(第58回)


説教日:2006年4月30日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りの第1の祈りは、

  御名があがめられますように。

という祈りです。これは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、誰かが神さまの「御名」を「聖なるもの」とすることではなく、神さまがご自身の「御名」を「聖なるもの」としてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。神さまがご自身の「御名」を「聖なるもの」としてくださることには、いろいろなことが含まれていますが、そのことのうちに、神さまがお造りになったものが神さまの「御名」をあがめるようになることも含まれると考えられます。
 神さまの御名は、神さまが、ご自身がどのような方であるかを私たちに啓示してくださったものです。そのような意味をもっている神さまの御名にはいろいろありますが、神さまの固有名詞としての御名は「ヤハウェ」です。
 この「ヤハウェ」という御名の意味については、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出してくださるためにモーセを召してくださったいきさつを記している出エジプト記3章に示されてています。これまで何度もお話ししたことですので結論だけを言いますと、14節に記されている、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの御言葉全体が神さまの御名の啓示であると考えられます。この

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、神さまが存在される方であることを強調するものです。これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されていると考えられます。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられる方であるということです。そして、そのような方として、神さまはこの世界のすべてのものの存在の源であり、土台であるのです。神さまは天地創造の御業によってすべてのものをお造りになり、真実な御手によってすべてを支えておられます。
 このような意味をもっている、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名が、次に出てくる、

  わたしはある。

に短縮され、さらにそれが呼び名として3人称化されて、「ヤハウェ」となったと考えられます。
 このこととともに、私たちはこの御名が啓示されたときの状況に照らして、この御名の意味合いを理解します。この御名は、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださり、ご自身の御前に住まうものとしてくださるために、モーセを遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。その際に神さまは、まず、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われました。これは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民を顧みてくださっていることを示しています。
 このように、ここでは、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって示されている方として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を成就してくださり、出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるということを意味しています。


 聖書の中にはこのほかにも神さまの御名がいくつか出てきます。それらの神さまの御名は、このヤハウェの御名です。たとえば、少し前に取り上げましたが、創世記17章1節、2節には、

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

と記されています。
 ここには「全能の神」という御名が出てきます。この御名は「エル・シャダイ」です。ヘブル語としては「エ」が少し長く「エール・シャダイ」ですが、一般には、新改訳欄外にありますように「エル・シャダイ」として知られています。これは、「」を表す「エール」と、神の威厳と力を表す「シャダイ」の組み合わせによるものです。新改訳は「シャダイ」を「全能者」と訳していますが、これは旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳(パントクラトール)にしたがっています。いずれにしましても、「シャダイ」は神さまの御力に関わる御名です。その意味でこれは、神さまの属性を表す御名です。そして、「エール」は「神」を意味しています。これは、私たちが「人間」であるというのと同じで、「神」を表す一般的な呼び名です
 後ほどお話しすることとの関わりで、大切なことは、この「シャダイ」、「全能者」は、人間の弱さ、もろさ、はかなさとの関わりで意味をもっているいうことです。アブラハムもイサクもヤコブも地上では旅人でした。そのように、さまざまの限界をもつ人間であるというだけでなく、社会的にも弱い存在であるアブラハム、イサク、ヤコブにとっては、神さまが「エル・シャダイ」としてご自身を現してくださったということは、大きな意味をもっていました。
 「エール」に当たる御名は古代オリエントに広く見られ、「シャダイ」に当たる御名も見られます。しかしそれらは、人間が自分たちの考える神を、そのイメージにしたがって「神」(エール)と呼んだり「全能者」(シャダイ)と呼んだりしていたものです。けれども真の意味で「神」(エール)と呼ぶことができる方は、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方、すなわちヤハウェだけであり、真の意味で「全能者」(シャダイ)と呼ぶことができる方もヤハウェだけです。しかも、これは、あらゆる点で限りがある人間が考えている「神」、「エール」や「全能者」、「シャダイ」のイメージをヤハウェに当てはめるという意味ではありません。人間が考えている「神」、「エール」や「全能者」、「シャダイ」のイメージをそのままヤハウェに当てはめることはできません。なぜなら、ヤハウェは、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられるからです。ヤハウェは人間の想像力を無限に越えた、真の意味の「神」、「エール」であられ、「全能者」、「シャダイ」であられます。
 もう一度、先ほど引用しました創世記17章1節を振り返ってみましょう。そこには、

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

と記されていました。ここで、

主はアブラムに現われ

と言われているときの「」は「ヤハウェ」です。そして、そのヤハウェが、アブラハムに、

  わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。

と言われました。つまり、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方が、ご自身は「エル・シャダイ」、「全能の神」であられると言われたのです。その意味で、これは、神さまがご自身の御名を啓示してくださったことです。ですから、この「エル・シャダイ」、「全能の神」は、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名にふさわしい「エル・シャダイ」、「全能の神」です。それで、この「エル・シャダイ」、「全能の神」は、人間が考える「エル・シャダイ」のイメージを無限に越えています。この「エル・シャダイ」こそが、真の意味での「エル・シャダイ」、「全能の神」であるのです。
 そして、ご自身を「エル・シャダイ」、「全能の神」として示してくださったヤハウェが、アブラハムに、

  わたしは、わたしの契約を、
  わたしとあなたとの間に立てる。
  わたしは、あなたをおびただしくふやそう。

と言われて、実際に契約を与えてくださいました。それは、主、ヤハウェの一方的な恵みによることです。ヤハウェはこの契約を成就し、その約束を実現してくださるために、「エル・シャダイ」、「全能の神」として御力を働かせてくださるということです。
 アブラハム、イサク、ヤコブの時代を総称して「族長時代」と呼びますが、この族長時代には神さまの御名は「エール」に関連したものとして示されています。創世記14章17節〜20節には、

こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

と記されています。ここには「シャレムの王メルキゼデク」が祭司として仕えていた「いと高き神」という御名が出てきます。この「いと高き神」は「エール・エルヨーン」です。これも、ヤハウェがご自身を「いと高き神」、「エール・エルヨーン」として示してくださっているもので、2つの御名の関係は、「エル・シャダイ」の場合と同じように考えられます。ちなみに、「シャレムの王」の「シャレム」は後のエルサレムのことです。
 また、21章33節には、

アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。

と記されています。この「永遠の神、主」の「」は「ヤハウェ」で、これが最初に出てきます。そして、この「」がさらに「永遠の神」、「エール・オーラーム」と説明されています。この、「永遠の神」、「エール・オーラーム」という御名と「ヤハウェ」という御名の関係も、先程と同じように考えられます。
 このことに関して、1つの疑問が湧いてきます。それは、モーセに「ヤハウェ」という御名が啓示されたのに、どうしてモーセより400年以上前のアブラハムのことを記す記事に「ヤハウェ」という御名が出てくるのかということです。
 これには2つのことが関わっています。
 1つは、「ヤハウェ」という神さまの御名は、人類の歴史の初めから啓示されて知られていたと考えられるということです。創世記4章1節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されています。この「」は「ヤハウェ」です。さらに、同じ4章26節には、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されています。この「」も「ヤハウェ」です。このように、「ヤハウェ」という御名は人類の歴史の初めから知られていたと考えられます。それは、「ヤハウェ」は、本来、イスラエルの神の御名ではなく、全人類の神の御名であり、天地をお造りになった神さまの御名であるということに他なりません。
 このように、「ヤハウェ」という御名は人類の歴史の初めから啓示されており、人に知られていたと考えられます。しかし、罪による堕落の後の歴史の中では、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と言われていますが、その後はノアの時代に至る歴史の中で忘れ去られていったと考えられます。
 しかし、まったく忘れ去られてしまったというわけではありません。先ほど引用しました、21章33節に記されている、

アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。

という言葉は、アブラハムが「ヤハウェ」という御名を知っていたことを示しています。
 そうしますと、モーセに示されたことは何であったかという疑問が出てきます。これについては、この時に「ヤハウェ」という御名が最初に啓示されたのではなく、すでに知られていた「ヤハウェ」という御名のより豊かで十全な意味が啓示されたのであると考えられます。
 言うまでもなく、神さまはおひとりであり、無限、永遠、不変の方であられます。「ヤハウェ」という神と「エル・シャダイ」という別の神があるのではありません。先ほどお話ししましたように、「ヤハウェ」という固有名詞をもって呼ばれる神さまが、アブラハム、イサク、ヤコブに「エル・シャダイ」、「全能の神」という御名によってご自身を現してくださったのです。それは、地上の旅人としての歩みを続けたアブラハム、イサク、ヤコブにとって、「エル・シャダイ」、「全能の神」という御名が大きな意味をもっていたからであると考えられます。
 出エジプト記6章2節、3節には、

わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という主の御言葉が記されています。これまでお話ししたこととの関わりで言いますと、これは、アブラハム、イサク、ヤコブに「ヤハウェ」という御名が知らされていなかったという意味ではなく、地上の旅人としてカナンの地で過ごしたアブラハム、イサク、ヤコブには、神さまはご自身が「エル・シャダイ」、「全能の神」であられることを示してくださり、その「エル・シャダイ」、「全能の神」という御名が示す方として、彼らを支え、導き、守られたということです。
 これに対して、出エジプトの時代においては、神さまの固有名詞としての「ヤハウェ」という御名の意味するところがモーセやエジプトの奴隷の身分であったイスラエルの民にとって大きな意味をもっていたと考えられます。繰り返しになりますが、その「ヤハウェ」という御名が意味するところは、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という方であられることにあります。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられる方であられるということです。そして、そのような時間を超越しておられる方、歴史の主として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に対して真実であられ、その約束を果してくださる方であられるという意味合いが、モーセとイスラエルの民にとって大きな意味をもっていたのです。
 このことを念頭に置きますと、先ほどの、

わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

という神さまの御言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブにお示しになった、神さまが「全能の神」であられることが、モーセの時代になって取り消されたのではないことが分かります。むしろ、神さまは、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方、すなわち「ヤハウェ」であられるので、「エル・シャダイ」、「全能の神」としてアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられたように、モーセとイスラエルの民とともにもいてくださるとさえ言うことができます。これは、先ほどの、「いと高き神」、「エール・エルヨーン」や「永遠の神」、「エール・オーラーム」についても当てはまります。
 「ヤハウェ」という御名がモーセの時代より前のことを記す記事に出てくることに関わるもう1つのことですが、聖書の最初の5つの書物である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を、伝統的には「モーセ五書」と呼んできました。それは、その5つの書物がモーセによって記されたという理解を反映しています。いくつかモーセより後の時代の書き換え、たとえば、古い地名を新しい地名に置き換えるというような書き換えや、モーセの死の記事のような追加があったことは確かですが、私は基本的にこれらがモーセによって記されたと考えています。このことを否定する人々も、そのすべてがモーセより後に記されたと言う点では一致しています。つまり、それら5つの書物が記されたのは、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の豊かな意味が啓示された後のことです。ですから、「ヤハウェ」という御名が人に啓示される前のことを記している創世記2章4節以下に「ヤハウェ」という御名が用いられているのはおかしなことではありません。2章7節、8節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されています。ここには人が造られたときのことが記されています。当然、人が造られる前には「ヤハウェ」という御名は人に啓示されていません。
 ここに出てくる「神である主」は「ヤハウェ・エローヒーム」です。これによって、「土地のちり」から造られた人と親しく向き合ってくださり、ご自身がご臨在される場として「エデンに園を設け」、そこに人を住まわせてくださり、人をご自身との愛にある交わりのうちに生きるようにしてくださった神さまは、ヤハウェであられるということが示されています。つまり、モーセに、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を示してくださった神さまが、天地創造の初めから働いておられるということです。
 このように、神さまは天地創造の初めから、モーセに示してくださった、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方として働いておらました。そればかりでなく、先ほど引用しました、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

というエバの言葉から分かりますように、最初の人に「ヤハウェ」という御名を知らせてくださっていました。
 この、

私は、主によってひとりの男子を得た。

というエバの言葉の「ひとりの男子」という言葉(イーシュ)は成人男性を表します。この男の子は生まれたばかりなのに、なぜエバは成人男性を表す言葉を使ったのでしょうか。詳しい説明は省きますが、それは、エバが、3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の「蛇」に対するさばきの言葉に約束されている「女の子孫」を待ち望んでいたからであると考えられます。エバは、カインが「蛇」の背後にあるサタンの「頭を踏み砕」く「女の子孫」ではないかという期待から、その成人した姿を思い描いていたと思われます。ですから、

私は、主によってひとりの男子を得た。

というエバの言葉は、「」、「ヤハウェ」という御名が、神さまが人類の救いのための贖い主を約束してくださっていることと深くつながっていることを示しています。
 そして、この「」、「ヤハウェ」、すなわち、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方がモーセの時代に出エジプトの贖いの御業を遂行してくださいました。そして、私たちの時代には、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして贖いの御業を完成してくださったのです。さらに、この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方は、この後も、歴史の終わりに至るまでもご自身の契約に対して真実であられ、終りの日には、栄光のうちに再臨される御子イエス・キリストをとおして、私たちの救いを完成してくださいます。

 


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