(第53回)


説教日:2006年3月12日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りの最初の祈りである、

  御名があがめられますように。

という祈りについてお話しします。すでにお話ししましたように、この、

  御名があがめられますように。

という祈りは、文字通りに訳しますと、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。そして、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまがご自身の「御名」を「聖なるものとされますように」と祈るものです。
 先週は、聖書において「名」と「名をつけること」がどのような意味をもっているかについてお話ししました。聖書の中では、「あるもの」の名は、その「あるもの」がどのようなものであるかを示すものです。具体的には、その本質的な特性や位置や役割などを表します。このことは神さまにも当てはまります。神さまの「御名」は、神さまがどのようなお方であるかを表すもので、神さまご自身の本質的な特性や、神さまのお働きの本質的な特性などを表します。
 さらに、聖書においては、「あるもの」に名をつけることは、その「あるもの」に対して権威を発揮することです。創世記1章1節〜2節3節には神さまの天地創造の御業のことが記されています。その中に神さまがご自身のお造りになったものに名をつけられたことが記されています。そして、それはすべて最初の3日間の御業に集中しています。第1日の御業を記しています5節には、

神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

と記されています。また、第2日の御業を記している8節には、

神は、その大空を天と名づけられた。

と記されています。そして、第3日の御業を記している10節には、

神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。

と記されています。
 これは、神さまがこれらのものそれぞれに固有の位置と役割を与えてくださったことを示しています。そして、それぞれのもの対して主権を発揮しておられることを示しています。もちろん、神さまはおよそ存在するすべてのものをお造りになった方であり、そのすべてを今日に至るまで真実に支えてくださっておられる方ですから、すべてのものに対する主権者であられますし、実際に、その主権を行使しておられます。そのような天地の主であられる神さまが、ここでは、「光を昼と名づけ」「やみを夜と名づけられ」、「大空を天と名づけられ」、「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた」のです。「」と「」はこの歴史的な世界に存在するもの、特にいのちあるもの営みの基本的なリズムを生み出しているものです。「」と「」と「」はいのちあるものたちが存在し、活動する基本的な環境となっているものです。神さまは、このような、いのちあるものたち、特に神のかたちに造られている人間にとって、時間的にも空間的にも、基本的な環境となっているものに、それぞれの位置と役割をお与えになり、それに対して特別な主権を主張しておられます。これによって、神さまは、ご自身がこれらのいのちあるものにとっての基本的な環境に特別な意味において関わってくださり、それを真実に保ってくださるのです。
 このようにして、この世界において最初に何かに名をつけたのは造り主である神さまご自身です。先週お話ししましたように、神のかたちに造られて、この世界のすべてのものを造り主である神さまのみこころにしたがって治める使命を委ねられている人間も、自分たちに委ねられているものに名をつけています。人は、それぞれのものを観察して、その本質的な特性を見極めたうえで名をつけています。これは神さまが、ご自身がお造りになったものに名をつけられたことにならうことですが、そこには違いもあります。神さまはそれぞれのものに固有の特性や位置や役割をお与えになった方です。そのような方として、それぞれにふさわしい名をおつけになります。これに対して、人間は神さまがそれぞれのものにお与えになった本質的な特性や位置や役割をしっかりと観察してくみ取って、それにふさわしい名をつけています。


 先週は、このこととの関わりで、人が自分たちのイメージにしたがって偶像を作り、これに名をつけているという現実についてお話ししました。
 造り主である神さまは、人をご自身に向き、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして神のかたちにお造りになりました。神のかたちに造られている人の心のうちには、神さまに向かうという本質的な特性があります。人のうちには神さまへのわきまえがあり、人は教えられなくても神さまに向き、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして造られているのです。そのように人を根底から動かしているものが「神の観念」とか「宗教の種子」と呼ばれる「神への思い」です。
 この「神への思い」は人が人であるかぎり決してなくなることがない(形而上的・心理的な)ものです。ですから、これは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落したことによっても人の中からなくなってしまうことはありません。人が造り主である神さまに対して御前に堕落してしまったことによって、この「神への思い」がなくなったのではなく、腐敗してしまったのです。その結果、人は造り主である神さまを神としてあがめることも、愛することも信頼することもなくなってしまいました。けれども、腐敗した「神への思い」を満たすために、自分のイメージに合う偶像を作り出し、それらに、やはり自分のイメージにしたがって名をつけて、それらを「神」として拝み、「神」としてすがるようになってしまったのです。
 この場合、人が木や石や金属で何かの像を作ったとしましても、それだけでは偶像にはなりません。小学生でも、工作の時間に動物の像を作ったりします。たとえ偶像の像を作ったとしても、それが見たり聞いたり話したりすることはありません。その意味では、それ自体は、木の切れ端や石や金属の塊と同じです。これらに、人が名をつけて一定の位置や役割を与えることによって、偶像としての意味をもつようになります。そして、それが歴史の経過の中で固定化していきますと文化的な意味をもつようになり、それらの偶像もその社会の中で「神」としての意味や役割を果たすようになっていきます。人類の歴史の中で、このようなことが繰り返し起りました。しかし、その奥にある事実は、人間が自分たちのイメージにしたがって偶像を作り出し、それに自分たちのイメージにしたがって名をつけ、位置や役割を与えているということです。そして、そのさらに奥には、神のかたちに造られている人間の心の奥底に「神への思い」が植え付けられているということです。そして、この「神への思い」は、本来は、造り主である神さまに向くものとして与えられているのに、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、腐敗してしまっているということです。
 このように、人は偶像にさえも名をつけて、それに社会的な位置と役割を与えています。逆に言いますと、偶像はすべて人が自らのイメージによって造り出したものであり、人が名をつけたものです。これに対して、神さまの「御名」は人がつけた名ではありません。それは人が自分たちのイメージにしたがって考え出した名前ではありません。また、人が神さまの本質的な特性を洞察して、その洞察にしたがって神さまに名をつけているのでもありません。神さまの「御名」は、神さまが私たちに示してくださったものです。そして、神さまの「御名」は、神さまがどのような方であるかを示しています。その意味で、神さまの「御名」は神さまの自己啓示としての意味をもっています。
 人は自分たちが作り出す偶像に対して名をつけ、社会的な位置や役割を与えます。それは、人間の都合に応じて変えることもできますし、その役割を追加したり減らしたりすることもできます。偶像を中心として成り立っている社会は、一見するとその偶像が社会を支えているように見えます。けれども、その社会の衰退とともに偶像も消滅してしまいます。そのようなことが歴史の中で繰り返されてきました。これらのことは、名をつけることにおいて、人間が偶像に対して権威を発揮し、権威を与えているということを意味しています。
 造り主である神さまの場合は、これとはまったく違います。聖書の中では、人間が神さまに名をつけるということはありません。神さまの「御名」は、神さまが啓示してくださったものです。人は神さまが啓示してくださった神さまの「御名」を知ることができるだけであって、人が神さまに名をつけることはできないのです。神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを治める使命を委ねられている人間は、この世界のすべてのものに名をつけることができます。また、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、偶像の神々にさえも名をつけています。けれども、人はどのようなときにも、神さまに名をつけることはできません。この点に、神さまの「御名」が聖なるものであることの端的な表れがあります。私たちが、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るとき、この「御名」は私たち人間がつけた名ではなく、神さまが啓示してくださった「御名」であるのです。
 これに対して、おそらく、次のような疑問が出されることでしょう。たとえば、聖書の中で「全能者」と訳されている、シャダイという神さまの「御名」は、広く古代オリエントの文化の中で知られていた神の名である、ということをどう考えるかということです。
 このシャダイという神さまの「御名」が最初に出てくるのは、創世記17章1節です。1節、2節には、

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

と記されています。また、出エジプト記6章2節〜4節には、

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。」

と記されています。
 これらの個所に出てくる「全能の神」という「御名」は、「」を表すエルと、先ほどのシャダイの組み合わせによるエル・シャダイです。シャダイは旧約聖書において48回ほど出てきますが、そのうち31回はヨブ記に出てきます。ヨブも、ヨブを尋ねて来た三人の友人たちもイスラエルの人々ではありません。ヨブも三人の友人たちも、それぞれ別の地域に住んでいました。このシャダイは彼らの間で知られていた神の名であったわけです。
 このシャダイという名の由来についてはさまざまなことが論じられていますが、決定的なことは分かりません。「全能者」という訳は旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳にしたがっているものです。いずれにしましても、このシャダイという「御名」は神さまの威厳と御力を示しています。その意味で、「全能者」という訳は適訳であると言うことができます。
 今引用しました創世記17章1節と出エジプト記6章2節〜4節から分かりますように、このエル・シャダイという「御名」は、神さまが啓示してくださったものです。しかしそれは、神さまがそれまでになかった言葉を初めてお用いになって、啓示してくださったという意味ではなく、すでに、神の名として知られていたシャダイを用いて、ご自身をアブラハムに啓示してくださったという意味です。これは、ある意味では自然なことです。というのは、神さまの啓示はそれを受け止める人に分かるように示されるものですから、この場合であれば、アブラハムがまったく理解できない言葉を用いるわけにはいきません。それで、神さまはご自身が全能の御力に満ちておられる方であることをお示しになるのに、このシャダイという名をお用いになったのだと考えられます。しかし、神さまがシャダイという広く知られている名を用いられたからといって、その名に関わる当時の人々の考え方をすべてそれに取り入れておられるわけではありません。
 創世記17章には、神さまがアブラハムと契約を結ばれたことが記されています。それで、このエル・シャダイという「御名」は、神さまがアブラハムに契約を与えてくださるに当たって、ご自身がどのような方であるかを示してくださったものです。創世記の記事では、その後、エル・シャダイという「御名」は、主がヤコブにご自身を現してくださったことと関連して出てきます。そして、それは、このアブラハムに与えられた契約に基づく祝福が、その子であるイサクを通し、ヤコブに受け継がれていることを踏まえて用いられています。たとえば、創世記35章9節〜12節には、

こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。
 「あなたの名はヤコブであるが、
 あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。
 あなたの名はイスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 生めよ。ふえよ。
 一つの国民、諸国の民のつどいが、
 あなたから出て、
 王たちがあなたの腰から出る。
 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、
 あなたに与え、
 あなたの後の子孫にも
 その地を与えよう。」

と記されています。
 このように、神さまはすでに広く知られているシャダイという名を、ご自身の「御名」として示してくださっていますが、それをご自身の契約と契約の祝福との関わりでお用いになっておられます。その点で、シャダイという名が神の威厳と力を示すということを生かしておられるのです。どういうことかと言いますと、神さまは一方的な恵みによってアブラハムを祝福してくださり、彼と契約を結んでくださいました。そして、その契約と契約の祝福をアブラハムの子であるイサク、さらにその子であるヤコブに受け継がせてくださいました。その祝福は、アブラハムとその子孫によって地上のすべての民族が祝福を受けるようになるという、地上のすべての民族の祝福に関わるものでした。12章1節〜3節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されており、22章17節、18節には、

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されています。
 けれども、このような地上のすべての民族を包み込むという途方もない広がりをもつ契約の祝福を受けているアブラハム、イサク、ヤコブ自身はどういう存在だったのでしょうか。彼らはまだ家畜とともに移動を続ける一部族でしかありませんでした。飢饉が襲ってくればひとたまりもなく、周辺の国に身を寄せるしかない状態にありました。ですから、人間の尺度をもってその当時の歴史の舞台全体を見渡す目にはまったく留まらない存在でしかなかったのです。それは、また、アブラハム、イサク、ヤコブたち自身が自分たちの存在について抱いていたイメージであったことでしょう。アブラハムもイサクも、飢饉の時に他国に身を寄せたときに、殺されることを恐れて妻を妹であると言ったくらいです。
 そのような状態にあったアブラハム、イサク、ヤコブに対して、神さまはエル・シャダイという「御名」をもってご自身を示してくださいました。それは、神さまの威厳と御力を際立たせる「御名」であり、まさに、「全能者」、「全能の神」というにふさわしい「御名」であるのです。神である主の契約の約束はアブラハム、イサク、ヤコブの人間としての資質によっているのではなく、もっぱら、神さまがどのようなお方であるかによっているということです。その当時、シャダイと呼ばれる偶像の神がいくつもあったとしても、真の意味でシャダイと呼ぶことができる方は、天と地をお造りになった神さまお一人です。そのまことのエル・シャダイがアブラハムと契約を結んでくださり、それを、その子イサク、さらにヤコブへと受け継がせてくださったのです。
 そして、先ほど引用しました出エジプト記6章2節〜4節に、

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。」

と記されていることは、その契約と契約の祝福がさらに後のアブラハムの子孫に受け継がれていることを示しています。
 このように、神である主が、すでに人々の間で神の名として知られているシャダイを用いてご自身をアブラハム、イサク、ヤコブに示してくださったことは確かですが、それは決して、アブラハム、イサク、ヤコブが神さまにその名をつけたということではありません。やはり、神さまがその「御名」を啓示してくださったのです。
 この場合、主の祈りの最初の、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りに示されている、神さまの「御名」が聖なるものとされるということはどのようなことでしょうか。それは、このエル・シャダイという「御名」においてご自身を現してくださった神さまが、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約とその祝福の約束を、まさにエル・シャダイという「御名」にふさわしく、ご自身の全能の御力のお働きによって実現してくださることにあります。言い換えますと、地上のすべての民族がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになるという約束が歴史の中で実現することにあります。
 それは、最終的には、まことのアブラハムの子孫として来てくださり、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださり、ご自身の民を復活のいのちで生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストにおいて実現しています。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。

 


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