(第51回)


説教日:2006年2月26日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されています、主の祈りについてのお話を続けます。先週は、

  御名があがめられますように。

という、主の祈りの第一の祈りについてお話ししました。今日もこの第一の祈りについてお話しします。
 先週お話ししたことをいくつか復習しておきましょう。
 まず、新改訳で、

  御名があがめられますように。

と訳されている祈りは意訳です。ここで「あがめる」と訳されている言葉(ハギアゾー)は「聖める」とか「聖なるものとする」とか「聖なるものとして扱う」ということを表しています。また、「御名」には「あなたの」という言葉が付いています。それで、この祈りは、文字通りには、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

となります。
 また、「あがめる」ことは被造物がすることですから、

  御名があがめられますように。

という祈りでは、神さまの「御名」をあがめるのは御使いや人間を初めとする被造物であるということになります。けれども、この、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、これに続く、

  御国が来ますように。

という祈りや、

  みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りと同じように、基本的には、神さまがなしてくださることを祈り求めることであると考えられます。神さまがご自身の「御名」を聖なるものとしてくださることを祈り求めるものであるということです。
 ここで大切なことは、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

という祈りは、神さまご自身が「聖なるものとされますように」ということではなく、神さまの「御名」が「聖なるものとされますように」と祈るものであるということです。
 神さまの聖さは神さまが無限、永遠、不変の栄光の主としてあらゆる点において無限、永遠、不変の豊かに満ちておられる方であられ、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを意味しています。それで、神さまの聖さは神さまの本質にかかわることであり、そこには少しの変化もありません。それで、何ものかが神さまを聖くするというようなことはできません。ですから、私たちは神さまに向かって、このような意味で、神さまを聖くするとか、神さまの聖さを増し加えるというような意味で、

  あなたが聖なるものとされますように。

と祈ることはできません。もっとも、この場合の「聖なるものとする」ということを「聖なるものとして扱う」という意味で用いて、言い方はあまりよいものではありませんが、

  あなたが聖なるものとして扱われますように。

と祈ることは可能です。それは、私たち人間や御使いが神さまを聖なる方として理解して、聖なる方にふさわしく接することができるように祈るということです。これは、実質的には、

  あなたがあがめられますように。

と祈ることと同じことになります。
 主の祈りの最初の祈りは、これとは違って、

  あなたの御名が聖なるものとされますように。

と祈るものです。神さまの「御名」は、神さまがどのような方であるかを示すするもので、神さまが創造の御業と贖いの御業をとおして私たちに啓示してくださっているものです。
 先ほど言いましたように、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主として、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。これに対して、私たちは神さまによって造られたものであり、あらゆる点において限りがあるものです。それで、私たちは言葉の上で、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主として、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であると言いはしますが、私たち自身が無限、永遠、不変の存在ではありませんので、神さまが無限、永遠、不変の存在であられるということが実際にどのようなことであるかを知ることはできません。神さまの無限、永遠、不変は私たち人間の理解、考え、思い、想像力を無限に越えています。私たちが人類のすべての知恵を結集して神さまのことを考えても、神さまご自身はそれを無限に超えておられます。
 同時に神さまは生きておられる人格的な方です。ご自身のみこころの良しとされるところにしたがって、ご自身を私たちに知らせてくださることがおできになります。言うまでもなく、それは私たちに分かるかぎりのことを、私たちに分かる形で示してくださるということです。そして、神さまは、実際に、創造の御業と贖いの御業をとおして、ご自身がどのようなお方であるかを私たちに知らせてくださっています。それが神さまの啓示ですが、この神さまの啓示を離れて、人間の側から神さまはこのような方だと考えたり、思ったり、想像したりする道はないのです。私たちは、神さまがご自身を私たちに啓示してくださっているかぎりにおいて、神さまを知ることができます。


 これに対して、実際には、人間は自分の側から「神」のことを考え、「神」とはこのような存在だと言っているではないかという疑問が出されることでしょう。確かに、それは、人間が「神」のことを考えることです。しかし、これについては、そもそも人間が「神」のことを考えるのは、人間が神のかたちに造られているからであるということをわきまえておく必要があります。
 天地創造の御業において神のかたちに造られたときの人、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまう前の、本来の状態にあった人のうちには、造り主である神さまに対するわきまえが与えられていました。それで、人の心は造り主である神さまに向いていました。この、神のかたちに造られている人のうちに与えられている造り主である神さまに対するわきまえが、神さまが人に与えてくださったご自身の自己啓示です。ですから、その状態にあった人は、神さまが自分のうちに与えてくださった啓示の光に導かれて、自然と造り主である神さまに向き合い、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。
 神さまの啓示というと、何となく、私たちの外から与えられるものであるという気がするかもしれません。確かに、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが、造り主である神さまの栄光を表しており、啓示としての意味をもっています。詩篇19篇1節〜4節には、

  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。
  昼は昼へ、話を伝え、
  夜は夜へ、知識を示す。
  話もなく、ことばもなく、
  その声も聞かれない。
  しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
  そのことばは、地の果てまで届いた。

と記されていますし、ローマ人への手紙1章18節〜20節には、

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

と記されています。これらの御言葉に示されていますように、神さまの啓示は神さまがお造りになった世界をとおして与えられています。けれども、それだけでは神さまの啓示が受け取られることはありません。
 神のかたちに造られていない動物には造り主である神さまに対するわきまえがありません。それで、動物は神さまの啓示に満ちているこの世界に住んでいても、それによって造り主である神さまを知るようにはなりませんし、神さまを造り主として礼拝することもありません。神さまの啓示を受け止めるためには外側からの啓示に囲まれているだけではだめなのです。神のかたちに造られている人のうちに神さまご自身に対するわきまえが与えられていなければなりません。そして、この神さまに対するわきまえがまた神さまの啓示でもあるのです。ちなみに、この神さまに対するわきまは、神学者たちが「神の観念」とか「宗教の種子」というように呼んでいるものに当たります。
 ですから、神のかたちに造られている人間は、自分の外の世界から与えられる啓示と、自分自身のうちに与えられている啓示に囲まれています。これによって初めて神さまの啓示を受け止めて、神さまを知り、神さまを神として礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるのです。このことを、今お話している神さまの「御名」との関連で言いますと、神さまはご自身がお造りになったこの世界をとおしてご自身の御名を啓示してくださっているだけでなく、人を神のかたちにお造りになって、人のうちにご自身の「御名」を啓示してくださっているということです。これによって、人は、その本来の姿においては、神さまがお造りになったこの世界にあって、神さまが造り主であられ、自分は神さまによって造られたものであることをわきまえて、神さまを礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者であるのです。
 このようなことを踏まえて詩篇8篇を見てみましょう。そこには、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。
  あなたはご威光を天に置かれました。
  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。
  それは、あなたに敵対する者のため、
  敵と復讐する者とをしずめるためでした。
  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。
  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。
  すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
  空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。

と記されています。
 お気づきのように、この詩篇は、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。

という、主の「御名」を讚える讃美の言葉で始まり、その言葉で閉じられています。これによって、神さまの「御名」が神さまの創造の御業と歴史を導く摂理の御業をとおして豊かに啓示されていることがあかしされています。最初の、

  私たちの主、主よ。

という呼びかけは、文字通りには、

  主よ。私たちの主よ。

となっています。最初の「」はご自身の民のために贖いの御業を遂行なさる契約の神である主、ヤハウェです。次の「私たちの主」は別の言葉(アドーネーヌー)で表されていて、私たちを治めておられる方を表しています。ですから、

  主よ。私たちの主よ。

という呼びかけによって、契約の神である主、ヤハウェが、私たちのすべてを治めてくださっておられる方であることが示されています。
 2節では、

  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。
  それは、あなたに敵対する者のため、
  敵と復讐する者とをしずめるためでした。

と言われています。この、

  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。

と言われているときの「」と訳されている言葉(オーズ)は、その後に出てくる「敵対する者」や「敵と復讐する者」との関わりからしますと「砦」と訳したほうがいいのではないかと思います。契約の神である主はご自身に敵対する者たちのさまざまな攻撃に対して「幼子と乳飲み子たちの口」をご自身の「砦」として「打ち建てられ」たというのです。主に敵対する者たちによって生み出される、私たちの耳には本当に恐ろしいうなり声も、主の御前においては、「幼子と乳飲み子たちの口」から発せられる言葉にもならない声によって静められてしまうというのです。
 マタイの福音書21章15節、16節には、

ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

と記されています。ここでイエス・キリストが引用しておられる、

あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。

という言葉は、先ほどの詩篇8篇2節の、

  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。

という言葉の引用です。イエス・キリストが引用されたのは詩篇8篇2節のギリシャ語訳である七十人訳の方で、そこでは「」(「砦」)が「賛美」となっています。そして、「幼子と乳飲み子たちの口」から発せられる言葉は、そのまま、神さまご自身が人に備えてくださった「賛美」となっていることを示しています。
 これは、何となくこじつけのような気がするかもしれません。「乳飲み子たち」の言葉にならない声には何の意味もなく、「幼子たち」が「ダビデの子にホサナ。」と叫んでいたのは、大人たちのまねをしていただけかもしれません。けれども、これはより深い事実から出ていることです。すでにお話ししましたように、人間が神のかたちに造られていることのいちばん奥にあるのは、人間自身のうちに造り主である神さまへのわきまえが与えられており、人間の思いと言葉と行いのすべてのことが、この神さまへのわきまえを中心として働きます。それが、神のかたちに造られている人間、造り主である神さまに向けて造られている人間の本来のあり方です。人は初めからそのように造られており、そのようなものとして生れてきます。このようなことを踏まえますと、「幼子と乳飲み子たちの口」から出てくる言葉さえも、すでに、造り主である神さまに向けられた言葉であるという特性をもっていることが分かります。そして、そのことが、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。

という讃美の一部をなしているのです。
 このように、神のかたちに造られている人間のうちに与えられている造り主である神さまに対するわきまえが、神さまが人に与えてくださったご自身の啓示です。そして、すべての人が神のかたちに造られていますから、すべての人に、造り主である神さまに対するわきまえとしての啓示が与えられています。それは、人が人である以上変わることはありませんし、例外もありません。人はそのようなものとして造られており、そのようなものとして生まれてきます。これを神学(弁証学)の用語を用いて言いますと、人間であることの「形而上的・心理的」な面ということになります。
 ところが、実際には、すべての人が造り主である神さまを神として礼拝しているかというと、そうではありません。それは、すべての人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているからです。けれども、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているからといって、人が神のかたちに造られている事実がなくなったわけではありません。また、神のかたちに造られている人のうちに造り主である神さまに対するわきまえが与えられているという事実がなくなってしまったわけでもありません。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間は、すべて、神のかたちに造られたものであり、自らのうちに造り主である神さまに対するわきまえを与えられているものであるのです。問題は、そのように、神のかたちに造られて、造り主である神さまに対するわきまえを与えられている人間が、造り主である神さまを神として礼拝することもあがめることもしないということにあります。それが人間の最も深い、根源的な罪です。
 これは、動物の場合と根本的に違います。神のかたちに造られていないために造り主である神さまに対するわきまえも与えられていない動物たちが造り主である神さまを神として認めることもなく、礼拝することもないのは自然のこと、当然のことであって、そこには罪はありません。しかし、神のかたちに造られて、造り主である神さまに対するわきまえを与えられている人間が、造り主である神さまを神として礼拝することもあがめることもしないということは、神さまが与えてくださった啓示、すなわち、神さまに対するわきまえを自分の意志によって押さえつけ、ねじ曲げてのことです。これが、罪の第一の表れであり、人間の心の最も深いところに巣くっている根源的な罪です。このことが、ローマ人への手紙1章21節〜23節に、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 繰り返しになりますが、人が神のかたちに造られていて、その心に造り主である神さまに対するわきまえが与えられているということは、すべての人に例外なく当てはまります。それで、人の心は自然と造り主である神さまに向くようになっています。そして、自らの自由な意志において、造り主である神さまを神としてあがめ、礼拝することは、神のかたちに造られている人間の本来のあり方です。そのようなものとして造られている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまに対するわきまえを、罪によって腐敗している意志によって押さえつけ、ねじ曲げることによって、神ではないものを「神」として礼拝し、それに仕えるようになってしまったのです。これは、今取り上げていることとの関わりで言いますと、神さまの「御名」を汚すことに当たります
 このような人間の罪の表れに対して、先ほどの、

  私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  なんと力強いことでしょう。
  あなたはご威光を天に置かれました。
  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
  力を打ち建てられました。

という、人が神のかたちに造られており、造り主である神さまに向くものとして造られているという根本的な事実から生れてくるあかしが突きつけられることになります。これは、神さまがご自身の「御名」を聖なるものとされることの一つの表れでもあります。

 


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