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説教日:2006年2月19日 |
まず、ここに用いられている言葉についてお話ししておきますと、この祈りは新改訳では、 御名があがめられますように。 と訳されています。この場合の「御名」には「あなたの」という言葉がありますので「あなたの御名」です。 ここでの問題は、どうして、 あなたがあがめられますように。 と祈るのではなく、 あなたの御名があがめられますように。 と祈るのかということです。実は、ここで「あがめられる」と訳されている言葉は「聖なるものとする」とか「聖なるものとして取り扱う」ということを表す言葉(ハギアゾー)です。ここでは、その受動態(受身形)で、命令法(命令形)です。ですから、 御名があがめられますように。 というのは意訳で、文字通りには、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 ということになります。 私たちは、 あなたがあがめられますように。 と祈ることはできます。実際に、たとえば、詩篇21篇13節には、 主よ。御力のゆえに、 あなたがあがめられますように。 私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。 と記されています。 けれども、厳密に言いますと、私たちは、 あなたが聖なるものとされますように。 と祈ることはできません。 あなたが聖なるものとされますように。 ということを文字通りに理解しますと、これは、何ものかが神さまを聖なる方にするとか、神さまの聖さを増し加えるということになってしまいます。私たちはそのような意味で、 あなたが聖なるものとされますように。 と祈ることはできません。 どういうことかと言いますと、すでに、「聖なるものであること」のお話の中で繰り返しお話ししたことですが、神さまの聖さは、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる無限、永遠、不変の栄光の神さまが、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。そして、御使いであれ人間であれ、どのような被造物も、この区別を越えることはできません。それは、たとえて言えば、紙切れが核融合によって光と熱を放っている太陽に直接触れることができないようなものです。この意味での神さまの聖さは、神さまご自身の本質にかかわることであり、決して揺らぐことはありませんし、変わることもありません。また、何ものかが神さまを聖くするとか、神さまの聖さを増し加えるというようなことはあり得ません。 ですから、私たちは、神さまの聖さが揺らぐこと、変わることがありえるけれども、そのようなことがないようにとか、神さまの聖さが変わることなく、揺らぐことなく保たれますようにというような祈りをすることはできません。神さまの聖さが変わること、揺らぐことを示唆するようなことを言ってはならないのです。 これに対しまして、神さまの「御名」が「聖なるものとされますように」と祈ることには、このような問題が生じることはありません。神さまの「御名」は、神さまが、ご自身がどのような方であるかを、私たちに啓示してくださっているものです。私たちは、神さまがご自身を私たちに啓示してくださって初めて神さまがどのような方であるかをを知ることができます。そして、実際に、神さまはご自身がどのような方であるかを、私たちに啓示してくださいました。それを言い換えますと、神さまがご自身の「御名」を私たちに知らせてくださったということです。神さまの「御名」は、神さまが御子イエス・キリストをとおして遂行された創造の御業と贖いの御業をとおして、さまざまな形で、私たちに啓示されています。 そのうち、贖いの御業をとおしての「御名」の啓示のことになりますが、ヨハネの福音書17章6節には、 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。 というイエス・キリストの祈りが記されています。このイエス・キリストの言葉は、ご自身が、父なる神さまがどのような方であるかを私たちに啓示してくださったということを意味しています。同じヨハネの福音書の1章18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。さらに、14章8節、9節には、 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」 と記されています。 これらの箇所に示されていますように、イエス・キリストは父なる神さまがどのような方であるかを私たちに啓示してくださいました。それが17章6節では、 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。 と言われているわけです。そして、このようなイエス・キリストによる父なる神さまの「御名」の啓示、すなわち、父なる神さまがどのような方であられるかの啓示は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって頂点に達しています。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりこそは、神さまの「御名」の最も豊かな啓示です。言い換えますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、父なる神さまがどのような方であるかを最も豊かに啓示しているのです。 このことに関しては、さらにお話しすべきことがありますが、それは日を改めていたします。 このように、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りは、神さまが私たちに知らせてくださった「御名が聖なるものとされますように」と祈るものです。 これにはもう一つの問題が関わっています。それは、私たちが、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 と祈るとき、誰が神さまの「御名」を聖なるものとすると考えるべきなのかという問題です。 このことに関しては、二つの理解の仕方があります。 一つは、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りは、私たちが神さまの「御名」を聖なるものとして受け止め、聖なるものとしてあがめることができるようになることを祈り求めるものであるという理解です。これは、新改訳の、 御名があがめられますように。 という訳文に反映しています。 もう一つの理解の仕方は、これは神さまがご自身の「御名」を聖なるものとしてくださることを祈り求めることだというものです。 この二つの理解は必ずしも矛盾するものではありません。先ほど言いましたように、神さまの「御名」は、神さまが、ご自身がどのような方であるかを、私たちに啓示してくださっているものです。それで、当然、私たちが神さまの「御名」をどのように受け止め、どのように扱うかということが問題となります。その意味で、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りには、私たちが神さまの「御名」を聖なるものとして受け止め、聖なるものとしてあがめることができるようにという願いが含まれています。 けれども、これに続く、 御国が来ますように。 という祈りと、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りにおいては、それを実現してくださるのは神さまです。私たちは、神さまが御国を来たらせてくださり、神さまがみこころを地でも行ってくださることを祈り求めています。このこととの関連で言いますと、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りも、基本的には、神さまがなしてくださることであると考えられます。これには、後でお話ししますが、もう一つの理由があります。 そうであれば、はっきりと、 あなたがあなたの御名を聖なるものとしてください。 というように祈ればいいのではないかという疑問がわいてきます。しかし、この祈りは最初にお話ししましたように、命令法(命令形)で表されています。それで、実際には、それは、 あなたがあなたの御名を聖なるものとしなさい。 というような命令調のものになってしまいます。それで、「あなた」というように神さまを主語にしないで、「御名」の方を主語として、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 というように、少し遠回しに言い表されていると考えられます。それによって、父なる神さまを敬う思いが示されているということです。その点は、 御国が来ますように。 という祈りと、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りにおいても同じです。 このように、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りにおいて、私たちは、神さまがご自身の「御名」を聖なるものとしてくださることを祈り求めるのです。そうしますと、神さまはどのようにして、ご自身の「御名」を聖なるものとしてくださるのかということが問題となります。 このことには、二つのことが関わっています。 一つは、先ほど触れましたように、神さまが啓示してくださった「御名」を、私たちが聖なるものとして受け止め、聖なるものとしてあがめることができるようにしてくださることによってです。神さまが啓示してくださった「御名」を聖なるものとして受け止め、聖なるものとしてあがめることは私たちがすることですが、生まれながらの私たちにできることではありません。神さまが、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を、御霊によって私たちに当てはめてくださって、私たちを新しく造り変えてくださったので、私たちは神さまの「御名」を聖なるものとしてあがめることができるようになったのです。 神さまの「御名」を聖なるものとしてあがめることは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられ、あらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であられるので、お造りになったこの世界のすべてのものと絶対的に区別される方であられることを認めて、神さまを礼拝することから始まります。そして、さらに、神さまがその無限、永遠、不変の豊かさからあふれ出る愛といつくしみをもって、私たちとこの世界のすべてのものを満たしてくださっていることに対する感謝と讃美をささげ、神さまに信頼し、神さまを愛することにおいて、神さまの「御名」の聖さ、神さまの聖さがあかしされます。 もう一つのことは、神さまはご自身の「御名」を汚す者たちの働きをおさばきになることによって、ご自身の「御名」を聖なるものとされるということです。出エジプト記20章7節には、十戒の第三戒が、 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 と記されています。また、黙示録13章1節〜10節には反キリストを象徴的に表している「海からの獣」のことが記されています。5節、6節には、 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。 と記されています。言うまでもなく、栄光のキリストはこの獣(反キリスト)をおさばきになります。 お気づきのことと思いますが、もし、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りが、神さまがご自身の「御名」を聖なるものとされるという意味ではなく、私たちが神さまの「御名」を聖なるものとするという意味であれば、神さまがご自身の「御名」を汚す者をおさばきになって、ご自身の「御名」の聖さを守られるということは、この祈りには含まれないことになってしまいます。その意味でも、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りは、神さまがご自身の「御名」を聖なるものとしてくださることを祈り求めるものであると考えられます。 最後にもう一つの問題に触れておきますと、この、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りにおいては、「聖なるものとされますように」ということが不定過去時制で記されています。不定過去時制は日本語にも英語にもない時制ですので分かりにくいのですが、あることをひとまとまりに捕えるという面があります。そして、このことから、広く、ここで神さまの「御名が聖なるものとされる」ことは終末論的な完成を示していると言われています。つまり、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、すべての人を神さまの義の尺度にしたがっておさばきになり、すべての罪を清算され、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民を栄光へとよみがえらせてくださるようになる、その時に、神さまの「御名」がまったく聖なるものとされるようになります。この祈りは、基本的には、このことを祈り求めるものであるということです。 終りの日における栄光のキリストの再臨によって、これらのことが実現することは確かなことです。そして、最終的にそのようにして、神さまの「御名」が真の意味で聖なるものとされることこそが、私たち御霊のお働きによって父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みのうちに生きている者にとって最も大切な願いです。けれども、祈りにおいて不定過去時制が用いられることは、ごく一般的なことです。実際、ここに記されている主の祈りのすべての祈りは不定過去時制で記されています。そのうち、後半の三つの祈り、すなわち、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りと、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 という祈り、そして、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 という祈りは、終りの日における完成というよりは、現在の私たちの置かれている状況に焦点が合わされています。それで、祈りが不定過去時制で表されているということから、直ちに、その祈りが終りの日における完成を願い求めるものであると言うことはできません。 それでは、今私たちが考えている、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りはどうでしょうか。先ほど言いましたように、終りの日に栄光のキリストが再臨されてすべてを新しくされるときには、真の意味において、また、完全な形において、神さまの「御名」が聖なるものとして認められ、信頼され、あがめられるようになります。また、この祈りに続く、 御国が来ますように。 という祈りと、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りにおいては、確かに、終りの日における完成が視野に入っています。 それで、この、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 という祈りにおいても、終りの日における完成が視野の中に入っていると考えられます。 それで、私たちは、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 と祈るときに、そのように祈る私たちの願いが最終的に、また、完全な形で実現する日のあることを心に留める必要があります。けれども、このことは、私たちが、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 祈るときに、もっぱら終りの日における完成を祈り求めるという意味ではありません。さらに言いますと、この祈りにおいては、必ずしも、終りの日における完成を祈り求めることの方が中心であるとも言い切れません。この祈りは、今この時ここに生きている私たちにとって、意味がある祈りであり、私たちが今この時のこととして、祈り求めなければならないことでもあるのです。その意味で、終りの日における完成と今ここでの実現は等しく大切なものであるとも言えます。 私たちは、黙示録12章7節〜12節に、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」 と記されているような歴史的な状況にあります。ここには、自らの最後を悟った暗やみの主権者であるサタンが、最後の死に物狂いの抵抗を試みていることが記されています。先ほどの「海からの獣」はこのサタンの働きによって出現したものです。「海からの獣」のことを記している13章7節、8節には、 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。 と記されています。サタンは、さらに、偽預言者を表す「地からの獣」をも出現させます。ここには、自ら神の位置に立とうとする「竜」(サタン)と反キリスト(海からの獣)と偽預言者(地からの獣)という組み合わせがあります。これは、サタンが三位一体の御父、御子、御霊を真似して働いていることを示しています。これによって、形としてはよりいっそう厳しい歴史的な状況が生まれ、主の民はその中に置かれています。そして、神さまの「御名」を汚すような働きが進行し激化しているのです。 そうであれば、私たちはいよいよ切に、 あなたの御名が聖なるものとされますように。 と祈り続ける必要があるわけです。その際に、私たちは、私たちが祈り求めていることには終りの日における完成があることを見据えることによって、失望することなく、意気阻喪することなく、祈り続けることができます。 |
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