(第63回)


説教日:2006年6月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。これは、原文のギリシャ語を文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 もしこれが人間とか御使いたちが神さまの御名を聖なるものとすることを祈るということであれば、それは、単に、「そうなったらいいな」という自分たちの希望を表明しているだけのものとなってしまいます。そうしますと、これは父なる神さまへの祈りとしての意味はもたなくなります。祈りは、その祈りをお聞きくださる神さまが、その祈りにお答えになる形で、ご自身のみこころを実現してくださることを願い求めることです。ですから、私たちが、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るのは、神さまはご自身の御名を聖なるものとされるということを信じているからのことです。そして、実際に、神さまはご自身の御名を聖なるものとされます。


 このように、私たちは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを信じて、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ります。これまで、神さまがご自身の御名を聖なるものとされることには2つの面があるということをお話ししました。1つは、いわば消極的な面とも言うべきものです。それは、神さまがご自身の御名を汚す者たちをおさばきになるということです。前回は、これがどのようなことであるかを、御言葉に記されているいくつかの事例を引いてお話ししました。
 もう1つの面は、いわば積極的な面です。それは、神さまはご自身の御名のために贖いの御業を成し遂げられ、ご自身の民を罪と死と暗やみの力から贖い出され、ご自身のご臨在の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださるということです。そのことは、前回も触れましたが、エゼキエル書36章22節〜28節に記されている、

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―― 神である主の御告げ。―― わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

という御言葉に示されています。
 ここでは、主がご自身の民のために贖いの御業を遂行されるのは、それによってご自身の御名の聖なることが示されるようになるためであると言われています。
 このことを念頭に置いて詩篇25篇11節を見てみましょう。そこには、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。

と記されています。この詩篇25篇は契約の神である主、ヤハウェへの祈りです。そして、この祈りには主の示してくださる道を歩む者が直面している悩みが示されています。2節後半の、

 どうか私が恥を見ないようにしてください。
 私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

という言葉や、19節の、

 私の敵がどんなに多いかを見てください。
 彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

という言葉は、この詩人に敵対している者たちがいることを示しています。つまり、この詩人は自分の外から来る悩みに直面しているということです。しかし、この詩人は、それ以上に、自らのうちにある罪の大きさに悩んでいます。6節〜10節には、

 主よ。あなたのあわれみと恵みを
 覚えていてください。
 それらはとこしえからあったのですから。
 私の若い時の罪やそむきを
 覚えていないでください。
 あなたの恵みによって、私を覚えていてください。
 主よ。あなたのいつくしみのゆえに。
 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。
 それゆえ、罪人に道を教えられる。
 主は貧しい者を公義に導き、
 貧しい者にご自身の道を教えられる。
 主の小道はみな恵みと、まことである。
 その契約とそのさとしを守る者には。

と記されています。
 これは、自分自身のうちにある罪の自覚に基づく祈りです。9節の「貧しい者」はこの詩人自身のことを指しています。この「貧しい者」と訳された言葉(形容詞・アーナーウ)は試練を経験して謙遜になった人の状態、特に、そのために神さまのみを頼みとするようになった人の状態を表します。この9節の文脈では、外からの試練によってというよりは、むしろ、自らの罪を自覚しているので自分を頼みとすることができないことをわきまえていること、そのような意味でのへりくだりを表していると考えられます。それで、この詩人は主の「あわれみと恵み」、「いつくしみ」、「恵みと、まこと」に注目し、それらに訴えかけています。
 9節、10節で、

 主は貧しい者を公義に導き、
 貧しい者にご自身の道を教えられる。
 主の小道はみな恵みと、まことである。
 その契約とそのさとしを守る者には。

と言われていることは、主の契約にあっては、主が示してくださる道は「恵みと、まこと」に支えられ、「恵みと、まこと」の満ちている道です。主の契約の民は主の「恵みと、まこと」に支えられて主が示してくださる道を歩むことができます。主の民が主が示してくださる道を歩むときには、主の「恵みと、まこと」がその歩みを支えてくださるということです。
 このような、祈りにおける告白を踏まえて、11節では、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。
という祈りがなされています。後半の、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。

と訳されている部分の初めには接続詞(ワウ)があります。これは

 主よ。御名のために、

から始まる文の途中のことですので、文のつなぎのためではなく強調のためであると考えられます。それを生かしますと、この部分は、

 どうか私の咎をお赦しください。

となります。また、

 大きな咎を。

と訳されている部分は、文字通りには、

 それは大きいからです。

というように理由を表していると考えられます。いずれにしましても、この詩人は自分の咎の大きさに圧倒されていて、主がそれを赦してくださることを切に祈り求めていることが分かります。
 そのよう自分の罪の深さ、咎の大きさを自覚している詩人は、罪を赦していただきたいという切なる願いはあっても、自分自身のうちには罪を赦していただくだけの資格がないことを感じています。それで、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。

というように、「御名のために」自分の罪と咎を赦してくださるようにと主に願っています。この場合、

 主よ。御名のために、

は、ヘブル語原文では順序が逆で、

 御名のために、主よ。

というように、「御名のために」が最初に来ていて強調されています。この詩人にとって「御名のために」ということだけが自分の罪と咎を赦していただくための唯一の根拠であるのです。
 この場合、この詩人が、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。

と祈ることができたのは、今ざっとお話ししましたこの詩篇25篇の文脈からも分かりますように、主が一方的な恵みによってイスラエルの民に与えてくださった契約に基づいてのことです。すでに繰り返しお話ししてきましたように、出エジプトの時代に、神さまはモーセにご自身の御名を啓示されました。その御名は、出エジプト記3章14節に記されていますように、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名でした。これは神さまこそが真に存在される方であられること、すなわち、神さまが何ものにも依存することなくご自身で存在される方であられること、初めもなく、終りもなく、永遠に変わることなく存在される方であられることを示していると考えられます。この世界のすべてのものは、この方によって造り出され、その存在を全面的にこの方に負っています。その意味で、この、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の神さまは、この世界のすべてのものと絶対的に区別される方です。そして、神さまの聖さは、神さまがご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと絶対的に区別される方であられることを意味しています。ですから、この、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名自体が、神さまの聖さを示しています。
 さらに、神さまはこの、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を啓示してくださるに当たって、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として表してくださいました。これは、神さまが一方的な恵みによってアブラハムに契約を与えてくださってアブラハムの神となってくださり、アブラハムがこの世を去っても、その契約をイサクに受け継がせてくださって、イサクの神となってくださり、さらには、その契約をヤコブへと受け継がせてくださった方であられることを示しています。また、そのゆえに、この出エジプトの時代にもアブラハムの子孫であるイスラエルの民の神となってくださっておられることを示してくださるものです。さらには、それとまったく同じ理由によって、神さまは今日もご自身の契約のうちにある私たちの神であられます。
 さらに、アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去って数百年後のモーセの時代に、神さまは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられると言われて、ご自身を示してくださっています。このことは、神さまはこのモーセの時代においても変わることなく「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられることを示してくださったものです。それは、アブラハム、イサク、ヤコブは、自分たちがこの世を去って数百年後のモーセの時代においても、神さまとのいのちの交わりのうちに生きているということを意味しています。これは、ひとえに神さまがご自身の契約に対して真実であられることによっています。そして、神さまがご自身の契約に対して真実であられるのは、ご自身が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられるからです。
 このように、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの御名は、ここでの文脈では、ご自身が契約に対して真実であられることを示すものです。そして、その神さまの契約は、ご自身がアブラハムとその子孫の神となってくださること、そして、アブラハムとその子孫を約束の地を相続させてくださり、そこでご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださることを約束してくださるものです。
 その後の歴史において、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民はこの契約に対して不真実であり続けました。けれども、主はご自身の契約に真実であられて、約束してくださったことを成し遂げてくださいました。詩人が、

 主よ。御名のために、

と祈っているのは、このことを念頭においてのことです。神さまの契約が実現することには主の御名の聖さと栄光がかかっているのです。
 このように、契約の神である主はご自身の御名のために、ご自身の契約において約束してくださっていることを実現してくださいます。先ほど引用しましたエゼキエル書36章22節〜28節には、神である主がご自身の御名のためにご自身の民のための罪の贖いの御業を遂行してくださることが示されていました。それも、神さまの契約に基づくことでした。
 エゼキエル書36章22節〜28節に記されていることは、やがて実現することの預言です。エゼキエルはユダ王国がその不信仰による背教のために神である主のさばきによってバビロンの捕囚を経験するようになった当初、バビロンにおいて活動した預言者です。36章22節〜28節に記されていることは、当面のこととしては、ユダヤ人が捕え移されたバビロンからの帰還として実現しますが、それは完全な実現ではありません。最終的には、約束のメシヤが成し遂げられる贖いの御業によって、主の民が罪と死と暗やみの力からまったく解放され、真のいのちに回復されることによって実現することです。その意味で、これはこの詩人にとっては将来のことです。しかし、主がご自身の御名のために、ご自身の民の罪の贖いの御業を遂行してくださることは、この詩人にとって、将来の約束であるだけではありません。契約の神である主はこの詩人の時代より前に、ご自身の御名のために贖いの御業を遂行しておられました。同じエゼキエル書20章5章〜17節には、

彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。わたしは彼らに言った。「おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。」と。それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。
 こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。

と記されています。
 ここには、イスラエルの民が、初めから契約の神である主に背き続けたことが記されています。しかし、主がそのようなイスラエルの民を聖なる御怒りで滅ぼされなかったばかりか、彼らのために出エジプトの贖いの御業を遂行されたのは、主の御名のためであったことが示されています。9節と14節には、

諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった

という主の言葉が出てきます。同じ言葉は、ここには引用しませんでしたが、さらに22節にも出てきます。
 ですから、エゼキエル書においては、36章22節〜28節に記されている、来たるべきメシヤによって最終的に実現する贖いの御業は、神である主が出エジプトの贖いの御業を遂行された時と同じ「契約の主の御名のため」という理由によって遂行されるということが示されているのです。
 これと同じことは、イザヤ書48章8節〜11節にも記されています。そこでは、イスラエルの民に対して、

 あなたは聞いたこともなく、
 知っていたこともない。
 ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。
 わたしは、あなたがきっと裏切ること、
 母の胎内にいる時から
 そむく者と呼ばれていることを、
 知っていたからだ。
 わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、
 わたしの栄誉のために、これを押えて、
 あなたを断ち滅ぼさなかった。
 見よ。わたしはあなたを練ったが、
 銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。
 わたしのため、わたしのために、
 わたしはこれを行なう。
 どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。
 わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

と言われています。
 ここでは、「母の胎内にいる時から」という言葉に示されていますように、イスラエルの民の本性が「そむく者」であるということが示されています。そして、実際に、イスラエルの民はその本性を現して、主に背き続けました。そうではあっても、イスラエルの民は主の聖なる御怒りで滅ぼされることはありませんでした。それは、主がご自身の御名のために忍耐深くあられたからであると言われています。このように主が忍耐を示された理由は主の御名のためであり、イスラエルの民の中には、それに値するものがありませんでした。最後の11節では、

 わたしのため、わたしのために、
 わたしはこれを行なう。
 どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。
 わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

と言われています。最後の、

 わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

という主のことばは、イスラエルの民の不信仰のために主が契約において約束してくださったことが実現しないとしたら、いわば、イスラエルの民の不信仰の罪が勝利し、罪によって支配している暗やみの力が最終的な勝利者になってしまうというような理解があります。言うまでもなく、

 わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

と言われているのは、主がそのようなことにはならせないということを意味しています。ですから、この11節では、やがて実現されるバビロンからの解放、さらに、究極的には、約束のメシヤによって実現する罪と死と暗やみの力からの解放は、主の御名が聖なるものとされるためのことであることが示されています。
 このように、聖書においては、一貫して、契約の神である主が成し遂げてくださる贖いの御業は神さまの御名のために成し遂げられるものであることがあかしされています。それで、先ほどの詩人は、自分自身の中には、罪の赦しを願い求める資格さえないと感じつつも、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。
と祈ることができたのです。
 初めにお話ししましたように、私たちが、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るのは、神さまはご自身の御名を聖なるものとされるということを信じているからのことです。それは、神さまがご自身の契約に基づいて、贖いの御業を最終的に完成してくださる「終りの日」を待ち望むものです。その日に至るまでの間の時代を生きている私たちは、先ほどの詩人と同じように、しかし、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業という、その詩人が信じた以上に確かな土台の上で、

 主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。

と祈ることができます。

 


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