(第56回)


説教日:2006年4月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第一の祈りは、

  御名があがめられますように。

という祈りです。これは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは命令法で記されていますので、神さまを主語としますと神さまに何かを命じるような言い方になりますので、それを避けて、「御名」を主語にしていると考えられます。それで、この祈りは、神さまがご自身の「御名」を「聖なるもの」としてくださることを、丁寧な言い方で祈り求めるものであると考えられます。
 神さまの「御名」は、神さまがどのような方であるかを示しています。それは人間がつけたものではなく、神さまが私たちに啓示してくださったものです。それで、神さまの「御名」は、神さまが、ご自身がどのような方であるかを私たちに啓示してくださったものです。


 先週と先々週は、神さまの固有名詞としての「御名」である「ヤハウェ」についてお話ししました。この「御名」の由来については、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを召してくださったことを記している出エジプト記3章13節〜15節に記されています。もう一度それを見てみたいと思います。そこには、

 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。
 神さまは、ご自身の「御名」に関するモーセの問いかけに対して、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

とお答えになりました。この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

全体が神さまの「御名」であると考えられます。この言葉の意味をめぐってはいろいろな見方があます。中には、これは神さまの「御名」ではないという見方もありますが、私はこれが神さまの「御名」であると考えています。そして、これが次に出てくる、

  わたしはある。

という「御名」に短縮され、さらにそれが3人称化されて「ヤハウェ」となったと考えられます。
 ですから、「ヤハウェ」という「御名」の意味は、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」に示されていると考えられます。
 この

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」は、神さまが存在される方であることを強調するものです。これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されています。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられます。
 このように理解された、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の意味は、どちらかというと哲学的なもので、神さまとこの世界の関係を示していないのではないかという疑問も出されることと思います。
 確かに、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」を文脈から切り離して、これだけを見ますと、そのようになります。けれども、この「御名」は、人が哲学的な思索の中で悟ったものではありません。この「御名」は、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるために、モーセを遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。
 また、神さまがご自身をモーセに現してくださったことを記している出エジプト記3章の記事に先だって、2章23節〜25節には、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されています。神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。それで、神さまは最初に、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われて、ご自身をモーセに示してくださいました。ですから、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」を啓示してくださったことは、神さまがこの「御名」によって示されている方として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を成就してくださり、出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるということを意味しています。これを一般化して言いますと、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」を啓示してくださったということは、この「御名」の啓示を与えられ、それを受け止めて信じている者に、神さまがこの「御名」によって示されている方として、ご自身の契約を成就してくださることを意味しています。
 このように、これまでお話ししてきたように理解された、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の意味そのものは、神さまとこの世界の関係を示していないとしましても、それが神さまの「御名」であるということ自体が、私たちへの啓示としての意味をもっています。そこには、それを啓示してくださった神さまのご意志が働いています。言い換えますと、神さまがその「御名」を啓示してくださったことには目的があるのです。それは、この「御名」の啓示を受け止め、この「御名」を信じる者たちに対して、神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方として関わってくださり、働いてくださり、ご自身の契約を成就してくださるということです。
 この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。
   (エヒイェ・アシェル・エヒイェ)

という神さまの「御名」はヘブル語で記されていますが、そのギリシャ語訳である七十人訳においては、

  わたしは「在る者」である。
   (エゴー・エイミ・ホ・オーン)

と訳されています。
 少しややこしい話ですが、「エゴー」は(1人称単数形の代名詞の主格で)「わたしは」を意味しており、英語の「I」に当たります。また「エイミ」は(英語のBE動詞に当たるエイミ動詞の1人称単数形の現在時制で)「です」とか「ある」を意味しており、英語の「am」に当たります。ただし、ギリシャ語では、この「エイミ」だけで「わたしはある」、英語の「I am」を意味しています。これに、「エゴー」がついている「エゴー・エイミ」は強調形です。そして、「オーン」は(エイミ動詞の現在分詞の男性、単数、主格で)「存在している」を意味しています。英語の「being」に当たります。ここでは、これに「ホ」という定冠詞をつけて実体化し「在る者」となっています。
 このように、この、

  わたしは「在る者」である。
   (エゴー・エイミ・ホ・オーン)

という神さまの「御名」は、「わたしは・・・です。」(エゴー・エイミ・・・ )という強調形の現在時制で表わされています。そして、これが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの「御名」が表わす意味合いを伝えていると考えられます。
 また、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」を圧縮した、

  わたしはある。(エヒイェ)

という「御名」をギリシャ語に訳せば、強調形の現在時制の「エゴー・エイミ」になります。これは、主が「常に在る方」であることを表わしています。七十人訳はこの、

  わたしはある。(エヒイェ)

という圧縮された「御名」を、

  わたしはある。(エゴー・エイミ)

ではなく、

  (常に)在る者(ホ・オーン)

と訳していますが、どちらも同じような意味合いを伝えています。
 ヨハネの福音書には、イエス・キリストが、ご自身がどなたであるかを示してくださったときに、しばしば、この強調形の現在時制の「エゴー・エイミ」という言葉をお用いになられたことが記されています。
 8章31節以下には、イエス・キリストとユダヤ人とのやり取りが記しています。その最後の部分である56節には、

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。続く57節〜59節には、

そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

と記されています。ここでイエス・キリストは、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

と言われました。この、

わたしはいるのです。

と訳されている言葉が「エゴー・エイミ」です。アブラハムはイエス・キリストが人の性質を取って来られて、お生まれになるより1850年ほど前の人です。もしこれが、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいたのです。

と言うのであれば、イエス・キリストの年齢が1850歳以上であるというような、途方もない主張になります。そうではあっても、それはイエス・キリストがこの世界の中にあって時間とともに歳を取っていく者であるということを意味しています。しかし、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

というのは、これとは違います。これは、イエス・キリストが時間を超越しておられる方であることを意味しています。その意味で、これは、イエス・キリストが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方であられるということを主張しておられるのです。言い換えますと、イエス・キリストはご自身が永遠にして、独立自存の神であられ、アブラハムに契約をお与えになった主であられるということを主張しておられるのです。イエス・キリストが、

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

と教えられたのも、このこととの関わりで理解できます。これは、先ほどの、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいたのです。

という、ご自身が1850歳以上であるというような途方もない主張をはるかに越えて、ご自身を無限、永遠、不変の神とする、ユダヤ人たちから見れば途方もない主張です。ユダヤ人たちはこのことを察知し、イエス・キリストは、ご自身を神として、神さまの「御名」を汚していると考えました。それで、

すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。

と記されているのです。聖書になじんでいない人が、この、「石を取って・・・投げつけようとした」という言葉を読みますと、これを嫌がらせをしたというように受け止めることでしょう。言うまでもなく、これは、ユダヤ人たちが、イエス・キリストが神さまの「御名」を汚したと考えて、イエス・キリストを石打の刑にしようとしたということです。
 ヨハネの福音書には、先ほど触れました、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の七十人訳のギリシャ語である、

  わたしは「在る者」である。
   (エゴー・エイミ・ホ・オーン)

という「御名」と同じ「わたしは・・・である(エゴー・エイミ・・・)」という形で、イエス・キリストが、ご自身がどのような方であるかを示しておられる言葉が、七回ほど出てきます。これも、イエス・キリストが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方であられることを示していると考えられます。
 そのうちの最初に出てくるものを見てみますと、6章35節に、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

と記されています。言うまでもなく、この、

  わたしがいのちのパンです。

という言葉が、強調形の現在時制の「エゴー・エイミ・・・」で表されています。その意味で、これはイエス・キリストの「御名」です。そして、これはイエス・キリストが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の主であられるということを表すとともに、さらに、そのような主であられるイエス・キリストが、ご自身を信じている私たちにとって「いのちのパン」としての意味をもっておられるということを示しています。イエス・キリストはそのことを、

わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

と説明しておられます。
 この後に出てくる六つの「御名」もすべて同じ形ですので、詳しい説明を省いて、それらを見てみましょう。
 8章12節には、

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

と記されています。これについては、改めて説明するまでもありませんね。
 また、10章7節〜9節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

と記されています。ここには、

  わたしは羊の門です。

という「御名」と、

  わたしは門です。

という「御名」が出てきますが、どちらも、強調形の現在時制の「エゴー・エイミ・・・」で表されています。七つの「御名」というときには、この二つを同じものと考えて一つに数えています。
 同じ10章の11節には、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と記されています。そして、14節、15節には、

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

と記されていて、イエス・キリストが、

  わたしは良い牧者です。

という「御名」の主であられることの意味がさらに説明されています。新改訳では、最初の方の「わたしは」の後に句読点がありますが、二つはまったく同じ言葉です。
 また、11章25節、26節には、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

と記されています。新改訳では、

  わたしは、よみがえりです。いのちです。

と分かれていますが、これは強調形の現在時制の「エゴー・エイミ・・・」で表されている一つの文です。
 次に、14章6節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

と記されています。
 そして、最後に、15章1節には、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

と記されており、5節には、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と記されています。
 これら七つの「御名」は、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」に集約されます。逆に言いますと、これら七つの「御名」のすべてが、イエス・キリストが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の主であられるということを示すとともに、その、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の主であられるイエス・キリストが、ご自身を信じている私たちにとってどのような意味をもっておられるかを示しています。それは、出エジプトの贖いの御業の本体である、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いをとおしての死と滅びからの解放と、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって永遠のいのちに新しく生れることを中心とする祝福を私たちに示しています。
 父なる神さまは、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を成就してくださり、これら七つの「御名」によって示されている祝福にあずからせてくださっています。そして、このことをとおして、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

というご自身の「御名」を聖なるものとしてくださっています。それで、私たちがイエス・キリストを信じ、その恵みによって、これらの祝福のうちを歩むことにより、神さまの「御名」があがめられるようになります。

 


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