(第52回)


説教日:2006年3月5日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りのお話を続けます。今はその第一の、

  御名があがめられますように。

という祈りについてお話ししています。これまでお話ししてきましたことの復習になりますが、新改訳の、

  御名があがめられますように。

という祈りは意訳によるもので、文字通りには、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、人間や御使いたちが父なる神さまの「御名」を聖なるものとするようにと祈っているように見えます。突き詰めていきますと、そのことはこの祈りに含まれることになるのですが、この祈りは。基本的には、父なる神さまがご自身の「御名」を聖なるものとされるようにと祈るものであると考えられます。
 また、この祈りは、父なる神さまの「御名」が「聖なるものとされますように」と祈るものです。父なる神さまがご自身の「御名」を聖なるものとしてくださいと祈るわけです。これは、父なる神さまに向かって、

  あなたが聖なるものとされますように。

と祈るのとは少し意味合いが違います。これには、神さまの「御名」が何であるかということが関わっています。
 聖書の中では、「あるもの」の「名」は、その「あるもの」を表示するだけでなく、その「あるもの」をどのようなものであるかを表しています。日本語にも「名は体を表す。」という言葉がありますが、聖書の中では、それが文字通りのこととなっているのです。
 人間が植物学や生物学でいろいろな植物や生き物を分類するときには、名をつけて分類していきます。その際に、それぞれの植物なり動物なりをしっかりと観察して、その本質的な特性にしたがって分類して名をつけていきます。それぞれの個体による違いを越えて「あるもの」を「あるもの」たらしめている本質的な特質にまで迫って、その「あるもの」を理解するわけです。そのようにしてつけられた名は、それぞれの植物や生き物を表示しているだけでなく、それぞれの特性の一面を表しています。
 聖書の中には、神さまの「御名」がいくつも出てきますが、それぞれの「御名」が、神さまご自身の本質的な特性のある面か、神さまのお働きの本質的な特性のある面を表しています。人間の社会においては、夫と妻、親と子、社長、部長、課長、係長、社員、王と家臣、主人としもべなど、それぞれの社会的な立場や役割に名がつけられています。逆に言いますと、その名はその人の社会的な立場や役割を表しています。それと同じように、神さまの「御名」にも神さまのさまざまなお働きの特性を表すものがあります。もちろん、後ほどお話ししますように、神さまの「御名」には固有名詞もありますが、神さまのさまざまなお働きの特性を表すものもあるのです。このような神さまの「御名」は、神さまが私たちにご自身を啓示してくださったこと、すなわち、神さまの自己啓示としての意味をもっています。
 たとえば、詩篇24篇10節には、

  その栄光の王とはだれか。
  万軍の主。これぞ、栄光の王。

と記されています。ここには「栄光の王」と「万軍の主」という神さまの「御名」が出てきます。そして「万軍の主」こそが「栄光の王」であられることが示されています。この「万軍の主」の「」は契約の神である主、ヤハウェのことです。この「ヤハウェ」が固有名詞としての神さまの「御名」です。そして、「万軍」は基本的には軍隊のことを表しています。この場合の「万軍」は「」の「万軍」のことですが、これには、御使いの群れや天体も含まれています。新改訳では天体のことが「万象」と訳されていますが、これは「万軍」と訳されている言葉(ツェバーオート)の単数形(ツァーバー)です。
 この「万軍の主」こそが「栄光の王」であられるということは、1節、2節に、

  地とそれに満ちているもの、
  世界とその中に住むものは主のものである。
  まことに主は、海に地の基を据え、
  また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。

と記されていることを受けています。つまり、主、ヤハウェは天地創造の御業を遂行され、お造りになったすべてのものを治めておられる主であり、王であられるということです。「万軍の主」というように軍事的な用語が用いられているのは、主に逆らって立つ暗やみの主権のさまざまな働きがある中で、主が霊的な戦いにおいて勝利を得られ、ご自身が創造の御業において始められたことを、贖いの御業をとおして必ず完成に至らせてくださることを示しています。そして、この「万軍の主」という「御名」は、霊的な戦いの状況にあって、さまざまな試練を経験している私たち、特に迫害の中にある主の民にとって大きな意味をもっています。


 私たちが神さまのことを知ることができるのは、神さまが私たちにご自身を啓示してくださっているからです。逆に言いますと、私たちは、神さまのことで、神さまが啓示してくださっていないことについては知ることができないということです。神さまはご自身のことを被造物としての限界のうちにある私たちに合わせて、私たちに分かるように、そして、私たちに分かることだけを啓示してくださっています。ですから、私たちは神さまがご自身を啓示してくださっている限りにおいて、神さまを知ることができるだけです。けれども、神さまはご自身について、私たちにとって十分なことを啓示してくださっています。それで、私たちは確かに神さまを知ることができますし、実際に、神さまを知っています。1、2歳の子どもは父親の社会的な立場のことをほとんど知らなくても、父親を「お父さん」として知っています。私たちも神さまのことをすべて知っているわけではありませんが、確かに、神さまを知っているのです。神さまの「御名」は、このような、神さまの自己啓示としての意味をもっています。
 ですから、私たちが神さまに向かって、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るときには、いくつかのことを踏まえています。第一に、造り主である神さまと神さまに造られた私たちの間には絶対的な区別があるということ、すなわち、神さまの聖さです。これは、「聖なるものとされますように」ということに関わっています。第二に、神さまが私たちに、ご自身がどのような方であるかを啓示してくださっているので、私たちは神さまを知っているということです。これは、神さまの「御名」に関わっています。第三に、被造物としての限界のうちにある私たちは神さまのすべてを分かっているわけではないということです。これも、神さまの「御名」に関わっています。
 これらのことを踏まえたうえで、私たちは、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りにおいて、私たちにご自身を啓示してくださった神さまが、私たちの間でふさわしく受け止められ、ふさわしい礼拝と讃美と感謝がささげられること、それによって神さまのご栄光が現され、恵みがあかしされることを祈り求めるのです。そして、神さまご自身が、御霊によって、そのすべてを支えてくださり、導いてくださることを祈り求めるのです。
 この祈りについての最初のお話において言いましたように、神さまがご自身の「御名」を聖なるものとされることは、「御名」を汚すものたちをおさばきになることによってもなされます。しかし、私たちは、何よりもまず私たち自身が神さまの「御名」をふさわしく受け止め、それにふさわしい礼拝と讃美と感謝をささげることによって、神さまの栄光を現すことができるように、そして、そのことのために、神さまが恵みによって力を与えてくださり、導いてくださるようにと祈るのです。
 このような、聖書に示されている「名」の意味と関わっていることとして、「名をつけること」の意味を考えてみたいと思います。
 天地創造の御業において神さまが「ふさわしい助け手」としての女性をお造りになったときの経緯を記している記事の一部である創世記2章18節、19節には、

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

と記されています。
 ここには、最初の人が、神さまがお造りになった生き物たちに名をつけたことが記されています。それは、犬に「ぽち」という呼び名をつけるということとは違って、先ほどの生物学的な分類に当たるようなことです。人はそれぞれの生き物をしっかりと観察して、その本質的な特性を知り、それぞれの本質的な特性を表す名をつけたということです。
 さらに、名をつけることにはもう一つの意味があります。それは、名をつける者は、名をつけられるものに対して権威を持っていることを意味しているということです。古代オリエントの文化圏では、ある国の王が他の国を征服したり、降伏させたりした場合に、その属国となった国の王の名を変えるということがありました。それは、征服者である王が属国の王の上に権威を持っていることを表すことでした。
 イザヤ書40章26節には、

  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

と記されています。ここに出てくる「万象」が、先ほどお話ししました「万軍」の単数形です。
 ここに記されていることは、今日の言葉で言いますと、神さまがこの宇宙のすべてのものをお造りになっただけでなく、その一つ一つに対して名をつけ、権威を発揮しておられることを示しています。このことを言い換えますと、神さまがこの宇宙の一つ一つのものを真実な御手をもって支えてくださり、導いてくださっているということです。一つ一つのものにその位置や役割を与えてくださっているということです。神さまはすべてのものを、そのような形で治めてくださっているのです。
 先ほど引用しました創世記2章18節、19節には、人が、神さまがお造りになった生き物たちに名をつけたということが記されていました。これも、神のかたちに造られた人が、それらの生き物たちに対して権威を発揮していることを意味しています。それは、1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることを受けています。神のかたちに造られた人は、生き物たちに名をつけることにおいて、造り主である神さまから委ねられた権威を発揮しているわけです。
 ただし、その権威は本来の意味における権威であって、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、自己中心的に歪んでしまった権威とは違います。その本来の意味における権威は、造り主である神さまから委ねられた権威として、造り主である神さまのみこころに従うものであり、愛を本質的な特性とする神のかたちとしての権威です。それで、造り主である神さまのみこころにしたがって、自分に委ねられた生き物たちを愛し、その生き物たちに心を注いで、そのお世話をすることに、与えられている能力を傾けるという形で表される権威です。先ほど引用しました2章20節で、

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

と言われていることは、人が、そのように、それぞれの生き物たちに自分の愛を注いで、生き物たちとの関係を確立したけれども、真に、その愛に応答してくる存在はいなかったということです。生き物たちがなつかなかったということはありません。生き物たちとは親しい関係ができたのです。けれども、生き物たちは人格的な存在ではありませんから、人の愛に人格的な愛をもって応答する存在、その意味での「ふさわしい助け手」ではなかったのです。
 このように、「あるもの」の「名」は、その「あるもの」を表示しており、それの本質的な特性を表したり、その立場や役割などを表したりします。また、何かに名をつけることは、それに対して権威を発揮することを意味しています。
 実際、神さまはご自身がお造りになったものに名をつけ、すべてのものを支え、導く形で治めておられます。また、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられている人も、神さまのみこころにしたがってすべてのものを治めるために、委ねられたものに名をつけています。それは、神のかたちとしての権威を発揮することです。
 本来、「あるもの」に名をつけることは、造り主である神さまがその「あるもの」に、創造の御業をとおしてお与えになった本質的な特性を見出して、それに沿った名をつけることです。それによって、その「あるもの」をよりよく知り、それに心を注いで、それがその特性を発揮することができるように、仕えていくようになるのです。このことは、それだけで終らないで、その「あるもの」をお造りになった神さまの知恵と力といつくしみをほめたたえることに至ります。今ここにある一本の花の成り立ちをみても、土に根を張り水分を吸い上げ、栄養分を吸収すること、その葉は光合成によって成長に必要なものを造り出し、さらに、種を生んで増え広がっていきます。その仕組みや成り立ちの不思議さは、私たちの理解を越えています。そのような不思議な存在が当たり前のように存在しているこの世界です。先週お話ししたことに合わせて言いますと、神さまは、この小さな花の一本でご自身の「砦」を築いておられます。
 そのように、すべてのものに名をつけることは、それぞれの存在の本質的な特性を見て取って理解することであり、天地創造の初めから今日に至るまで続いている、人間の歴史と文化を造る働きの土台となっていることです。人は、自分たちの目の前にあるものの本質的な特性を知ったうえで、それを生かして、さまざまなものを作り出してきました。今も、多方面にわたって、そのような研究がなされています。このような土台をもっている人間の歴史と文化は、本来、造り主である神さまから委ねられた権威を神さまのみこころにしたがって発揮し、神さまの愛といつくしみをこの造られた世界に映し出すものとしての意味をもっています。このことは、人間の造る歴史と文化において、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光が現され、神さまの「御名」が聖なるものとされるようになることを意味しています。
 しかし、実際にはそのようになっていません。神のかたちに造られて神さまからそのような使命を委ねられている人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまってから、このような、すべてのものに名をつけるという権威の発揮から始まる歴史と文化を造ることが、自己中心的に歪んでしまいました。改めて説明するまでもありませんが、今日ではこのことの爪痕が地球規模で感じられるようになりました。多くの生き物が人間の都合で絶滅に追いやられ、地球全体に汚染が広がってきています。今では、北極圏の海さえも汚染されており、そこに生息するものを食べている人々の間に障害が生じているとさえ言われています。また、人間の社会でも、強者と弱者の区別があらゆる地域とあらゆる分野に行き渡るような状況が造り出されてきています。神さまから委ねられている歴史と文化を造り出す使命の本来の姿から逸れてしまっていることがますます鮮明になってきています。
 そのように、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているのですが、もともと造り主である神さまに向くものとして、神のかたちに造られていることには変わりがありません。本来は、神のかたちの本質的な特性である愛において働く自由な意志を与えられているものであることも変わりがありません。ただ、その本質的な特性である愛が罪によって自己中心的に腐敗してしまっているのです。先週お話ししましたように、神に向くものとして神のかたちに造られている人間のうちには造り主である神さまに対するわきまえが与えられています。このことは、人間が神のかたちに造られている以上、決して変えることができないこと(形而上的・心理的なこと)です。それで、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、神に向くという本質的な特性、「神への思い」をもっています。そして、その「神への思い」を満たすために、自分のイメージに合う偶像を作り出してしまっています。このことが、堕落後の人間の現実を記している、ローマ人への手紙1章21節〜23節には、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 このことを、今お話ししている、「名」と「名をつけること」との関わりで見てみますと、人間が自分たちのイメージに合うさまざまな偶像を作り出して、それに名をつけているという現実があります。この場合、名をつけるということは、これまでお話ししてきたような意味においてのことです。つまり、ただ呼び名をつけるというだけでなく、それに社会的な位置や役割を与えたりするということも含んでいます。人間がこのような意味で名をつけなければ、どこかに偶像があっても、それは材木や石や鉄のかたまりなどが転がっているのと同じことです。
 ここでは、名をつけることにおいて、人間が偶像に対して権威を発揮しています。しかし、その偶像は、神のかたちに造られている人間の本質的な特性としての「神への思い」を満たすために作り出されたものです。そのために、人間は自らが作った偶像に仕えてしまうようになります。ローマ人への手紙1章25節に、

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

と記されているとおりです。そこに錯覚があるのですが、それは自らの罪の暗やみが生み出すものですから、その罪がきよめられないかぎり、また、それによって生けるまことの神さまを知るようにならないかぎり、気づくことはできません。
 さらに、人間が偶像に仕える歴史が造り出されていきますと、それが固定化され一つの文化となっていきます。そこでは、人間はその偶像に仕えている形になっていますが、その奥にある事実は、人間が自分たちのイメージに合うように偶像を作り、それに名をつけ、社会的、文化的に位置と役割を与えたという事実があります。それで、偶像礼拝は、人間の自己神格化につながっています。それは、偶像をも利用して自分の欲望を満たそうとする人間の歴史をとおしてあらゆる時代に見られる現実でもあります。神の「名」によって人をのろい、神の「名」によって他国を侵略し、神の「名」によって殺戮をし、神の「名」によってそのようなことを励ましたり、正当化するというようなことが絶えることなく続けられてきました。そのすべては、自分たちの欲望の現れです。罪の自己中心性によって腐敗した自己主張の形です。その行き着く先は自己神格化です。
 繰り返しになりますが、神のかたちに造られている人間は、本来、造り主である神さまのみこころにしたがって、神さまの本質的な特性である愛といつくしみを映し出す歴史と文化を造り出すべきものです。その中心においては、造り主である神さまが神として礼拝され、あがめられ、讚えられるはずでした。それが、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人間の自己神格化を生み出すものに変質してしまいました。そして、その中に偶像も「名」を与えられ、意味をもっているものとして組み込まれてしまっているのです。それが、神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまに委ねられている権威によって名をつけるということを、自らの罪によって腐敗させてしまっていることの最も深刻な形での現れです。そして、人間が偶像を作ってこれに名を与えていくこと、そして、これに仕えていくことこそが、最も深く神さまの「御名」を汚すことであるのです。なぜなら、本来、「神」の名に値するのはただ造り主である神さまお一人であるからです。
 私たちが互いに愛し合うべきことを繰り返し教えているヨハネの手紙第一の結びの言葉を記している5章18節〜21節には、次のように記されています。

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

 


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