(第62回)


説教日:2006年6月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節

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 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、基本的には、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 このことを念頭において、今日は、神さまの御名を汚すことについてお話ししたいと思います。そのために、神さまの御名を汚すことについて述べられている聖書の個所をいくつか見てみたいと思います。


 レビ記18章21節には、

また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

と記されています。同じことは、20章2節、3節にも、

あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。

と記されています。
 モレクは、古代オリエントにおいて、死と死後の世界にかかわる神として礼拝されていたようです。列王記第1・11章7節には、

当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。

と記されていて、アモン人の間でモレク礼拝が行われていたことが分かります。
 ちなみに、創世記19章38節によりますと、このアモン人は、アブラハムの甥であるロトの二人の娘のうちの妹が父ロトとの間に生んだ子であるベン・アミの子孫です。姉も同じようにして父ロトとの間に子を生みましたが、それがモアブ人の先祖のモアブです。申命記2章9節〜19節には、このことのゆえに、すなわち、モアブ人とアモン人がアブラハムの甥のロトの子孫であるということで、出エジプトの時代に、主はイスラエルの民がモアブ人とアモン人を攻めることを禁じられたことが記されています。そのように主によって保護されたアモン人の間でモレク礼拝が行われていました。
 アモンとモアブはまた地理的な名前でもありますが、ヨルダンの川向こうの地域で、カナンの地に含まれていません。申命記12章31節には、

あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

と記されています。これはイスラエルの民が侵入するカナンの地の風習を記しています。ここにはモレクの名は出てきませんが、先ほど引用しましたレビ記に記されている戒めから、それがモレク礼拝であると推察されます。
 モレク礼拝はイスラエルの歴史にも影を落としています。ユダの王ヨシヤの改革のことを記している列王記第2・23章10節には、

彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。

と記されています。これは、ヨシヤの改革の時に、モレクに子どもをささげることができないようにしたことの記録です。逆に言いますと、この時まで、このようなことが行われていたことを意味しています。さらに、バビロンの捕囚の直前に預言活動をしたエレミヤの預言を記しているエレミヤ書32章35節には、

わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。

と記されています。先ほどのヨシヤの改革も一時的な効果しかなかったことが伺われます。
 どのようにして子どもをモレクにささげたかについては、学者たちの意見も分かれています。ある人々は子どもを生きたまま火に投げ入れたとしていますが、先に殺してしまってから火に投げ入れたとしている人々もいます。また、子どもをいけにえにしたのではないという見方もありますが、御言葉の記述と考古学的な検証からは、子どもがいけにえとしてささげられたと考えられます。
 このようなモレク礼拝は二重の意味で忌むべきものです。
 一つは、モレクを礼拝することは偶像を神とすることです。背教してしまったイスラエルの民は神である主とともに偶像を礼拝していました。それは、主、ヤハウェを偶像と並べることのできる存在と見なすことです。いろいろな神がある中で、ヤハウェもその一つであるとすることです。それは、ヤハウェを偶像と同じ次元のものと見なすことです。それが、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という、無限、永遠、不変の栄光の神さまの御名を汚すことです。このことは、モレク礼拝に限らす、あらゆる偶像礼拝に当てはまることです。
 もう一つのことは、子どもをモレクにささげることは、神のかたちに造られた者のいのちを損なうことです。これには、創世記9章5節、6節に、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

と記されている造り主である神さまの御言葉の警告がかかわっています。
 これは広く人類一般に対する神さまの警告ですが、イスラエルの民にとっては、それ以上の意味があります。というのは、その子どもたちは、主、ヤハウェの契約共同体のうちに生れてきた者であり、主のものとして聖別されているものであるからです。本来、神のかたちに造られた人間に生まれてくる子どもたちは、造り主である神さまの祝福の賜物です。そして、子どもたちはその存在といのちを全面的に造り主である神さまに負っています。その意味で、子どもたちは神さまのものです。このことが、罪によって堕落してしまった世界にあっては見失われてしまっています。そのような世界のただ中にあって、神である主の一方的な恵みによって贖われ、主のご臨在の御前に生きる者として召された主の契約の共同体にあっては、子どもたちは主からの賜物であり、主から委ねられたものであるという、本来の姿が回復されていなければなりません。それで、主の契約共同体は、両親たちを中心として、その子らを主の道にしたがって育てていくのです。そのように、子どもたちは主の契約によって主のものとされており、その意味で、子どもたちには主の御名がつけられています。そのような意味をもっている子どもたちをモレクにささげるということは、主が一方的な恵みによって与えてくださった契約への重大な違反です。それで、それは、その契約共同体の中心にご臨在してくださっている主、ヤハウェの御名を汚すことであると言われているのです。
 レビ記19章12節には、

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

と記されています。
 ここでは、主の御名によって偽って誓うことは、主の御名を汚すことであると言われています。これは、その前の11節において、

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。

と記されていることとのつながりで読みますと、法廷での宣誓のような特別な誓いを含むでしょうが、基本的には、日常的な約束や保証における誓いのことであると考えられます。それで、ここで問題となっているのは、契約共同体の隣人を欺くために、主の御名を用いて誓いをするということです。このことにも、二重の問題があります。
 一つは、神さまの御名は神さまの本質的な特性を表すものとして、神さまが啓示してくださったものです。その神さまの本質的な特性の一つが神さまの真実さです。特に、これまでお話ししましたように、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの御名は、神さまの存在が無限、永遠、不変であるということを、特に、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実であられることとのかかわりで示してくださったものです。そのような神さまの御名を偽りと欺きにかかわらせるということは、神さまの御名を汚すことに他なりません。
 もう一つは、このような主の御名による誓いによって欺きが有効になるのは、欺かれる隣人が主、ヤハウェを信じて御名をあがめているからです。その隣人は、「主、ヤハウェの御名によって誓ったのだから」ということで、相手の人を信じるわけです。そのようなことにつけこんで、主の御名による誓いをして、主の御名をあがめている隣人を欺くことは、主の御名を汚すことです。
 エレミヤ書34章12節〜20節には、

そこで、主からエレミヤに次のような主のことばがあった。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに―― 主の御告げ。―― 剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。わたしは彼らを、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。

と記されています。
 このことの背景にある主の戒めは申命記15章12節〜15節に記されています。そこには、

もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

と記されています。
 この主の戒めの根底にあるのは、最後の15節に、

あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

と言われていることにあります。もともと奴隷の身分にあった自分たちを、主が一方的な恵みによって贖い出してくださって主の契約の民としてくださったことを覚えることが、この戒めを守る動機であり理由であるのです。そのように、主がなしてくださった贖いの御業を具体的な生き方の中で覚えることは、ヨハネの手紙第1・3章16節〜18節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

と記されていることに通じています。
 ここで、主がエレミヤを通してユダ王国を糾弾されたのは、ただ単に、ユダ王国が主の戒めに背いてきたということで終るものではありません。この戒めに背いてきたユダ王国がバビロン軍による侵略に直面した時に、ゼデキヤ王を初めとする権力者たちは、15節に「悔い改め」とありますように、契約の主の戒めを思い起こした形で奴隷を解放するという契約を立てました。しかし、それは建前で、本当は、食料難の窮乏の中で奴隷の所有者たちも奴隷を養いきれなくなってのことだったのでしょう。実際には、事情が好転したことによってと思われますが、その契約を翻してしまいました。いずれにしましても、権力者たちは火急のときに主の契約を守るふりをして、事情が変わるとそれをくつがえしてしまったのです。そのようにして、主が心にかけておられるしもべやはしためたちを踏みにじってしまいました。
 アモス書2章6節、7節には、

 主はこう仰せられる。
 「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、
 四つのそむきの罪のために、
 わたしはその刑罰を取り消さない。
 彼らが金のために正しい者を売り、
 一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。
 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、
 貧しい者の道を曲げ、
 父と子が同じ女のところに通って、
 わたしの聖なる名を汚している。

と記されています。
 ここでは、

 彼らが金のために正しい者を売り、
 一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。

と言われていますように、ほんの些細な借金で、貧しい人々を奴隷として売ってしまうという現実が取り上げられています。最後に、

 父と子が同じ女のところに通って、

と言われていることは、レビ記18章8節に、

あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。

と記されている戒めに背くことの可能性もありますが、ここでは貧しい人々がしいたげられていることが問題にされていますので、そのような貧しい家の女性が、おそらく奴隷として売られて、はずかしめられていることではないかと思われます。
 そのようにして、貧しい人々しいたげることは、やはり、エジプトの奴隷の身分であった自分たちを主が一方的な恵みによって贖い出してくださったということを忘れ、主の恵みを無にしてしまうことです。ここでは、このようにして、主の御名は汚されていると糾弾されています。
 これらのことから分かりますように、神さまの御名を汚すことは、特に、神さまの御名の啓示にあずかっている者たち、すなわち、神さまの一方的な恵みによって神さまのご臨在の御前に生きる者たちにおいて問題になります。
 もちろん、人はすべて神さまのご臨在の御前に生きる者として、神のかたちに造られています。その意味で、人はすべて神さまの御名を聖なるものとするか汚すかにかかわっています。そして、実際に、罪の下にある人間のすべてが、造り主である神さまの御名を汚してしまっています。
 そうではあっても、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後、なおも、神さまのさらに深い恵みによって、神さまが備えてくださった贖いの御業にあずかり、主の契約共同体に加えられて、神さまのご臨在の御前に生きる者として回復された者たちは、よりいっそう、神さまの御名を聖なるものとしてあかしするか、それとも、その御名を汚してしまうかを問われているのです。
 しかし、私たちが神さまの御名を聖なるものとしてあかしすることは、自分たちの力でできることではありません。それは、これまで引用してきました神さまの御言葉に示されているイスラエルの民の現実が如実に示しています。罪の下にある人間としての資質において、私たち自身はイスラエルの民と変わるものではありません。同じ立場に置かれていたとしたら、私たちもイスラエルの民と同じことをして、主の御名を汚していたはずです。
 前回引用しましたエゼキエル書36章22節〜28節には、

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―― 神である主の御告げ。―― わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

と記されていました。
 ここに記されていますように、主はご自身の御名の聖なることを示してくださるために、贖いの御業を遂行してくださいます。主が贖いの御業を遂行してくださったのは、ご自身の御名が聖なるものであることを示してくださるためでした。ですから、神である主が遂行される救いとさばきは、どちらも、最終的には、主がご自身の御名の聖なることを表されるための御業です。私たちはこの贖いの御業にあずかって罪をきよめていただき、御霊を与えていただいて、御霊に導かれて歩むようになって初めて、神さまの御名を聖なるものとしてあかしすることができるようになります。私たちが主の祈りにおいて、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ること、すなわち、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈ることは、このことを実現してくださることを祈り求めることです。
 それは、具体的には、まず、私たちが主の契約共同体において、神さまを礼拝し、感謝をもって神さまの御名を讚えることに現れてきます。それとともに、私たちが主の契約共同体において、先ほど引用しました、ヨハネの手紙第1・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されている愛のうちを歩むことに現れてきます。エゼキエルの預言に示されていますように、神さまは御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、私たちをこのように生きる者に造り変えてくださいました。そして、その贖いの御業によって、また、贖いの御業にあずかっている私たちを通して、ご自身の御名が聖なるものであることをあかししてくださるのです。
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