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説教日:2006年2月5日 |
存在とすべての属性において無限、永遠、不変の神さまと神さまがお造りになったこの世界の間には絶対的な区別があります。これが神さまの聖さの本質です。けれども、神さまと神さまがお造りになったこの世界が絶対的に区別されるということは、神さまとこの世界が無関係であるという意味ではありません。この世界は神さまの天地創造の御業とともに始まって、時間とともに経過してきて、今日に至っています。この世界が今日に至るまで存在し続けているのは、造り主である神さまがこれを支え続けてくださっているからです。この世界には神さまの御手に支えられていないものは一つもありません。このように、神さまがご自身のお造りになったこの世界のすべてのものを支えてくださっておられるのは、神さまがご自身のご臨在をもってすべてのものを満たしてくださっていることによっています。そのことが、特に、ご自身の民について当てはめられているのが、詩篇139篇7節〜10節に記されている、 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、 私がよみに床を設けても、 そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、 そこでも、あなたの御手が私を導き、 あなたの右の手が私を捕えます。 という告白です。 神さまがご自身のお造りになったこの世界とその中のすべてのものを真実な御手をもって支えてくださっておられるということは、御言葉があかししているところで、確かなことです。けれども、それが具体的にどのようになされているのかということは、私たちの想像をはるかに越えたことです。それについては、私たちはほんの僅かなことしか分かりません。そのことを踏まえたうえで、一つのことを考えてみたいと思います。 マタイの福音書6章25節〜33節には、 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 と記されています。 ここでは、ここに記されているイエス・キリストの教えそのものについてお話しするのではなく、今お話ししていることとの関わりで一つのことを取り上げたいと思います。26節では、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 と言われており、30節では、 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 と言われています。ここでイエス・キリストは、神さまが「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっていると言っておられます。そして、26節では神さまのことが「あなたがたの天の父」と言われています。 ここでイエス・キリストは、「空」と「野」という組み合わせで、場所的にこの世界のどこででもということを表しておられます。このような表現の仕方はメリスムスと呼ばれますが、日本語にもあります。日本語で「野にも山にも」と言えば「どこでも」というようなことに当たります。また、「鳥」と「草」という組み合わせで、成長するすべてのものをということを表しておられると考えられます。これらのことによって、父なる神さまの御手の支えがこの世界のすべてのものに及んでいることが示されているわけです。 その場合に、神さまはどのように「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっているのでしょうか。先ほど触れましたが、26節で神さまのことが「あなたがたの天の父」と言われていることから、「天」におられる神さまが「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっていることが分かります。言い換えますと、神さまは「天」におられて、ご自身がお造りになったすべてのものを支えてくださっておられるということです。そうしますと、私たちは、このことを、王が王国を治めているというような感じで受け止めます。王が王国を治めていると言っても、王がいるのは宮殿であり、王はそこにある王座から指令を出して王国を治めているわけです。「天」におられる神さまが「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっているということもそのようなことなのでしょうか。 神さまがご自身がお造りになったすべてのものを支えてくださっていることをそのように考えることは決して間違いではありません。けれども、神さまがこの世界のすべてのものを支えてくださっていることはそれ以上のことです。このことはこれまでお話ししてきたことからお分かりになることと思いますが、再確認の意味でお話ししたいと思います。 まず、そのことが決して間違ってはいないということからお話ししますと、これまでのお話の中で何回か触れましたように、神さまが「天」におられるというときの「天」は、神さまの御座があるところです。先週引用しました詩篇11篇4節には、 主は、その聖座が宮にあり、 主は、その王座が天にある。 その目は見通し、 そのまぶたは、人の子らを調べる。 と記されていました。また、世の終りに栄光のキリストが再臨されて完成してくださる新しい天と新しい地のことを記している黙示録22章1節〜4節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 神さまの御座は先ほどのたとえで言いますと、宮殿の王座に当たります。そこに座する王が国全体を治めるように、神さまは「天」の御座に座してご自身がお造りになったすべてのものを治めておられます。その中には、「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっていることも含まれています。 このことを、神さまが「天」にご臨在されることに当てはめて言いますと、神さまが「天」にご臨在しておられることは、神さまがこの世界のすべてを治めてくださるためのことです。ですから、神さまが治めておられるこの世界を王国にたとえますと、そこに御座がある「天」は、王座のある宮殿に当たります。神さまが「天」にご臨在しておられるということは、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになって、御手をもって治めておられる主権者であられ、実際に、すべてのものを治めておられることを意味しています。 ですから、私たちが主の祈りにおいて、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけるのは、神さまが「私たちの父」であられ、私たちは神の子どもであるということを自覚してのことだけでなく、私たちが「私たちの父」と呼んでいる神さまが、この世界のすべてのものの造り主であられ、ご自身のみこころにしたがってすべてのものを治めておられる主権者であられることを心に刻んでのことです。私たちは御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって罪を贖われ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたものとして、神さまを「私たちの父」と呼ぶことのできる子としての身分と特権を与えられています。それで、神さまと親しく向き合い、祈りをもって語り合うことができます。 それと同時に、私たちは神さまが「天」にご臨在しておられる方であり、自分たちも含めてこの世界のすべてを治めておられる主権者であられることを、心に深く刻みます。普通ですと、このことは、この世界の主権者であられる神さまから私たちを離れさせることであると考えられることでしょう。ことのことに基づいて、神さまに対してなれなれしくしてはいけないと言われるかもしれません。しかし、実は、このことは、私たちが神さまに向かって「私たちの父」と呼ぶことを妨げることではありません。もし、神さまがこの世界のすべてを治めておられる主権者であられることが、私たちが神さまに向かって「私たちの父」と、親しく呼びかけることを妨げることであるのであれば、イエス・キリストは、主の祈りにおいて、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけるようにとはお教えにならなかったはずです。おそらく、その代わりに「天にいます私たちの主よ」と呼びかけるようにとお教えになっていたことでしょう。しかし、実際には、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけるようにとはお教えになりました。それで、私たちは神の子どもとして、愛と信頼の思いを込めて、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけます。そして、御子イエス・キリストにあって「私たちの父」となってくださった神さまがこの世界のすべてを治めておられる主権者であられるからこそ、私たちの祈りが意味をもっていることを心に留めるのです。言い換えますと、神さまが「天にいます」ということは、私たちを神さまから遠ざけることではなく、私たちがますます神さまに信頼して祈るようになることを助けることなのです。 先ほど、「天」におられる神さまが「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっていること、すなわち、神さまがこの世界のすべてのものを治めておられることは、王が宮殿の王座に着座して王国を治めることに比べられる面があるけれども、それ以上のことであると言いました。そのことについて、お話ししたいと思います。 今お話ししましたように、神さまが「天」にご臨在しておられるのは、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになった主権者であられ、実際にすべてのものを治めておられることを意味しています。 けれども、神さまのご臨在は「天」に限られているのではありません。繰り返し引用しています、エレミヤ書23章24節には、 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 という主の御言葉が記されています。ここに示されていますように、神さまはご自身がお造りになったこの世界のどこにでもご臨在しておられるのです。そればかりではなく、この、 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 という御言葉は、文字通りには、 わたしは天と地を満たしていないだろうか。 ということでした。そして、この「天と地」は、創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「天と地」と同じで、ご自身がお造りになった「すべてのもの」を表しています。つまり、ここ(エレミヤ書23章24節)では、主がこの世界のどこにでもおられるというだけではなく、ご自身がお造りになったすべてのものを、ご自身のご臨在をもって満たしておられることを示しています。 これを先ほどの神さまが「空の鳥」を養い「野の草」を装わせてくださっておられることに当てはめますと、神さまは「空の鳥」や「野の草」をも、ご自身のご臨在によって満たしておられるということです。言い換えますと、神さまは「空の鳥」や「野の草」にも親しく向き合ってくださるほどに、お心を注いでくださっているということです。念のために申しておきますと、神さまが「空の鳥」や「野の草」をもご自身のご臨在によって満たしてくださっているということは、ただ単に、神さまの御力が「空の鳥」や「野の草」に及んでいるということではありません。神さまが御霊によって「空の鳥」や「野の草」とともにいてくださるということです。もちろん、そこに人格的な交わりがあるわけではありません。というのは、「空の鳥」や「野の草」は人格的な存在ではありませんから、自分たちの意志で神さまに応答することはないからです。 さらに、神さまのご臨在が「空の鳥」や「野の草」に及んでいるということは、神さまが「空の鳥」や「野の草」をすべてまとめて治めてくださっているというだけのことではなく、さらに、その一つ一つとともにいてくださる形で関わってくださっているということです。このことは、人間が花を育てることを考えると分かりやすいと思われます。人間の場合でも、園芸をする人は、自分が育てている花の一本一本に近づき、しっかりと目を向けて、その世話をします。人間の場合には、限界がありますから、一つの花に目を向ければ他のものには目が行かなくなります。けれども、神さまは同時に、この世界のすべてのもの一つ一つに目を向けてくださり、深くお心を注いでくださいます。 そのようなことがどうして可能かと言いますと、神さまが無限の存在であるからです。とても難しいことですが、神さまが無限の存在であられるということは、神さまが無限に広がっておられるということではありません。広がりはこの造られた世界にあるものについて言われることであって、神さまにはそのような広がりはありません。それでは何もないのではないかと言われることでしょうが、広がりはこの造られた世界の空間について言われるもので、神さまはこの世界の存在ではありませんから、当然、この造られた世界のものとしては存在しておられません。また、神さまにはこの世界のもののような広がりがありませんから、神さまを部分に分割することはできません。分割できるものは、この造られた世界にある物理的なものです。もちろん、神さまが分割できない方であることは、神さまが人格的な方であられることにもよっています。 ですから、神さまがこの世界のどこにでもおられるということは、神さまがサイズにおいてこの世界より大きいので、この世界全体を包んでおられるということではありません。それでは何が何だか分からないということになりますが、まさに、神さまの存在が無限であるということは、私たちには理解しがたいことなのです。私たちとしては、神さまの存在が無限であるということを、この世界との関係で考えるほかはありません。そして、神さまはこの世界全体を無限に超越しておられつつ、この世界のどこにでもおられ、しかも、この世界のすべてのもの一つ一つとともに向き合うようにしておられ、その一つ一つをご自身のご臨在で満たしておられると言うほかはありません。 神さまがそのような方であられるので、神さまは「天」におられると同時に、今ここにもおられて、私たちそれぞれに御顔を向けてくださり、御霊によって、私たちそれぞれのうちにご臨在してくださっているのです。 |
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