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説教日:2006年4月23日 |
そのために、まず、これまでお話ししたことをまとめておきます。 この「御名」の由来については、出エジプトの時代に、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを召してくださったことを記している出エジプト記3章13節〜15節に記されています。そこには、 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 と記されています。 ここで示されている神さまの「御名」については、14節に記されています、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という神さまの御言葉全体が神さまの「御名」であって、これが、次に出てくる、 わたしはある。 に短縮され、さらにそれが呼び名として3人称化されて、「ヤハウェ」となったと考えられます。ですから、「ヤハウェ」という「御名」の意味は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」に示されていると考えられます。そして、この わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」は、神さまが存在される方であることを強調するもので、これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されていると考えられます。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられる方であるということです。 このように、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」そのものは、神さまが何ものにも依存されない独立自存の方であられ、永遠に存在される方であられることを示しています。同時に、私たちはこの「御名」が啓示されたときの状況に照らして、この「御名」の意味合いを理解しなければなりません。この「御名」は、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるために、モーセを遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。その際に、6節に記されていますように、神さまは、まず、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われて、ご自身をモーセに示してくださいました。これは、神さまがアブラハムに契約を与えてくださり、その契約に基づいてアブラハムの神となってくださったこと、アブラハムとその子孫を通して地上のすべての国民が祝福を受けるようになることを約束してくださったこと、そして、その契約を、イサク、ヤコブへと受け継がせてくださり、さらに、その契約に基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民をかえりみてくださっていることを示しています。 このように、ここでは、神さまが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」によって示されている方として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を成就してくださり、出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるということを意味しています。それで、15節に記されていますように、神さまはモーセに、 イスラエル人に言え。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 と言われました。この、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 という神さまの「御名」の啓示においては、「主」は「ヤハウェ」で、これが最初に出てきます。そして、これを説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」がこれに続いています。 以上のまとめを念頭において、さらにお話を続けます。 新改訳で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と訳されている「御名」は、原文のヘブル語では、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という3語で表されています。そのうちの「アシェル」は関係代名詞で、その前と後ろは同じ「エヒイェ」です。この「エヒイェ」は「ある」、「なる」、「起こる」という意味の動詞(ハーヤー)の1人称単数形の未完了時制です。これは、未完了時制であるために、現在時制でも未来時制でも訳すことができます。それで、この、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という、新改訳で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と訳されている「御名」は、これ以外にもさまざまに訳すことができますし、実際に、さまざまに訳されています。 まず、可能性の低いと思われるものを二つ取り上げます。 一つは、これを使役(ヒフィール)語幹と取るものです。これはフリードマンやオールブライトのように高名な学者の見方です。この場合には、 わたしは、わたしが存在させようとするるものを存在させる。 となるでしょうか。 わたしは存在させ、わたしは創造する。 と訳している方もいます。けれども、この見方はあまり支持されていません。というのは、この動詞(ハーヤー)の使役語幹は他に用例がないからです。また、この場合には、この、 わたしは、わたしが存在させようとするるものを存在させる。 という言葉は創造の御業と関連する「御名」の啓示であるということになりますが、出エジプト記3章の文脈では、贖いの御業に関連して「御名」が啓示されているからです。 もう一つの可能性の低いと思われる見方は、この、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という、新改訳で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と訳されている部分は神さまの「御名」の啓示ではなく、神さまの「御名」の啓示は、 わたしはある。 であるという見方です。そうしますと、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という神さまの御言葉は何であるかということになりますが、これは、モーセが神さまに、 今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。 と問いかけたことに対して、神さまがそれにお答えになることを拒否されたことを表すものであるというのです。そして、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という神さまの御言葉を、 わたしが何者であってもかまわないではないか。 という意味に理解しています。つまり、「わたしはわたしであり、それ以外の何ものでもないではないか。」とか「わたしはわたしである。あなたがたはわたしの名を知る必要はない。」というようなことです。 このような見方をする人々は、モーセやイスラエルの民が身を置いていた古代オリエントの文化においては、神の名を知ることは、その名を使って神を操作するためのことであったということを問題にしています。そして、ここで、神さまはそのようなことをお許しにならなかったのであると論じています。 確かに古代オリエントの文化の発想にはそのようなものがありました。そうではあっても、聖書全体にわたって、神さまはご自身の「御名」を積極的に啓示しておられます。そして、この出エジプト記3章の中でも、 わたしはある という「御名」や、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 という「御名」が啓示されています。 また、モーセが神さまに、 今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。 と問いかけたときに、イスラエルの民が神さまの「御名」を知って神さまを操作して自分たちの意のままに動かそうとしているということで、それに対してどうしたらいいかということで、この問いかけをしているとは考えられません。その意味で、モーセの問いかけは正当な問いかけです。それで、神さまはこのモーセの問いかけにお答えになったと考えられます。 さらに、たとえここで神さまがご自身の固有名詞としての「御名」を啓示してくださらなかったとしても、モーセは、イスラエルの民に語るに当たって、神さまのことを何らかの「御名」で表したはずです。いずれにしても、神さまの何らかの「御名」は伝えられることになります。それで、このような見方には無理があります。 先ほどお話ししましたように、新改訳で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と訳されている「御名」のヘブル語は、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ です。そして、この「エヒイェ」はハーヤーという動詞の1人称単数形の未完了時制で、現在時制でも未来時制でも訳すことができます。 新改訳の、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という訳は、「エヒイェ」を二つとも現在時制で訳しています。このように両方を現在時制で訳す場合も、新改訳のカギカッコの位置を変えて、 わたしは「わたしはあるという者」である。 と訳すこともできます。この方がぴったりしているような気もしますが、新改訳は、これと次に出てくる、 わたしはある。 という御名のつながりを考慮し、それを明確にするために、 わたしは「わたしはあるという者」である。 と訳しているのではないかと思われます。 このように両方を現在時制で訳すだけでなく、両方を未来時制で訳すこともできます。その場合には、 わたしは「わたしがなろうとする者」となる。 というようになります。実際に、古代語訳にはそのような訳が見られます。これですと、神さまのご意志がより前面に出てくることになります。 さらに、二つの「エヒイェ」のどちらかを現在時制にして、もう一方を未来時制にするということもできます。そうしますと、前の方を未来時制と取って、 わたしは「わたしはある」となる。 というように訳したり、後の方を未来時制と取って、 わたしは「わたしがなろうとする者」である。 というように訳すことができるわけです。実際には、このような訳し方しかないわけではなく、それぞれの人が考える意味合いに合わせて、さまざまな訳があります。これらの場合も、神さまのご意志がより前面に出てくることになります。 このように二つの「エヒイェ」の両方、あるいはどちらかを未来時制と取ることは、かなり支持されているようです。その理由は二つあります。 一つは、このハーヤーという動詞(「エヒイェ」はその1人称、単数、未完了時制)が、「ある」という静止的な意味合いよりも、「なる」とか「起こる」というような動的な意味合いが強いということです。前回お話ししましたように、新改訳のように現在時制で、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 と訳しますと、「いつもそうである」という静止的な意味合いになりますが、これを未来時制とすることで動的な意味合い、神さまのご意志に関わる意味合いになるわけです。 もう一つは、これらのどれかの訳を支持する人々は、この未来時制として理解された神さまの「御名」の意味が文脈に合っていると言います。この人々は、神さまの「御名」を出エジプト記3章12節に、 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。」 と記されているときの、 わたしはあなたとともにいる。 という神さまの約束の御言葉とのつながりで理解しています。この わたしはあなたとともにいる。 という神さまの御言葉の「わたしは・・・いる。」が「エヒイェ」です。そして、これは約束の御言葉ですので、未来時制として訳すべきものです。この約束の御言葉とのつながりで、ここに示されている、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という神さまの「御名」を理解すると、この「御名」によって、神さまはモーセに、「わたしはあなたとともにいるように、彼ら(すなわち、イスラエルの民)ともともにいる」という約束を示しているということになるというのです。 私はこの理解に引かれるものを感じましたが、この理解を取っていません。その理由は、今日だけでなく、これまでお話ししてきたことから察していただけることと思いますが、簡単にまとめておきたいと思います。 まず、このハーヤーという動詞が、「ある」という静止的な意味合いよりも、「なる」とか「起こる」というような動的な意味合いが強いということ自体は、決定的なものではありません。問題は、どの理解が文脈に合っているかということです。今お話ししました、この、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という神さまの「御名」を未来時制で訳す場合には三つほどの可能性がありますが、そのどの訳を取っても、その訳だけでは、それが具体的に何を意味しているかは分かりません。それで、12節に記されている、 わたしはあなたとともにいる。 という神さまの約束の御言葉とのつながりから、この「御名」には、神さまがモーセとともにおられるように、イスラエルの民ともともにいてくださるという意味合いがあると理解し、その上で、その理解に合うと考えられる未来時制による訳を取っているわけです。 私も、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という「御名」を訳す場合には、これが啓示されている文脈に合う訳をするほかはないと考えます。ただ、私はその文脈は、12節に記されている、 わたしはあなたとともにいる。 という神さまの約束の御言葉ではなく、モーセの召命を記している記事の最初の部分に当たる3章1節〜17節において3回繰り返されていて、そのうち1回は、神さまの固有名詞としての「御名」である「ヤハウェ」の説明として用いられている、 あなた(がた)の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 という神さまの「御名」とのつながり、そして、モーセの召命の記事への導入となっている2章23節〜25節の24節に記されている、 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 という御言葉に出てくる「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」とのつながりの方がはるかに大きく、大切なものであると考えています。 そして、この、 あなた(がた)の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 という神さまの「御名」は、未来時制としてこれからのことを見据えるだけでなく、むしろそれ以上に、アブラハム、イサク、ヤコブの時代をも振り返るという意味合いをもっていると考えられます。 そして、これと密接につながっている、 エヒイェ・アシェル・エヒイェ という「御名」は、神さまが過去と未来を同時に包み込む方、すなわち永遠の存在であられることを示していると考えています。また、この神さまの「御名」は、神さまがそのような方として「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」を成就してくださる方であられるという意味合いを伝えていると考えているのです。 この理解は、先ほどの、神さまがモーセとともにおられるように、イスラエルの民ともともにいてくださるということをも、そのうちに含んでいるものです。というのは、神さまがモーセとともにおられるように、イスラエルの民ともともにいてくださるということの土台に、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約があるからです。神さまがともにいてくださるということは、聖書の中では一貫して、神さまの契約によることであり、神さまの契約の祝福の中心にあることです。 そして、この理解は、前回お話ししましたヨハネの福音書8章58節に記されています、 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。 というイエス・キリストの御言葉示していることとと同じ方向を示しています。すでにお話ししましたように、このイエス・キリストの御言葉は、イエス・キリストが時間を超越しておられる方であることを意味しています。それで、イエス・キリストは、 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。 と言われたことによって、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」の方であられるということを主張しておられます。そして、その前の56節に記されている、 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。 という御言葉との関わりで、ご自身がアブラハムに契約をお与えになって、それを成就してくださる主であられるということを主張しておられます。 私たちは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「御名」の方として、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちのための贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストを、私たちの主として信じており、この方にすべてを託しているのです。 さらに、今お話ししていることとの関わりで言いますと、私たちの主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった贖いの御業は、アブラハム、イサク、ヤコブを初めとして、すべての旧約の聖徒たちをも贖ってくださるための御業でもあるのです。 |
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