(第55回)


説教日:2006年4月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第一の祈りは、

  御名があがめられますように。

という祈りです。すでにお話ししましたように、これは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の「御名」を「聖なるもの」としてくださることを祈り求めるものです。
 神さまの「御名」は、神さまがどのような方であるかを示しています。そして、神さまの「御名」は、私たち人間が神さまについての自分たちの考えに基づいてつけたものではなく、神さまが私たちに啓示してくださったものです。それで、神さまの「御名」は神さまの自己啓示、すなわち、神さまがご自身がどのような方であるかを私たちに啓示してくださったものです。


 先週は、神さまの固有名詞としての「御名」である「ヤハウェ」についてお話ししました。まず、それを簡単に復習しておきましょう。この「ヤハウェ」という「御名」の由来については、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを召してくださったことを記している出エジプト記3章13節〜15節に記されています。そこには、

 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。
 ここに出てくる、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主

の「」が「ヤハウェ」で、神さまの固有名詞としての「御名」です。ここでは、この「ヤハウェ」という「御名」が最初に出てきて、それが、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

という「御名」によって説明されています。これによって、「ヤハウェ」という「御名」は、神さまがご自身の契約、特に、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に対して真実であられ、とこしえにその契約を守られることを示しています。
 ただし、これは「ヤハウェ」という「御名」そのものの意味ではありません。ここに記されているモーセの召命の記事から、最初にモーセに告げられた、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」が、次に出てくる、

  わたしはある。

という「御名」に短縮され、さらにそれが3人称化されて「ヤハウェ」となったと考えられます。
 ですから、「ヤハウェ」という「御名」の意味するところは、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」に示されていると考えられます。この、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」は神さまが存在される方であることを強調するものです。神さまこそが真の意味で存在される方です。もちろん、私たちもまた私たちが住んでいるこの世界とその中にあるすべてのものも存在しています。けれども、そこには違いがあります。私たちを含めたこの世界のすべてのものは神さまによって造られたものであり、神さまによって支えられています。それで、この世界のすべてのものは、その存在を全面的に神さまに負っています。しかし、神さまは何ものにも依存されることなく、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられます。神さまはこのような方として、ご自身の契約に対して常に、またとこしえに真実であられ、それを守られるのです。
 それで、神さまとこの世界のすべてのものの間には絶対的な区別があります。この神さまとこの世界のすべてのものの間にある絶対的な区別が、神さまの聖さの本質です。私たちが主の祈りの第一の祈りにおいて、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るときの「御名が聖なるものとされる」ということは、この神さまの聖さに関わっています。
 神さまの聖さについては、前に、かなり詳しくお話ししました。それで、これも簡単にまとめておきたいと思いますが、神さまの聖さの本質は、先ほど言いましたように、神さまと神さまがお造りになったこの世界の間には絶対的な区別があるということにあります。ただ、これだけですと、神さまがこの世界のすべてのものとはまったく違う方であるという、消極的なことのように見えてしまいます。この神さまの聖さには確かな裏付けがあります。それは、神さまがその存在と、知恵、力、義、愛、真実などの属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。神さまはご自身が無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、人格的な特性としての愛においても、永遠にまったく充足しておられます。神さまはそのような方であられるので、私たち人間の想像力をはるかに越える壮大な宇宙をお造りになって、その中にあるすべてのものを、今日に至るまで真実に支えてくださっておられるのです。言い換えますと、神さまはご自身の無限、永遠、不変の豊かさと愛におけるまったき充足のうちにこの世界をお造りになり、すべてのものを満たしてくださっています。神さまがこのような方であられるので、神さまはこの世界のすべてのものと絶対的に区別される方であるのです。
 このような神さまの「御名が聖なるものとされる」ということは、このことと深く関わっています。神さまが、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方として、何ものにも依存しないで、ご自身で、永遠に存在しておられるということは、より積極的には、神さまがその存在と、知恵、力、義、愛、真実などの属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。そして、神さまがこのような無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方として、この世界のすべてのものをお造りになり、その一つ一つをそれぞれの特質にしたがって真実に支えてくださっておられることに神さまの「御名」の聖さが示されています。
 これも前に取り上げた個所ですが、イザヤ書6章1節〜5節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍の主である王を、
 この目で見たのだから。」

と記されています。
 このイザヤが見た幻の中で、主の栄光のご臨在の御許で仕えている御使いであるセラフィムが告白している、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

という言葉には、神さまの聖さが「聖なる、聖なる、聖なる」という三重の積み上げによって強調されています。これは、神さまの聖さが、絶えず押し寄せる波のように、常に新鮮な現実としてセラフィムたちを圧倒している様子を示しています。ここでは、このような、神さまのこの上ない聖さとともに、「全地」を満たしている神さまの栄光が告白されています。これは、この主の神殿を、集約するように満たしている神さまの栄光のご臨在は、神殿に限られていないで、「全地」を満たしているということを示しています。
 神さまの聖さは、神さまがこの世界のすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。けれども、それは、神さまがこの世界から隔絶しておられるという意味ではありません。むしろ、このセラフィムの告白の言葉が示しているように、神さまが聖なる方であるということ、つまり、神さまが存在においても、知恵、力、義、愛、真実などの属性の一つ一つにおいても無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということ、そのゆえに、神さまの栄光は無限、永遠、不変であるということが、この世界を満たしているのです。神さまが存在においても、知恵、力、義、愛、真実などの属性の一つ一つにおいても無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということこそが、この神さまによって造られた世界と、その中の一つ一つのものの存在の根拠であり、支えであり、存在の意味を生み出しています。
 このことと関連して、一つの問題があります。それは、神さまはその義においても無限、永遠、不変の方であられるということです。このことは、神さまの聖さを考えるときに決して見失ってはならないことです。私たちは、神さまがご自身の造られたこの世界のすべてのものを、ご自身の無限、永遠、不変の愛といつくしみと真実によって支えてくださっているということはよく分かります。それが、神さまの無限、永遠、不変の義となるとどうでしょうか。何となく、神さまの無限、永遠、不変の義は、私たちにとって、とても怖く危ないものであるかのように受け止めてしまわないでしょうか。愛やいつくしみは暖かいけれど、義は冷徹なものであるというような感じ方をしないでしょうか。
 確かに、先ほど引用しましたイザヤ書6章1節〜5節に記されていますように、神さまの聖さとその栄光の啓示に接したイザヤは、自分の全身を貫く恐ろしさのうちに、たちどころの滅びを実感して、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫びました。これはまさに、神さまの無限、永遠、不変の義に基づく聖さの啓示に触れたことによるものです。
 イザヤ書6章では、これに続く6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。それで、神さまの無限、永遠、不変の義に基づく聖さは、人を滅ぼす恐ろしいものであるけれども、それが、神さまの無限、永遠、不変の愛といつくしみによる贖いによって取り除かれるのだというような思いがしないでしょうか。
 けれども、このような見方は、神さまの無限、永遠、不変の義に対する誤解から生れています。神のかたちに造られている人間が神さまの無限、永遠、不変の義に基づく聖さと栄光を滅びにつながるものとして恐れるようになったのは、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってからのことです。決して、初めからそうであったのではありません。さらに、神さまの無限、永遠、不変の義は、人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、ようやく意味をもつようになったものではありません。天地創造の御業の初めから意味をもっていました。天地創造の御業そのものの完成を記している創世記1章31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と記されています。神さまが「お造りになったすべてのもの」は、「神さまの目から見ても」「非常によかった」のです。言うまでもなく、これはすべてのものがまったき調和の中に存在して、神さまの無限、永遠、不変の知恵と力をあかししている美しい世界、壮大な宇宙です。また、転じてこの地に目を注げば、この地はまったき調和のうちにあるだけでなく、神さまの無限、永遠、不変の愛といつくしみと真実さをあかしする、いのちを豊かに育む暖かくやさしい世界です。
 それとともに、この世界は、神さまの無限、永遠、不変の義をあかしする世界、神さまの無限、永遠、不変の義の栄光が満ちている世界でもあるのです。そうであるからこそ、この世界では、本来、悪や暗やみの力が働いて、神さまがお造りになったものを損なうことが許されないのです。
 ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されていますように、「被造物が虚無に服した」のは、神のかたちに造られて、すべてのものを治める使命を委ねられている人間との一体においてです。それで、「被造物」は御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって神の子どもとしての身分を与えられた者たちとの一体において「栄光の自由の中に入れられます」。このように、この世界には初めから「虚無」があったのではありません。初めから、放置すればおのずから崩壊に向かう世界であったのではありません。
 神さまがお造りになったこの世界が神さまの無限、永遠、不変の義の栄光が満ちている世界であるので、この世界では、罪やその結果である腐敗や虚無が神さまがお造りになったものを損なうことは許されることはありません。この世界の本来の姿を回復してくださるメシヤのお働きを預言しているイザヤ書11章1節〜9節には、

  エッサイの根株から新芽が生え、
  その根から若枝が出て実を結ぶ。
  その上に、主の霊がとどまる。
  それは知恵と悟りの霊、
  はかりごとと能力の霊、
  主を知る知識と主を恐れる霊である。
  この方は主を恐れることを喜び、
  その目の見るところによってさばかず、
  その耳の聞くところによって判決を下さず、
  正義をもって寄るべのない者をさばき、
  公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
  口のむちで国を打ち、
  くちびるの息で悪者を殺す。
  正義はその腰の帯となり、
  真実はその胴の帯となる。
  狼は子羊とともに宿り、
  ひょうは子やぎとともに伏し、
  子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
  小さい子どもがこれを追っていく。
  雌牛と熊とは共に草を食べ、
  その子らは共に伏し、
  獅子も牛のようにわらを食う。
  乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
  乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
  わたしの聖なる山のどこにおいても、
  これらは害を加えず、そこなわない。
  主を知ることが、
  海をおおう水のように、地を満たすからである。

と記されています。
 後半の6節〜9節では、神さまの栄光のご臨在のあるところでは、何ものも害を加えず、したがって、何ものも害されることがなく、損なうこともない、したがって、何ものも損なわれることがないということが示されています。注目すべきことは、それに先立つ3節〜5節においては、メシヤの支配によって義が立てられるということが示されているということです。メシヤが義をもっておさばきになり、義を確立されるので、この世界においては、害を加えるものも、損なうものもいなくなるということです。
 このようなことから、神さまがお造りになったこの世界が「非常によかった」ことは、神さまの無限、永遠、不変の義の栄光がこの世界に満ちていることと関連していることが分かります。
 そして、この世界には神さまの無限、永遠、不変の義の栄光が満ちているので、人間の罪による堕落の後にも、罪や悪や虚無の存在が許容されることはなく、すべてが清算されなければならないのです。神さまは、その無限、永遠、不変の愛といつくしみに満ちた栄光のご臨在の御許から、贖いの御業を約束してくださり、ご自身が無限、永遠、不変の愛といつくしみに満ちた栄光のご臨在であられる御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださいました。神さまは御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪をすべて清算してくださり、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって、すべてのものを「滅びの束縛から解放」して新しくし、私たちには新しいいのち、神さまとの愛にある交わりに生きるいのちを与えてくださいました。コロサイ人への手紙1章18節〜20節に、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されているとおりです。
 このように、神さまが存在において、また、義も含めて、知恵と力、愛と真実などの属性の一つ一つにおいても無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということと、そのゆえに、神さまの栄光は無限、永遠、不変であるということが、神さまによって造られたこの世界と、その中の一つ一つのものの存在の根拠であり、支えであり、存在の意味を生み出しています。
 神さまは、

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方として、その無限、永遠、不変の愛といつくしみと義と真実さによって、この世界のすべてのものを存在させてくださり、支えてくださっています。このようなことは御言葉のあかしと、それを受け入れる信仰の眼によってしか見ることはできませんが、このことにおいてこそ、神さまの「御名」の聖さが示されています。
 私たちはこのような神さまの「御名」の聖さを御言葉のあかしに基づいて受け止めますので、主の祈りの第一の祈りにおいて、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ります。ですから、私たちがこのように祈るのは、神さまに、まだなさっておられないことをなさってくださいと願うことではありません。私たちは、神さまが

  わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」の方として、その無限、永遠、不変の愛といつくしみと義と真実さによって、私たちを含めて、この世界のすべてのものを存在させてくださり、支えてくださっておられることを認めています。それで、そのことに思いを寄せ、神さまに信頼して、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈ります。神さまがご自身の「御名」の聖さをますます豊かに示してくださるように祈るのです。

 


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