(第61回)


説教日:2006年5月21日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第1の祈りは、

 御名があがめられますように。

という祈りです。この祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、基本的には、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 神さまの御名は、神さまがご自身がどのような方であるかを啓示してくださったものです。
 先週お話ししましたように、この世界のすべてのものは神さまがお造りになったものであり、神さまが真実に支えてくださっているものです。空間的に考えられるこの世界に存在しているものが神さまの御手によって支えられているだけでなく、時間的にこの世界に起り来る出来事の一つ一つが神さまの御手に支えられ、導かれています。その意味で、この世界のすべてのものが、神さまがどのような方であるかをあかししています。
 そればかりでなく、神のかたちに造られた人間は自らの本性のうちに造り主である神さまに対するわきまえ、神さまを知る知識の光を与えられています。それで、外から教えられなくても、その心が造り主である神さまに向き、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものであります。人がこのように造られていることも神さまの啓示としての意味をもっています。人は自らのうちに神さまの啓示を与えられているのです。そして、これは神さまの創造の御業に基づく啓示ですので、すべての人に与えられています。もし人が神のかたちに造られることがなく、そのうちに神さまに対するわきまえ、神さまを知る知識の光が与えられていなかったら、人は神さまを知ることはできませんでしたし、神さまとの人格的な交わりとしての祈りや讃美もなく、礼拝もあり得ません。当然、神さまの創造の御業を通しての啓示を受け止めることもできません。それは、人間以外の生き物が超越者を知らないばかりか考えることもないのと同じです。


 罪を犯したアダムに対するさばきの宣言を記している創世記3章17節〜19節には、

 また、アダムに仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

と記されています。ここに記されていることから分かりますように、造り主である神さまに対して罪を犯した人がさばきを受けただけでなく、その人とのつながりにおいて人が住む世界ものろいの下に置かれました。そうではあっても、罪の結果が最も深刻な影響を与えているのは、罪を犯した人間自身です。
 罪を犯して堕落した人間は、自らのうちに罪の性質を宿しており、そのために、思いと言葉と行いにおいて罪を犯し続けています。そして、そのような者として聖なる神さまのご臨在の御前に立つならば、神さまの聖さを冒すものとして滅ぼされるほかのないものです。そのこともあって、神さまは罪ある人間をご自身のご臨在の御許から退けられました。それは、罪に対するさばきとしての意味をもちつつ、同時に、罪ある人間が直ちに滅ぼされてしまうことがないための神さまの備えでもありました。それによって、人間の歴史が存続し、先ほど引用しました人へのさばきに先だつ14節、15節に記されている「蛇」へのさばきの言葉に示されている「最初の福音」に約束されている「女の子孫」のかしらであられる贖い主による贖いの御業が成し遂げられる余地があるようになったのです。ローマ人への手紙3章25節、26節には、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

と記されています。神さまが「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」のは理由のないことではなく、「今の時にご自身の義を現わすため」のことでした。つまり、「最初の福音」に約束されている「女の子孫」のかしらとして来られたイエス・キリストの十字架の死によってご自身の民の罪を贖うことによって罪をまったく清算してしまわれると同時に、ご自身の民をご自身の御前に立たせてくださるようになるまでの準備のための時、準備としての意味をもつ歴史を備えてくださるためであったのです。
 話が少しそれましたが、罪による堕落の結果が最も深刻な影響をもたらしたのは、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間自身です。その場合でも、人間は直ちに死を迎えるのではなく、生きるための労苦が伴うとはいえ、地上の生涯があることが示され、その間に子孫を設けて歴史を受け継がせていくことも保証されておりました。そうではあっても、人間は罪がもたらすしに服するものとして「ちりに帰らなければならない」ものとなりました。
 罪による堕落の影響は、そのような肉体的な面に表れてきたことだけではありませんでした。それ以上に深刻なことは、罪のもたらす暗やみのために、神のかたちの栄光と尊厳性が損なわれ、その心に植え付けられている造り主である神さまに対するわきまえが腐敗してしまったことです。造り主である神さまに対するわきまえがなくなってしまったのではなく、腐敗してしまったのです。「腐っても鯛」ということわざがありますが、鯛が腐ってしまったからといって鯛でなくなってしまうわけではありません。創造の御業によって神のかたちに造られた人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったとはいえ、それによって神のかたちでなくなったわけではありません。神のかたちであるのですが、それが罪によって腐敗してしまっているのです。人は神のかたちであり、そのうちに造り主である神さまに対するわきまえを与えられていることには変わりがありません。ただ、その神さまへのわきまえが腐敗してしまっているために、造り主である神さまを神と認めることも、礼拝することもなくなってしまっています。そうではあっても、本性のうちに植え付けられている造り主である神さまに対するわきまえを消すことはできないために、自分のイメージにしたがって、自分たちのイメージに合う神々を作り出して、これを拝み、これに仕え、これを頼みとしています。これは造り主である神さまの御名を汚すことに他なりません。
 「女の子孫」のかしらとして来られたイエス・キリストが十字架の死によって、ご自身の民の罪を贖ってくださったのは、ご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをご自身の民に代わってその身に受けてくださったことです。それによって、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを自分の贖い主であると信じて受け入れた者たちは、永遠に神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることがなくなりました。しかし、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業は、それで終るものではありません。そのように十字架にかかってご自身の民のための贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストは、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それによって、ご自身の民を、その復活のいのちによって生きる者として、新しく造り変えてくださるためです。新しく造り変えると言っても、人間が人間でなくなるという意味ではありません。本来の、神のかたちの栄光と尊厳性を備えたものに再度造り変えてくださるということです。実際に、この歴史の中で、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業が成し遂げられたので、そして、イエス・キリストの民の罪が贖われたので、御霊はイエス・キリストの民の間で新しい創造の御業を開始することができるようになったのです。コリント人への手紙第2・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。そのように私たちを新しく造ってくださることは御霊のお働きによることです。私たちすべてはそのような御霊のお働きにあずかっています。それで、実際に、そのように新しく造り換えられている者としてあるようにという戒めが与えられています。たとえば、エペソ人への手紙4章22節〜24節には、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と記されています。そのように、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神のかたちの栄光と尊厳性を回復していただいています。それで、私たちのうちにあって罪によって腐敗してしまっていた造り主である神さまに対するわきまえもその本来のものに回復されています。私たちは造り主である神さまを神さまとして礼拝し、神さまに仕え、神さまだけを頼みとして歩む者としていただいているのです。これによって、私たちは、自分たちが住んでいるこの世界が神さまの御手によって造られた世界であり、神さまの栄光をあかししている世界であることをも知るようになりました。
 このイエス・キリストにある新しい創造は、神のかたちの本来の栄光と尊厳を回復してくださるものですが、それで終るものではありません。というのは、イエス・キリストが栄光を受けてよみがえられたのは、最初に神のかたちに造られたときのアダムの状態によみがえられたのではなく、アダムがさまざまな誘惑にもかかわらず神さまにまったく服従していたら、その従順に対する報いとして受けていたであろう、充満な栄光によみがえられたからです。ピリピ人への手紙2章6節〜11節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されている通りです。「人としての性質」を取って来てくださったイエス・キリストは、私たちの贖い主、「女の子孫」のかしらとして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。そして、その従順に対する報いとして、充満な栄光にあるいのちによみがえられたのです。イエス・キリストを贖い主として信じて受け入れている者たちは、その十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦されているだけでなく、イエス・キリストの復活にあずかって、その充満な栄光にあるいのちによって生きる者に造り変えられているのです。エペソ人への手紙2章4節〜7節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

と記されています。これは、先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章6節〜11節に記されている御言葉に照らして読みますと、より分かりやすくなります。
 これらのことは、神さまがご自身の永遠の聖定において定めておられたご計画によることであって、ことが起ってから対策を立てたというものではありません。私たちは無限、永遠、不変の神さまのご計画を直接のぞき見ることはできませんし、そのようなことをしようとすることは、無限、永遠、不変の栄光の神さまと、被造物である私たちの間にある絶対的な区別をわきまえないことであり、神さまの聖さを冒すことに他なりません。そうではあっても、私たちは、神さまがすでに御子イエス・キリストを通して成し遂げられたことを通して、そして、それについての神さまの御言葉の啓示を通して、神さまの永遠の聖定によるご計画の中心にあることを、被造物としての私たちの限界の中においてですが、知ることができます。そして、それはエペソ人への手紙1章3節〜6節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていることにまとめられます。父なる神さまの永遠の聖定の中心にあるのは、私たちを御霊による天的な祝福にあずからせてくださること、すなわち、私たちを御霊によってイエス・キリストのうちにある者としてくださることでした。そして、イエス・キリストにあって、御前に「聖く、傷のない者」として立たせてくださり、「ご自分の子」としてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださることでした。そして、このことの最終的な目的が、6節において、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われています。
 御子イエス・キリストは、このような父なる神さまのみこころに基づいて、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったのです。ここで、先ほど引用しましたピリピ人への手紙2節6節〜11節を振り返って見ますと、その結びである10節、11節には、

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されていました。そして、同じく先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章4節〜7節の結びである7節には、

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

と記されていました。すべて、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださったことの最終的な目的は、父なる神さまの恵みとまことに満ちたご栄光があかしされ、ほめたたえられるためであるのです。
 このことは、私たちが主の祈りにおいて、

 御名があがめられますように。

と祈ること、すなわち、

 あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ることと深くかかわっています。父なる神さまがご自身の永遠の聖定にしたがって、御子イエス・キリストを通して贖いの御業を成し遂げてくださったこと、そして、私たちをご自身の御前において「聖く、傷のない者」として立たせてくださり、「ご自分の子」としてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてしてくださったことの最終的な目的は、神さまの恵みとまことに満ちた栄光がほめたたえられるようになることです。それこそが、また、神さまの御名が聖なるものとして示されることです。
 そのことは、すでに旧約において示されていたことです。終りの日における主の契約の民の回復を預言的に示しているエゼキエル書36章16節〜28節には、

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―― 神である主の御告げ。―― わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

と記されています。
 ここでは、神である主がご自身の民を汚れからきよめてくださり、「新しい心」と「新しい霊」を与えてくださるということ、また、「石の心を取り除き」「肉の心」を与えてくださるということが約束されています。それは、これに先立つ部分に示されていますように、神である主がご自身の御名の聖なることを示すためであると言われています。

 


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