(第59回)


説教日:
聖書箇所:


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。主の祈りの第1の祈りは、

  御名があがめられますように。

という祈りです。これは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、誰かが神さまの御名を聖なるものとすることを祈り求めるというよりは、神さまがご自身の御名を聖なるものとしてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 これまで、神さまの御名についてお話しする中で、固有名詞としての御名である「ヤハウェ」についていくつかのことをお話ししてきました。
 「ヤハウェ」という御名の意味は、出エジプトの時代に、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを召してくださったときに啓示されています。そのことは出エジプト記3章13節〜15節に記されていますが、神さまの御名についてのモーセの問いかけに神さまが最初にお答えになった、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という言葉の全体が神さまの御名の啓示であると考えられます。そして、これが次に出てくる、

  わたしはある。

という御名に短縮され、さらにそれが3人称化されて「ヤハウェ」となったと考えられます。
 それで「ヤハウェ」という御名の意味は、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名に示されていると考えられます。
 この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、神さまが存在される方であることを強調するものです。これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されていると考えられます。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられます。
 この世界のすべてのものは、この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の神さまによって造られ、神さまに支えられて存在しています。この世界のすべてのものはその存在を神さまに負っています。この世界のすべてのものがその存在を神さまに負っているというとき、それは空間的に広がっている世界のすべてのもののことだけではありません。天地創造の御業から始まっているこの世界の歴史の中に存在しているすべてのものが、その存在を、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の神さまに負っているのです。


 神さまの創造の御業を記している創世記1章1節〜2章3節の記事から分かりますように、この世界は歴史的な世界として造られています。その御力において無限、永遠、不変の神さま、すなわち全能の神さまは、一瞬のうちに、この世界を完成したものとしてお造りになれます。けれども、神さまは天地創造の六つの日にわたって創造の御業を遂行され、第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されました。ですから、創造の御業自体が造り主である神さまの安息に向かう歴史的な御業でした。しかも、神さまの安息の日として祝福され、聖別されている第7日は、いまだ閉じてはいません。つまり、今も私たちは天地創造の第7日のうちにいるのです。言い換えますと、人類の歴史は、造り主である神さまの安息の日として祝福され、聖別されている天地創造の第7日のうちにあるのです。
 創世記1章27節、28節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 神のかたちに造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを神さまのみこころにしたがって治める使命を委ねられています。28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。

と記されていますように、その使命は神さまの祝福の言葉として与えられました。そして、人は、

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

と言われている使命を果たすために、自分たちに与えられている賜物としてのさまざまな能力を傾けます。それによって、造り主である神さまのみこころにしたがって、神さまの愛と恵みに満ちている栄光を映し出す文化が造られます。そればかりでなく、それに先だって、

  生めよ。ふえよ。地を満たせ。

と言われていますように、この使命は新たに生れてくる者たちにも受け継がれていくべきものです。その意味で、これは何よりも歴史を造る使命です。
 神さまが人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったすべてのものを治める使命を委ねてくださったので、人は歴史を造るのです。そして、その歴史の全体が、造り主である神さまの安息の日として祝福され、聖別されている天地創造の第7日のうちにあるのです。ヘブル人への手紙4章3節〜10節には、

信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

と記されています。
 ここでは、天地創造の第7日がいまだ終っていないことが示されています。そればかりでなく、その第7日の安息は神さまの安息ですが、それは神の民が神さまの安息にまったくあずかるようになることによって、まったき安息として完成するということが示されています。このことは、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのは、ご自身の民をご自身の安息にあずからせてくださるためのことであるということを意味しています。
 この主の祈りのお話の初めの方でお話ししただけでなく、いろいろな機会にお話ししましたが、ヨハネの福音書1章1節〜3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。すでにお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、

初めに、ことばがあった。

という言葉は、天地創造の「初めに」すでに「ことば」が継続して存在しておられたということを示しています。実際、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていますように、「ことば」はこの世界のすべてのものをお造りになった方です。それで「ことば」はこの世界の一部として、この世界に属する方ではありません。そして、時間はこの造られた世界の時間ですから、「ことば」は時間の中にある方ではなく、時間を越えた永遠の存在です。それで、1節では、

ことばは神であった。

と言われています。
 そして、1節で、

ことばは神とともにあった。

と言われており、2節で、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていますように、父なる神さまと「ことば」と言われている御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあるのです。つまり、神さまは無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられます。この意味で、神さまは永遠にまったき安息のうちにおられます。
 3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われているのは、この世界のすべてのものは、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって造られたということを意味しています。天地創造の御業は、神さまが御子にあって、また御子によって、ご自身の愛をご自身の外に向けて表される御業でした。
 ですから、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのは、ご自身に安息がなかったからではありません。それはむしろ、神のかたちに造られて、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされた人間のためでした。その人間が被造物に許されている限りでの充満な栄光の状態に至って、ご自身との愛の交わりをこの上なく深めることによって、神さまの安息にあずかるようになることが、天地創造の第7日の祝福と聖別の目的だったのです。
 そうであるからこそ、神さまは、十戒の第4戒において、安息日を聖別するようにと、エジプトの奴隷の身分から贖い出されたご自身の民に命じておられるのです。出エジプト記20章8節〜11節には、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―― あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―― それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されています。
 先週お話ししましたように、「ヤハウェ」という御名は、神さまが人を神のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださったときに、すでに啓示されていたと考えられます。人が造られたときのことを記している創世記2章7節、8節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されていて、このように親しく人と向き合う形で人をお造りになったのは「神である主」であられることが示されています。この「神である主」という御名は「ヤハウェ・エローヒーム」です。「エローヒーム」は1章1節〜2章3節の天地創造の御業の記事で用いられている御名で、「神」を表しています。つまり、この「ヤハウェ・エローヒーム」という御名は、「ヤハウェ」は天地創造の御業を遂行された「神」であられるということを示しているのです。
 ヤハウェは天地の造り主であられ、造られたすべてのものと絶対的に区別される神であられます。そのヤハウェは、人をちりからお造りになったときに、このように人と親しく向き合ってくださり、人をご自身のご臨在の場として聖別されていたエデンの園に置いてくださいました。これは、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として、神のかたちにお造りになったことの具体的な現れです。これはまた、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことの目的にそったことです。
 このように、「ヤハウェ」という御名は、天地創造の御業を遂行された神さまの御名であることが示されています。それとともに、神さまが神のかたちに造られている人に親しく向き合ってくださり、人をご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださる方であられるという意味合いをもっています。
 さらに、人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、最初の女性エバを誘惑して罪を犯させた「蛇」の背後にある存在、すなわちサタンに対するさばきの宣告を記している創世記3章14節、15節には、

神である主は蛇に仰せられた。
 「おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。
 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されています。このサタンに対するさばきの宣告の言葉は「最初の福音」と呼ばれるものですが、神である主、すなわち、ヤハウェが語られたものです。
 14節で、

  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。

と言われているのは、「蛇」の食べ物のことを言っているのではありません。蛇は小さな生き物を食べます。「ちりを食べる」というのは慣用句で「敗北すること」を表します。被造物であるサタンは神である主に背いていますが、直接的に神である主と戦うことはできません。それで、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを治める使命、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して神である主に背かせることによって、神さまの創造の御業の目的を挫こうとしたのです。それは、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったみこころが実現しなくなることを狙ったものでもあります。
 この時に、神である主が直接サタンに対するさばきを執行されたなら、罪を犯した者としてサタンと一つになってしまっている人間もさばきを受けて滅びなければならなくなります。そうすれば、サタンの思惑のとおりになってしまいます。しかし、神である主はそのようになさらないで、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と宣言されました。神である主ご自身が罪によって一つになっているサタンと「」の間に「敵意」を置いてくださるというのです。「」は神である主に敵対しているサタンと敵対するものとされます。それは、「」が神である主の側に立つものとなることを意味しています。そればかりでなく、その「敵意」は「おまえの子孫」と「女の子孫」にまで受け継がれていって、ついには、「女の子孫」のかしらであられる方がサタンの頭を踏み砕くという形でサタンへのさばきが執行されるというのです。このようにして、救いは「女の子孫」にまで及び、「女の子孫」のかしらであられる方によって完成します。
 このことの光に照らして見ますと、16節に記されている、

女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

というさばきの言葉も、「女の子孫」の誕生を保証してくださる言葉ともなります。このようなことがあって、先週お話ししましたように、4章1節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されていると考えられます。先週お話ししましたように、ここでエバが用いている「ひとりの男子」と訳されている言葉「イーシュ」は成人男子を表します。エバはこの子が生まれた時にすでに、この子が成人したときのことを考えているということをうかがわせます。それは、この子が、

  彼は、おまえの頭を踏み砕く

と約束されていた「女の子孫」であると考えていたことを表すものであると考えられます。また、ここでエバが用いている「」という御名は「ヤハウェ」です。これは、エバが「ヤハウェ」という御名を知っていたことを意味しています。
 けれども、そのカインは弟アベルを殺してしまい、主、ヤハウェの御前を去っていってしまいました。カインは「最初の福音」に約束されている「女の子孫」ではありませんでした。しかし、同じ4章25節、26には、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されています。ここでエバが「もうひとりの子」と言っているときの「」という言葉(ゼラァ)は「女の子孫」の「子孫」と同じ言葉です。そして、

そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と言われている時の「」も「ヤハウェ」です。
 このように、ヤハウェは人が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまったときにも、「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださいました。このことをこれまでお話ししてきたこととの関わりで見ますと、ヤハウェ・エローヒーム、神である主が「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださったのは、この贖い主による救いをとおして、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったみこころを実現してくださるためでした。言い換えますと、ご自身の無限、永遠、不変の愛を造られたこの世界のすべてのものに、特に、神のかたちに造られている人間に注いでくださるという創造の御業の目的を実現してくださるためでした。
 その意味で、創造の御業の目的と贖いの御業の目的は一致しています。そして、それはこの全宇宙と歴史全体を貫いている目的です。そのような壮大な目的を実現してくださるのは、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられるからに他なりません。そして、この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の意味するところは、すべて、「女の子孫」としての贖い主となるために人の性質を取って来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストにおいて実現しています。
 そして、サタンの巧妙な働きにもかかわらず、御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして、神さまの天地創造の御業の目的が実現し、天地創造の第7日をご自身の安息として祝福し、聖別してくださったみこころがまったきものとして実現することをとおして、神さまの御名は聖なるものとされます。

 


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