであるということです。
 このことと関連して、1つの問題を考えてみたいと思います。アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民は、このような歴史を通しての神さまのご計画の中で選ばれました。このイスラエルの民は、古い契約の下での地上的なひな型として、やがて来たるべき本体、本物としての主の契約の民を指し示していました。そうしますと、その歴史を通して不信仰による背教を続けて、最後には神である主のさばきを受けて滅びてしまうに至るイスラエルの民が、やがて来たるべき本体としての主の契約の民を指し示しているというのは、どういうことなのでしょうか。それは、やがて来たるべき本体としての主の契約の民も、最後まで不信仰による背教を重ね続けるという意味なのでしょうか。
 この問題については、これまでお話ししてきましたことからお分かりになると思います。結論的なことを言いますと、神さまが不信仰と背教のイスラエルの民の歴史を通してあかししてくださったのは、人が救われるのは自分の資質や業績によるのではなく、神さまの一方的な愛に基づく恵みによるということであり、それは、最終的には、神さまがご自身の御名の聖なることを示してくださるためのことであるということです。神さまの救いの御業がそのようなものであるので、人間的な資質においてはイスラエルの民と同じである私たちも救われたのです。また、救われた後になおも罪を犯している私たちが、自分自身のうちには罪を赦していただくだけの資質や資格はないのに、主の御名のために、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、その罪を赦していただくことができるのです。
 このことを踏まえた上で、注意しておきたいことがあります。それは、古い契約の下での地上的なひな型には、ひな型としての限界があるということに関してです。
 ヘブル人への手紙9章9節には、古い契約の下で与えられた幕屋と、そこでささげられた動物のいけにえについて、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

と記されています。ここには、古い契約の下での地上的なひな型である幕屋とそこでささげられた動物のいけにえの限界について、「礼拝する者の良心を完全にすることはできません」と言われています。それは、10章4節に、

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されていることによっています。動物のいけにえの血で人の罪を除くことはできませんので、古い契約の下では、人の良心をきよめて、その人を内側から新しくすることができないのです。
 これに対して、9章11節〜14節には、

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

と記されています。ここには、御子イエス・キリストの血による新しい契約の下での本体について記されています。イエス・キリストは人の手で作られた地上の幕屋ではなく、

さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた

と言われています。この「まことの聖所」は父なる神さまがご臨在される「天そのもの」(9章24節)のことです。また、イエス・キリストは動物のいけにえの血によってではなく、ご自身が十字架の上で流された血によって永遠の贖いを成し遂げられたと言われています。それで、イエス・キリストの血が「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする」と言われているのです。
 私たちは時に、旧約に記されているイスラエルの民の歴史は不信仰と背教の歴史であるということから、イスラエルの民は古い契約の下での不完全な地上的なひな型であり、その本体である私たちは、イスラエルの民とは違うと感じてしまいます。しかし、人間としての資質においては、私たちはイスラエルの民と同じです。私たちはイスラエルの民と同じ状況に置かれたとしたら、不信仰による背教の歴史を造るほかない者です。自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯し続けるものであるという点では、私たちとイスラエルの民との間に違いはありません。ですから、私たちはイスラエルの民に対して自らを誇ることはできません。ローマ人への手紙11章17節、18節に、

もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

と記されている通りです。最後の、

根があなたをささえているのです。

という言葉は少し分かりにくいかもしれません。これは、先ほどお話ししましたが、私たちは、神さまが一方的な恵みによってイスラエルの民の父祖アブラハムをお選びになって、地上のすべての民の祝福のために召してくださったこととのかかわりで救われているということ、そして、神さまが旧約において約束してくださり、アブラハムの子孫として来られたイエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって救われているということです。これによって、先ほど引用しました、エペソ人への手紙3章6節に、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されている「奥義」が実現しています。これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、この「奥義」の実現は、神さまがご自身の御名の聖なることを示してくださるためのことです。それで、「奥義」を知らされている神の子どもとして、この「奥義」の実現を祈り求めることは、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ることに通じています。
 このように、私たちはイスラエルの民に対して誇ることはできません。むしろ、私たちはイスラエルの民の父祖であるアブラハムに約束された祝福にあずかって救われています。けれども、私たちとイスラエルの民の間には違いがあります。それは、私たちがキリストの血による新しい契約の下にあり、イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかっているということです。そのことが、私たちと古い契約の下にあったイスラエルの民との間の違いを生み出しているのです。先ほど引用しましたヘブル人への手紙9章14節の御言葉で言いますと、イエス・キリストの血が「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者」としてくださるので、違いが生み出されるのです。ですから、私たちが「生ける神に仕える者」となったことは、まったく神さまの恵みによることであって、私たちとしては神さまへの感謝を表すほかはありません。そして、それが神さまの御名が聖なるものであることへのあかしとなります。もともとは自らの罪によって不信仰と背教を繰り返すほかのない者が、「生ける神に仕える者」に造りかえられているということが、神さまの御名が聖なるものであることへのあかしとなっているのです。

 


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