(第49回)


説教日:2006年2月12日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りについてのお話を続けます。今は、主の祈りの最初にある、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけに示されている、父なる神さまが「」におられるということについてお話ししています。
 これまで、ネヘミヤ記9章6節に、

ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

と記されており、列王記第一・8章27節に、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

と記されているソロモンの祈りに基づいて、神さまと「」の関係を考えてきました。
 ここに記されている「天の天」は「最も高い天」という意味で、そこが神さまがおられる「」であると考えられます。「天と、天の天」は神さまが創造の御業によってお造りになったものです。それで、「天も、天の天も」神さまをお入れすることがでません。神さまが「」におられるということは、神さまがご自身のご意志で「」にご臨在しておられるということです。そして、神さまが「」にご臨在しておられるのは、ご自身がお造りになったこの世界とかかわってくださるためのことです。
 神さまがご自身がお造りになったこの世界とかかわってくださることには、これとは別の面があります。エレミヤ書23章24節には、

  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

という主の御言葉が記されています。この御言葉は、文字通りには、

  わたしは天と地を満たしていないだろうか。

ということで、主がこの世界のどこにでもおられるというだけではなく、ご自身がお造りになったすべてのものを、ご自身のご臨在をもって満たしておられることを示しています。
 このように、神さまがこの世界のどこにでもご臨在しておられて、すべてのものをご自身のご臨在によって満たしておられるので、神さまがお造りになったこの世界は今日に至るまで保たれてきていますし、その中にあるすべてのものが、それぞれの特性を発揮しながら存在することができているのです。いのちあるものは、天地創造の御業の初めから今日に至るまで、そのいのちの営みを連綿と続けていますし、広大な宇宙の無数とも思える天体も、神さまの定めにしたがって動いています。言うまでもなく、神さまはそのすべてを一つ一つ知っておられます。イザヤ書40章25節、26節には、

  それなのに、わたしを、だれになぞらえ、
  だれと比べようとするのか。」
  と聖なる方は仰せられる。
  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

と記されています。
 このように、ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもご臨在しておられて、すべてのものをご自身のご臨在によって満たしておられる神さまは、また、「」にご臨在しておられます。どうして、そのようなことが可能なのかといいますと、それは神さまが存在において無限、永遠、不変の方であるからです。
 私たちの主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りにおいて、私たちは父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけます。父なる神さまが「」におられる方であることを心に刻んでのことです。このように教えてくださったイエス・キリストは、また、マタイの福音書6章6節に記されていますように、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と教えてくださいました。父なる神さまは、私たちが「自分の奥まった部屋」で祈るときに、そこにご臨在してくださって、私たちの祈りを聞いてくださいます。もちろん、そのときにも父なる神さまは「」にご臨在しておられます。繰り返しになりますが、このようなことが可能なのは、神さまが存在において無限、永遠、不変の方であるからです。


 すでにお話ししましたように、「」には神さまの御座があります。そして、神さまはその御座に着座しておられます。繰り返しの引用ですが、詩篇11篇4節には、

  主は、その聖座が宮にあり、
  主は、その王座が天にある。
  その目は見通し、
  そのまぶたは、人の子らを調べる。

と記されています。
 言うまでもなく、これは王がその王座に着いて国を治めることを表象として表されているものです。それで、神さまが「」にある御座に着座しておられるということは、神さまがご自身のお造りになったこの世界のすべてを治めておられるということ、神さまが万物の支配者であられるということを意味しています。先ほど言いましたように、「」は神さまがお造りになったものです。神さまが「」をお造りになったのはご自身の必要を満たすためではありませんでした。神さまが「」をお造りになって、そこにご臨在されるのは、ご自身がお造りになったこの世界とその中のすべてのものを治めてくださるためです。もちろん、それは、すべてのものを牛耳るためではなく、一つ一つのものをお心に留めてくださって、支えてくださり、その特徴を生かしてくださるためです。
 そのように、神さまはご自身がお造りになったすべてのものを治めてくださっておられるのですが、それは、特に、神さまが救いとさばきの御業を遂行してくださることにかかわっています。詩篇9篇7節〜10節には、

  しかし、主はとこしえに御座に着き、
  さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
  主は義によって世界をさばき、
  公正をもって国民にさばきを行なわれる。
  主はしいたげられた者のとりで、
  苦しみのときのとりで。
  御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
  主よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
  お見捨てになりませんでした。

と記されています。
 ここには主の救いとさばきのことが記されています。けれどもこれは、世の終わりの最終的なさばきのことではなく、この世にあってさまざまな苦しみと痛みを経験している主の民のために主がなしてくださる救いとさばきの御業のことを述べています。9節で、

  主はしいたげられた者のとりで、
  苦しみのときのとりで。

と言われているのは、この詩の作者自身(伝統的には、表題に示されているようにダビデとされています)がしいたげられることや苦しみを経験しているからに他なりません。しかも、そのしいたげや苦しみは、8節で、

  主は義によって世界をさばき、
  公正をもって国民にさばきを行なわれる。

と言われていることから分かりますように、この世とその国々が攻撃してきて自分たちを押しつぶそうとするような恐ろしいものであったのです。しかし、そのような厳しい状況の中にあって、この詩人には頼みとしていることがありました。それは、7節、8節で、

  しかし、主はとこしえに御座に着き、
  さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
  主は義によって世界をさばき、
  公正をもって国民にさばきを行なわれる。

と告白されていることです。ここでは、強大な力にしいたげられ苦しんでいる状態の中で、神さまが「」にある御座に着座しておられるという事実が、この詩人を支えたことが示されています。詩人は、

  しかし、主はとこしえに御座に着き、

と告白しています。この世の国々がこぞって自分たちに立ち向かってきたとしても、それは、過ぎゆくこの世のことです。それに対して、主の支配は「とこしえ」のもので、それらすべてを越えています。そして、主はこの世の国々のすべてを「義によって」おさばきになります。このことが、強大な力にしいたげられ苦しんでいる状態の中にある詩人を支え続けたのです。そして、それは空しい思い込みや期待ではなく、確かなことであったことが、10節の、

  主よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
  お見捨てになりませんでした。

という告白となっています。この告白は、「あなたを尋ね求める者を」とありますように、この詩人が強大な力にしいたげられ苦しんでいる状態の中で、主に祈り続けたことを示しています。
 このことは、私たちの祈りにもそのまま当てはまることです。私たちは今、地にあって主の民として歩んでいます。私たちが追い求めていることは、私たちをとおして神さまの恵みに満ちたご栄光が表されることです。そのために、私たちは御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業からあふれ出る恵みに信頼しています。そして、その恵みの中で、父なる神さまを礼拝することを中心とした、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることを慕い求め、追い求めています。それは、この御子イエス・キリストにある父なる神さまとの愛の交わりが完成する時、すなわち、栄光のキリストの再臨の日を待ち望むことでもあります。この世にあって、これらのことを真実に追い求めることは、容易なことではありません。実際に、今この時、世界には先ほどの詩人が歌っていたのと同じように強大な力にしいたげられ苦しんでいる状態の中にある主の民が本当にたくさんいるのです。
 そのような主の民にとって、

  しかし、主はとこしえに御座に着き、
  さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
  主は義によって世界をさばき、
  公正をもって国民にさばきを行なわれる。

ということは、決定的な意味と重さをもっています。私たちはこのことを心に刻んで、

  天にいます私たちの父よ。

と祈り始めます。今この時、御子イエス・キリストにあって、ここにいる私たちとともにいてくださり、私たちに御顔を向けてくださっておられる父なる神さまは、「」すなわち「天の天」とも呼ばれる「最も高い天」にご臨在されて、この世界のすべてのものを治めておられる方であるのです。
 父なる神さまが「」におられることには、もう一つ大切な意味があります。
 私たちがイエス・キリストにあって待ち望んでいる終りの日に完成する新しい天と新しい地の中心には父なる神さまと御子イエス・キリストのご臨在があります。黙示録22章1節〜5節には、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

と記されています。
 1節と3節には「神と小羊との御座」が出てきます。「神と小羊との御座」といいますと、御座が二つあるような気がしますが、実はこの場合の「御座」は単数形です。すでにお話ししましたように、「御座」はそこに着座しておられる神さまがこの世界を治めておられることを表しています。ここで、その「御座」が一つで、「神と小羊との御座」と言われているのは、この世界を治められることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストが一つとなっておられることを意味しています。父なる神さまが、贖い主であられる御子イエス・キリストをとおして(その贖いの恵みによって)、すべてのことを治めてくださることが、この世界においてまったき形において実現するようになるのです。
 そしてここでは、

もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。

と言われていますように、神さまと主の民の交わりが完成することが記されています。
 このことを念頭において、黙示録において、最初に天上のシーンを記している4章1節〜11節を見てみましょう。そこには、

その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と記されています。
 ここに記されている天上のシーンの中心は「御座」と「御座に着いている方」すなわち父なる神さまです。御子は次の5章に出てきます。ここでは「御座に着いている方」が「万物を創造」された方であり「万物の支配」であられることにおいて、いかなる被造物も、その御前において、あえてその顔を上げることができない栄光に満ちた方であることを示しています。ですから、ここに記されている「御座」は「万物の支配」であられる神さまとその支配の下にある被造物との間にある隔たりの大きさを示しています。
 ところが、先ほど引用しました22章3節、4節には、

もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

と記されていました。ここでは、主の民は「御座」に近づいて、親しく神さまの「御顔を仰ぎ見る」と言われています。この二つのことの違いをどのように考えたらいいのでしょうか。
 お気づきのことと思いますが、これは、この二つのシーンは神さまの救いとさばきの御業の段階において違う段階を反映していると考えられます。4章では、ご自身の十字架の死によってご自身の民のための罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストが、天に上って父なる神さまの右の座に着座されてから、世の終りに至るまでの時のことを記しています。
 この世の終わりに至るまでの期間においては、さまざまな暗やみの力が神さまに敵対して働いています。それで、主の民は先ほどお話ししましたような厳しい状況に置かれています。このようなことに対しまして、神さまは深い忍耐をもって対処しておられ、福音の宣教をとおしてご自身の民がすべて御許に集められるのを待っておられます。しかし、神さまは栄光のキリストをとおして最終的なさばきを執行されます。4章に記されている神さまの「御座」を中心とする天上のシーンは、神さまの救いとさばきの御業の歴史、救済の御業の歴史がこのような段階にあることを反映していると考えられます。その意味で、これは、今この時における天の様子を示しているものです。
 これに対して、22章に記されている神さまの「御座」を中心とする天上のシーンは、父なる神さまが、終りの日に再臨される栄光のキリストによって暗やみの力とそれにしたがっていた者たちのすべての罪をおさばきになり、罪を清算してしまわれた後のことです。ですから、3節では、

もはや、のろわれるものは何もない。

と言われています。また、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地が再創造された後のことです。それ以上に、主の民がその贖いの恵みによって栄光のキリストの復活のいのちにあずかり、栄光のキリストのみかたちに似た者としてよみがえっています。このことによって、ここでは、主の民は「御座」に近づいて、親しく神さまの「御顔を仰ぎ見る」と言われているのです。
 このこととの関連で考えておきたいことがあります。
 私たちの目には、4章に記されている厳かで畏怖に満ちた天上のシーンこそが、まさに天上のシーンと写るのではないでしょうか。しかし、今お話ししたことから分かりますが、それは、むしろ22章に記されている天上のシーンに至るべき段階にあるのです。つまり、4章に記されている天上のシーンには目標があって、それが実現するのが、22章に記されている天上のシーンであるということです。このように見ますと、「神と小羊との御座」こそは、私たちが最も慕い求め、待ち望むべきところであるのです。
 詳しい説明は省きますが、黙示録の最初の3章に記されている七つの教会において最も問題がある教会は、七番目に上げられているラオデキヤの教会でしよう。その他の教会については問題となることがあるとしても、優れた点も述べられています。しかし、ラオデキヤの教会については問題となることしか述べられていません。20節前半に、

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。

と記されていますように、なんと、この教会の人々の心からイエス・キリストが締め出されているというのです。しかし、そのような状態にある人々に与えられた約束を見ますと、私たちは驚きととともに主の御前に頭を垂れるほかはないという思いになります。3章20節後半と21節には、

だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と記されているのです。
 このことに照らして見ますと、神さまが「」をお造りになって、そこにご臨在してくださっていることの究極的な意味が見えてきます。それは、私たちを「」においてご自身とともに住まわせてくださるためのことであったのです。
 父なる神さまが「」にご臨在していてくださることは、このような私たちの望みの確かさを示しています。そのご臨在の御許こそ、私たちが住むべきところであり、御子イエス・キリストの恵みによって、私たちが住むようになるところであるのです。そこでは、聖められた畏れと愛による礼拝と祈りを中心とした、父なる神さまとのいのちの交わりが完成します。
 私たちはこのことを心に刻んで、祈りにおいて、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけます。

 


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