(第54回)


説教日:2006年3月26日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日は日本長老教会の姉妹教会でご奉仕させていただきましたので一週空きましたが、今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りの最初の祈りは、

  御名があがめられますように。

という祈りです。すでにお話ししましたように、この、

  御名があがめられますように。

という祈りは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の「御名」を「聖なるもの」としてくださいますようにと祈るものです。


 繰り返しお話ししてきましたように、聖書の中では、「あるもの」の名は、その「あるもの」がどのようなものであるかを示すものです。具体的には、その本質的な特性や位置や役割などがどのようなものであるかを表します。このことは神さまの「御名」にも当てはまります。神さまの「御名」は、神さまがどのようなお方であるかを表すもので、神さまご自身の本質的な特性や、神さまのお働きの本質的な特性などを表します。
 けれども、神さまの「御名」は、人間がつけたものではありません。人間が神さまがどのようなお方であるかを考えて、その考えに沿って神さまに名をつけたのではないのです。この点は偶像と違います。偶像は、人間が自分たちのイメージしたがって作るものです。それで、人間がその自分たちのイメージに沿った名を偶像につけます。しかし、神さまの「御名」は、人間がつけたものではなく、神さまが私たちに啓示してくださったものです。その神さまの「御名」が、神さまがどのようなお方であるかを表しています。ですから、神さまの「御名」は、神さまがご自身を私たちに啓示してくださったものであり、神さまの自己啓示としての意味をもっています。
 神さまが啓示してくださった「御名」にはいろいろありますが、固有名詞としての神さまの「御名」は「ヤハウェ」です。この「ヤハウェ」という「御名」については、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、復習の意味も込めて、それをまとめておきたいと思います。
 この「ヤハウェ」という「御名」が啓示されたことを記している 出エジプト記3章13節〜15節には、

 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」

と記されています。
 14節に記されています、

今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。

というモーセの問いかけに対して、神さまは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。(エヒイェー・アシェル・エヒイェー)

とお答えになりました。この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの言葉全体が、神さまの「御名」を表しています。神さまは続いて、これを、

わたしはある。(エヒイェー)

というように短縮しておられます。
 そして、これを受けて続く15節に、

 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」

と記されています。ここで新改訳が、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主

と訳しているときの「」が「ヤハウェ」です。聖書の中にはもう一つ「しもべ」に対する「主人」を意味する「主」(アドナイ)という「御名」もありますが、この場合は「ヤハウェ」です。新改訳では太字で「」と表されています。
 この「ヤハウェ」という「御名」は、

わたしはある。

という「御名」が3人称化されたものであると考えられます。これは、モーセがエジプトの地にいるイスラエルの民に語りかけるときに用いるようにと示された神さまの「御名」です。モーセがイスラエルの民に語りかける場合には、「わたし」という1人称はモーセで、「あなた方」という2人称はイスラエルの民です。そして、神さまは3人称になります。それで、この「ヤハウェ」という「御名」は3人称化されているわけです。言うまでもなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という「御名」も人称の上では3人称です。
 私たちもこの3人称化されている「ヤハウェ」という「御名」を用います。

わたしはある。

という「御名」は、神さまがご自身のことを示してくださったときの呼び方です。しかし、私たちは、

わたしはある。

と言うわけにはまいりません。もし、私が、

わたしはある。

と言ったら、私が「自分は神である」と言っていることになってしまいます。それで、神さまが、

わたしはある。

と言われる「御名」を私たちの間で使うときには、3人称化された「ヤハウェ」を用いるのです。
 いずれにしましても、このようにして啓示された「ヤハウェ」という「御名」は、固有名詞としての神さまのお名前です。固有名詞としての名前というのは、私であれば「清水武夫」のことです。「武士」を思わせる勇ましい名がついているのですが、実際の私は気が小さくて憶病者ですから、私自身と名前の間には大変なずれがあります。けれども、神さまがご自身のことを啓示してくださっているこの「ヤハウェ」という「御名」は、少しのずれもなく神さまご自身がどのようなお方であるかを示しています。
 この、「ヤハウェ」という「御名」のもととなっている、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」は、神さまが存在されることを強調するものです。神さまが「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないで、ご自身で在る方」すなわち「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることなどを表していると考えられます。神さまおひとりがこのように存在される方です。神さま以外のすべてのものは、神さまによって造られたものとして、神さまに支えていただいて存在しています。その意味において、神さまこそが真の意味において存在される方であり、この世界のすべてのものはその存在を全面的に神さまに負っています。それで、その「御名」が、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

と呼ばれる方である神さまと、この世界のすべてのものとの間には絶対的な区別があります。
 このような神さまと神さまによって造られたすべてのものの間にある絶対的な区別が、神さまの聖さの本質です。神さまお一人が真に存在される方であり、この世界のすべてのものはその存在を神さまに負っているということを認め、神さまに感謝し、神さまに信頼し、神さまを讚えることによって、神さまの「御名」が聖なるものであることがあかしされます。
 これは神さまの創造と摂理の御業におけることですが、神さまの贖いの御業にも関わっています。この「ヤハウェ」という神さまの「御名」の啓示は、モーセが、

今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。

と尋ねたときに、神さまが示してくださったものです。ですから、この神さまの「御名」は神さまがモーセをエジプトの地で奴隷となっているイスラエルの民を、その奴隷の身分から解放してくださるために遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。
 これには、伏線があります。出エジプト記2章23節〜25節には、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されています。そして、これに続いて、3章においてモーセが神さまによって召されてエジプトの地に遣わされたことが記されています。つまり、モーセがエジプトの地に遣わされたのは、神さまが「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」ことに基づいているのです。
 神さまがご自身をモーセに現してくださったことを記している3章1節〜6節には、

モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

と記されています。
 ここに記されていますように、神さまは、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言ってご自身をモーセに示してくださいました。その上で、続く7節〜10節に記されていますように、モーセをエジプトの地に遣わしてくださいました。そして、このことをめぐるやり取りの中で、神さまは先ほどのモーセの問いかけにお答えになる形で、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という、ご自身の「御名」を啓示してくださったのです。
 これらのことから分かりますように、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」は、神さまが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられることと深く関わっています。そして、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神さまの「御名」は、先ほど引用しました2章24節で、神さまが

アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と言われていることに示されていますように、神さまがアブラハムにお与えになって、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約と切り離しがたく結びついています。
 これと一致して、先ほどお話ししましたように、14節において、

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

と記されていることを受けて、続く15節においては、

 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」

と記されているわけです。
 先ほどお話ししましたように、この、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主

という神さまの「御名」の「」は「ヤハウェ」です。原文のヘブル語では「ヤハウェ」が先に出てきて、それに、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

が続いています。つまり、「ヤハウェ」が、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

として説明されているのです。このことは、「ヤハウェ」という「御名」が、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約と深く結びついていることを意味しています。
 そして、最初に示された、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神の「御名」が短縮されて、

わたしはある。

という「御名」として示され、さらに、それが3人称化されて「ヤハウェ」として示されていると考えられます。それで、神さまが「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないで、ご自身で在る方」すなわち「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることなどを表している

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの「御名」は、また、神さまが歴史を通して変わることなく、常に、ご自身の契約に対して真実であられる方であることを示していると考えられます。言うまでもなく、神さまは、ご自身が「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないで、ご自身で在る方」すなわち「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられるので、常に、ご自身の契約に対して真実であられるのです。
 これも、いろいろな機会にお話ししたことですが、ルカの福音書20章37節、38節には、

それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは、まず、

死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。

と教えておられます。
 アブラハムは紀元前2000年〜1850年頃の人です。そして、イサクは1900年〜1750年頃の人で、ヤコブは1800年〜1700年頃の人です。出エジプトの年代については見方が分かれていますが、御言葉に記されているさまざまな年代から算出しますと1447年頃となります。(もう一つの見方は、1280年頃というものです。)いずれにしましても、モーセの時代にはアブラハムもイサクもヤコブも過去の人でした。しかし、そのモーセの時代に、神さまは、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として示されました。かつて「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であったということではなく、モーセの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるということです。そして、同じ論理で、神さまは、イエス・キリストの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるというのです。それで、今この私たちの時代においても、神さまは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。
 このことをお示しになった後、イエス・キリストは、

神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

と言われました。
 これによって、神さまが今この時も「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるのであれば、アブラハムもイサクもヤコブも、今この時、神さまに対して生きているということが示されています。もちろん、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあって生きているのです。
 このような意味をもっている「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神さまの「御名」は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブにご自身の契約をお与えになったこととかかわっています。神さまは、ご自身の契約に対して真実であられ、イサクの時代には、アブラハムへの契約のゆえにイサクの神となられました。もちろん、アブラハムの神であることをお辞めになったわけではありませんから、「アブラハムの神、イサクの神」となられたわけです。それは、さらに、ヤコブの時代にも受け継がれました。そのようにして、神さまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」となられました。
 これらのことから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神さまの「御名」は、神さまが歴史を通して常に、ご自身の契約に対して真実であられるということを示していることが分かります。そして、これらのことから、神さまの契約に対する真実は、ご自身の民が地上にある時に、その人に対して真実であられるというだけではなく、その人がこの世を去った後も、その人に対して真実であり続けてくださり、その人の神であり続けてくださるものでことが分かります。
 古い契約の時代には、神さまは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「御名」また、

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主

という「御名」の啓示とともにモーセを召してくださいました。そして、エジプトの地において奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出してくださることによって、その「御名」を「聖なるもの」としてくださいました。これは、古い契約の下での「ひな型」としての意味をもっていました。このことは、最終的には、御子イエス・キリストにおいて成就しています。ヨハネの福音書11章25節、26節に、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

記されていますように、イエス・キリストは、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

というご自身の「御名」を示してくださいました。そして、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 このように、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださったことにおいてこそ、神さまの「御名」が「聖なるもの」とされています。そして、私たちが、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの恵みにあずかって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにおいて、神さまの「御名」が「聖なるもの」としてあかしされていきます。

 


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