(第60回)


説教日:2006年5月14日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで主の祈りの第1の祈りである、
  御名があがめられますように。
という祈りについてお話ししてきました。繰り返しお話ししていますように、これを文字通りに訳しますと、
  あなたの御名が聖なるものとされますように。
となります。そして、この、
  あなたの御名が聖なるものとされますように。
という祈りは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 この第1の祈りのお話の最初の方でお話ししたことの繰り返しになりますが、神さまは存在においても、その一つ一つの属性においても無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの聖さも無限、永遠、不変ですから、何ものも神さまご自身を聖くすることも汚すこともできません。それで、
  あなたの御名が聖なるものとされますように。
という祈りによって、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを祈り求めるということは、神さまが「ご自身を」聖なるものとされることを祈り求めることではありません。また、何ものかが神さまを聖なるものとするようになることを祈り求めることでもありません。ここでは、あくまでも、神さまの「御名が」聖なるものとされること、すなわち、神さまがご自身の「御名を」聖なるものとしてくださることを祈り求めているのです。
 逆に言いますと、いかなるものも、その聖さにおいて無限、永遠、不変であられる神さまご自身を汚すことはできません。罪ある人間やサタンをかしらとする悪霊たちがすることは、神さまの「御名を」汚すことです。
 神さまの御名は神さまがどのような方であるかを、神さまが私たちに啓示してくださったものです。今日は、神さまの啓示の全体の中で、神さまの御名の啓示がどのような意味をもっているかを考えてみたいと思います。


 テモテへの手紙第1・6章15節後半と16節に、
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
と記されていますように、私たちであれ御使いたちであれ、造られたものは直接的に神さまを知ることはできません。ただ神さまがご自身を啓示してくださったかぎりにおいて知ることができるだけです。
 神さまは創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業をとおしてご自身を啓示してくださっています。
 創造の御業と摂理の御業を通しての啓示についてですが、詩篇19篇1節〜4節には、
  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。
  昼は昼へ、話を伝え、
  夜は夜へ、知識を示す。
  話もなく、ことばもなく、
  その声も聞かれない。
  しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
  そのことばは、地の果てまで届いた。
と記されています。また、ローマ人への手紙1章18節〜20節には、
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
と記されています。神さまがお造りになったこの世界そのものが造り主である神さまをあかしする啓示としての意味をもっています。
 それと同時に、神さまは神のかたちにお造りになった人の心のうちにご自身へのわきまえと、ご自身を知る知識の光をお与えになりました。それは神さまが創造の御業によって人に与えてくださったものであって、人が人であるかぎり誰にでも与えられているものです。その意味で、これも神さまの啓示の一つです。それで、神のかたちに造られている人間は、自分の外の世界からの造り主である神さまに対するあかしと、自分のうちに与えられている神さまへのわきまえと、神さまを知る知識の光に囲まれています。もし人にこのような神さまへのわきまえと、神さまを知る知識の光が与えられていなかったら、どんなにこの世界が造り主である神さまをあかししていても、人はそれを神さまからの啓示として受け止めることはできません。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときには、神さまが人のうちに与えてくださった神さまへのわきまえが罪によって腐敗してしまいました。しかし、それは神さまへのわきまえがなくなってしまったのではありません。罪による堕落の後も、人は人であり、神のかたちに造られたもの、自らのうちに神さまへのわきまえを与えられているものであることには変わりがありません。ただ、その神のかたちが罪によって腐敗してしまい、神さまへのわきまえが罪によって腐敗してしまったのです。そのために、人は造り主である神さまを神とする代わりに、自分のイメージにしたがってさまざまな神を作り出して、これらを神として拝むようになってしまいました。先ほど引用しましたローマ人への手紙1章18節〜20節に続く21節〜23節に、
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
と記されているとおりです。
 これらは神さまの創造の御業と摂理の御業を通しての啓示です。先週お話ししましたように、神さまはこの世界を何よりも歴史的な世界としてお造りになりました。それで、神さまはこの歴史的な世界をお支えになりお導きになる摂理の御業を通してもご自身を啓示しておられます。
 そして、その歴史を造るのは神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人間です。本来であれば、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造っていたはずです。それで、その歴史は造り主である神さまを礼拝しあがめることを中心としており、目的としている歴史であったはずです。その意味で、神のかたちに造られている人間が造る歴史を通して神さまがさらに豊かにあかしされ、神さまの恵みとまことに満ちた栄光がより豊かに現されることになっていたはずです。
 しかし、実際には、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにより、人が造る歴史は造り主である神さまを中心として、神さまの栄光を現すものであるどころか、人間の罪の現実を映し出すものとなってしまいました。ノアの時代の洪水前の状況を記している、創世記6章11節、12節に、
地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
と記されていることは、人間の罪が神さまの御前に極まってしまったことを示しています。程度の差こそあれ、神さまの御前にこれと同じようになってしまったのではないかと思われるような状況は歴史の中に繰り返し見られたことですし、今日でも、部分的には、まさにこのような状況になってしまっているのではないかと思われる状況もあります。
 このすべては、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているという現実の現れです。人間の歴史は、この意味での背教の歴史であるということもできるのです。けれども、そのような歴史の初めに、神さまは贖い主を約束してくださいました。それが、創世記3章15節に記されている、
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
という「蛇」へのさばきの言葉のうちに示されている「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主です。
 これによって、歴史に新しい側面が加えられることになりました。それは、神さまの一方的な恵みによって与えられた贖い主についての約束を中心とした、贖いの御業の歴史という側面です。この贖いの御業は、神さまが約束してくださった贖い主を信じる者を、神さまの御前に出でて、神さまを礼拝することを中心として生きる者として回復してくださるものです。それは、私たち主の民の救いと回復ということですが、同時に、それは天地創造の初めに神さまが委ねてくださった歴史と文化を造る使命を回復してくださるということでもあります。
 このように、天地創造の御業と摂理の御業を通して神さまはご自身を啓示してくださっていますが、さらに、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、贖いの御業を通してご自身を啓示してくださっています。そして、神さまが贖いの御業を通してご自身を啓示してくださることは、神さまが約束してくださった贖い主を中心としています。
 ヘブル人への手紙1章1節、2節前半には、
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
と記されています。
 これは、神さまの贖いの御業に伴う御言葉による啓示が、最終的に御子において頂点に達していることが示されています。ちょうどすべての川が海に流れ込むように、それまでのすべての啓示がこの御子に「流れ込んで」いるのです。
 詳しい説明は省きますが、神さまの贖いの御業の歴史には一定の構造があります。それは、まず、「準備としての預言の御言葉」が与えられ、その御言葉を成就する形で贖いの御業が遂行され、その後に遂行された贖いの御業についての「説明としての解釈の御言葉」が与えられます。つまり、神さまの贖いの御業はその前と後に与えられている御言葉に挟まれる形で説明されているのです。
 これは神さまの贖いの御業の歴史のそれぞれの段階についても当てはまりますが、一番大きな視野で見た場合には、旧約に記されている贖い主の預言は「準備としての預言の御言葉」です。そして、イエス・キリストの地上の生涯と十字架の死と死者の中からのよみがえり、そして、天に上られて父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださったことは、贖いの御業の遂行です。そして、そのことの意味を明らかにしている新約は「説明としての解釈の御言葉」です。
 もし神さまが遂行された贖いの御業に御言葉が伴っていなかったら、人は不思議なことが起ったことは分かっても、それがどのような意味をもっているかは分かりません。それで、自分の考えに合う解釈を加えていくほかはなくなります。その場合、ローマ人の手に渡されて十字架につけられて殺されたナザレのイエスは人間の考える救い主のイメージからはまったくかけ離れていますから、イエス・キリストが神さまの備えてくださった贖い主であることを誰が信じることができたでしょうか。実際、父なる神さまはご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。そして、御子イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださいました。私たちがそのことを知り、父なる神さまと御子イエス・キリストを信じたのは、神さまがそのことを御言葉によってあかししてくださったからです。私たちは御言葉を通しての神さまのあかしによって神さまが備えてくださった贖い主であるイエス・キリストを信じ、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっているのです。そればかりではありません。私たちは神さまが与えてくださった御言葉にしたがって、この世界のすべてのものは神さまによって造られ、神さまによって支えられ、保たれていると信じているのです。
 このように、私たちの信仰にとって、神さまの御言葉による啓示は決定的に大切なものです。この御言葉による啓示がなければ、人は誰も贖いの御業の意味を知ることはできませんし、人間の罪による堕落の後には、神さまの創造の御業の意味さえも知ることはできません。それで、神さまはただ贖いの御業を遂行してくださっただけでなく、その御業の意味を明らかにしてくださるための御言葉の啓示をも与えてくださっているのです。
 そうしますと、先ほどのヘブル人への手紙1章1節、2節前半に記されている、
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
という御言葉、これは、神さまが旧約の時代に語られたことがすべて御子イエス・キリストに「流れ込んで」来ているということを意味しているのですが、この奥には、神さまが御子イエス・キリストによって、贖いの御業を最終的に成し遂げてくださったという事実があることが了解されます。実際、これに続く2節後半と3節に、
神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
と記されています。
 これらのことからお分かりになると思いますが、神さまの創造の御業も贖いの御業も神さまの自己啓示としての意味をもっています。そして、その啓示を受け止めるのは神のかたちに造られている人間です。言うまでもなく、神さまの自己啓示は神さまがご自身を示してくださったものです。それで、神さまの自己啓示を受け止めるということは、神さまご自身を知るようになることを意味しています。そして、本来、神さまを知ることは、神さまを神として礼拝しあがめることなしにできることではありません。
 このように、神さまは創造の御業と贖いの御業を通してご自身を啓示してくださっています。それは私たちが神さまを知るようになるためです。そして、もし私たちが真に神さまを知ったなら、必ず、神さまを神として礼拝しあがめるようになりますし、神さまのみを神として愛して信頼するようになります。ことのことは、神さまが私たちにご自身を啓示してくださっているのは、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためであるということを意味しています。
 もし、神さまを神として礼拝しあがめることもなく、神さまを神として愛して信頼することもないのに、神さまを知っていると言う人がいたら、その人は真に神さまを神として知ってはいません。実際に、神さまの啓示によって神さまを知っているのに、神さまを神として礼拝し、あがめることをしない存在があります。それは、サタンをかしらとする悪霊たちです。ヤコブの手紙2章19節には、
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
と記されています。また、イエス・キリストが贖い主としてのお働きを開始されたとき、すぐにイエス・キリストがどなたであるかを理解したのは悪霊たちでした。マルコの福音書1章23節〜26節には、
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
と記されています。悪霊たちは、神さまを知ってはいても、決して神さまを神として礼拝しませんし、あがめることもありません。これこそが罪の本質の現れです。それはまた、罪の下にある人間の姿でもあります。先ほど引用しましたローマ人への手紙1章21節〜23節に、
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
と記されている通りです。言うまでもなく、これは神さまの御名を汚すことです。
 いずれにしましても、神さまが創造の御業と贖いの御業を通してご自身を啓示してくださったのは、私たちが神さまを知り、神さまを神として礼拝してあがめるとともに、神さまを神として愛して信頼するようになるためです。言い換えますと、神さまが私たちにご自身を啓示してくださっているのは、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためであるということです。そのように、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者にとって、大切なことは、神さまの御名を呼ぶことです。私たち人間同士の交わりにおいても、お互いの名も知らない交わりというのは、一時的な交わりではありえても、深い人格的な交わりではありません。
 これらのことから、神さまがご自身の御名を私たちに啓示してくださっていることの意味が分かります。大切なことですので、繰り返しをいとわず申しますと、神さまは創造の御業と贖いの御業のすべてを通して、私たちにご自身を啓示してくださっています。その意味で、神さまの啓示は多様であり豊かなものです。そのように、創造の御業と贖いの御業の全体が神さまの啓示ですが、その目的は、私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることにあります。そうであれば、神さまの御名の啓示は、創造の御業と贖いの御業を通しての神さまの啓示の中心にあるということになります。
 ですから、私たちが、
  あなたの御名が聖なるものとされますように。
と祈るのは、神さまが創造の御業と贖いの御業を通してご自身を啓示してくださった目的が、みこころにしたがって実現することを、その核心において祈り求めているわけです。そして、それは、神さまが私たちを御子イエス・キリストの贖いにまったくあずからせてくださって、私たちが神さまを神として礼拝しあがめることを中心とした、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださることを祈り求めることであるのです。その意味では、
  御名があがめられますように。
と祈り求めることは、すでにお話ししましたように、神さまが御名を汚す者たちへのさばきを通して御名を聖なるものとされることを表していませんので、この祈りのすべてを表すものではありませんが、この祈りの主旨に沿っています。

 


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