(第47回)


説教日:2006年1月29日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています、主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りは、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけから始まっています。この呼びかけにおいては、父なる神さまが「」におられることが示されています。ということは、「」は神さまのおられるところであるわけです。
 ところが、繰り返しの引用になりますが、ネヘミヤ記9章6節には、

ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

と記されています。ここには「天と、天の天」という言葉が出てきます。この「」は私たちが大空として眺めている「」のことです。そして、「天の天」は「最高の天」という意味で、神さまのおられるところであると考えられます。ここでは、その「天の天」は神さまによって造られたものであると言われています。ですから、「天の天」が初めからあって、そこに神さまがおられるということではありません。
 また、これも繰り返しの引用ですが、列王記第一・8章27節には、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

というソロモンの祈りが記されています。この祈りに示されていますように、「天も、天の天も」神さまを「お入れすることはできません」。
 このように、神さまは「」におられますが、それは「」が造られた後のことです。しかも、「」は神さまを入れることはできません。
 神さまは存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の方です。神さまはご自身が無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられて、何ものにも依存しておられません。それで、ご自身が存在されるために「」が必要であるということはありません。これに対して、この世界のすべては神さまによって造られたもので、神さまに支えられて存在しています。「天も、天の天も」神さまによって造られたもので、神さまによって支えられて存在していますから、「」が神さまをお入れすることができないのは当然のことです。
 これらのことから、神さまが「」におられるのは、私たちが生活するために住み処が必要であるように、神さまもご自身の存在のために住み処が必要であるということではないことが分かります。神さまが「」をお造りになったのはご自身の必要を満たすためではないのです。また、神さまが「」におられるということは、神さまが「」に入ってしまうということではなく、神さまが「」にご臨在されるということです。


 神さまは存在において無限、永遠、不変の方です。それで、神さまによって造られたこの世界には、神さまがおられないところはどこにもありません。先週取り上げましたエレミヤ書23章24節には、

  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

という主の御言葉が記されています。この、

  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

と訳されている言葉は、文字通りには、

  わたしは天と地を満たしていないだろうか。

ということで、主がご自身のご臨在をもって「天と地」すなわち、神さまがお造りになったすべてのものを満たしておられることを示しています。それは神さまがおられないところはこの世界のどこにもないということ、神さまはこの世界のどこにでもおられるということを意味しています。
 このことと調和して、詩篇139篇7節〜10節には、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
  たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
  私がよみに床を設けても、
  そこにあなたはおられます。
  私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
  そこでも、あなたの御手が私を導き、
  あなたの右の手が私を捕えます。

と記されています。
 7節の、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。

という言葉と、

  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

という言葉は並行法で同じことを述べています。それで、「あなたの御霊」と「あなたの御前」は同じことを言い換えています。そして、「あなたの御前」と訳されている言葉は、文字通りには「あなたの御顔」です。私たちが神さまのご臨在と言うときの「ご臨在」は、ヘブル語では通常この「御顔」という言葉(パーニーム)で表されます。これは、神さまが生きておられる人格的な方であられることから、神さまを私たち人間になぞらえて表しているものです。このような表し方を「擬人化」と呼びます。私たちとしては、神さまが生きておられる人格的な方であられることを、神のかたちに造られていて人格的なものである私たち自身になぞらえて理解するほかはありません。
 神さまがご自身を私たちに啓示してくださったときに擬人化という表し方を用いてくださったのは、そのような限界がある私たちに分かるようにご自身を啓示してくださったからに他なりません。このことで、神さまは限りなく身を低くしてくださっています。そして、このことは、表現の上での擬人化をはるかに越えて、さらに豊かな形で私たちへの啓示として与えられています。それは、永遠の神の御子であられる方が私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことです。ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されており、さらに18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。イエス・キリストこそは、神さまのご臨在であり、最も豊かな形での父なる神さまの啓示です。
 ここで、改めて、神さまの「遍在」と「臨在」の区別をしておきたいと思います。神さまの遍在とご臨在は決して切り離すことができませんが、異なった意味合いを伝えています。
 神さまの遍在は、文字通り「遍く在る」ということで、神さまがご自身のお造りになったこの世界のどこにでもおられるということを意味しています。もちろん、神さまは何の当てもなくどこにでもおられるのではありません。それによって、神さまはご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特性にしたがって、支えてくださり、導いてくださっています。
 これに対しまして、神さまのご臨在は、神さまの遍在の特別な面を示しています。それが「御顔」という言葉によって表されることに示されていますように、神さまが人格的に関わってくださることを意味しており、特に、神さまが贖いの御業を遂行されるに当たって、救いとさばきをもってそこに臨まれることを表しています。
 表題において、敵に取り囲まれた状態の中から救い出されたダビデの経験を歌っていると言われている、詩篇18篇9節〜17節には、

  主は、天を押し曲げて降りて来られた。
  暗やみをその足の下にして。
  主は、ケルブに乗って飛び、
  風の翼に乗って飛びかけられた。
  主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。
  その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。
  御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。
  それは雹と火の炭。
  主は天に雷鳴を響かせ、
  いと高き方は御声を発せられた。
  雹、そして、火の炭。
  主は、矢を放って彼らを散らし、
  すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。
  こうして、水の底が現われ、
  地の基があらわにされた。
  主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。
  主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、
  私を大水から引き上げられた。
  主は私の強い敵と、私を憎む者とから
  私を救い出された。
  彼らは私より強かったから。

と記されています。ここには、主がご自身の契約の民のために救いとさばきを執行されるために、この地にご臨在されたことが記されています。ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられる主が、

  天を押し曲げて降りて来られた。

と言われています。
 このように、神さまのご臨在は、特にご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださるために、そこに臨んでくださることを意味しています。それは、別の面から言いますと、神さまに敵対して働いている暗やみの主権者たちに対するさばきの執行をともなうものでもあります。このことは、さまざまな機会にお話ししてきたことですので、詳しいことは省略しますが、創世記3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」が、神である主に敵対するために、最初の人を罪に誘った「」の背後にいて働いていたサタンに対するさばきの言葉として与えられていることに照らして見ますと、よく理解することができます。
 これらのことから分かりますように、無限、永遠、不変の存在であられる神さまは、ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられます。そして、そのすべてを真実な御手をもって支えておられます。これを、私たちは神さまの「遍在」と呼んでいます。そのように、この世界のどこにでもおられる神さまは、また、ご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださるために、特別な意味で、主の民とともにいてくださいます。私たちは、それを、神さまの「ご臨在」と呼んでいます。
 神さまが「」におられるということは、この神さまのご臨在のことを指しています。それで、神さまが「」におられるということは、神さまがご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださることと関わっています。それは、神さまがご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行されるためのご臨在であるのです。
 たとえば、詩篇11篇4節〜7節に、

  主は、その聖座が宮にあり、
  主は、その王座が天にある。
  その目は見通し、
  そのまぶたは、人の子らを調べる。
  主は正しい者と悪者を調べる。
  そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
  主は、悪者の上に網を張る。
  火と硫黄。
  燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
  主は正しく、正義を愛される。
  直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

と記されていることは、このような意味での主のご臨在を表しています。
 ここで、話しが少しそれる感じになりますが、「天に」ということに限らないで、神さまのご臨在についてもう少しお話ししたいと思います。
 神さまのご臨在を「御顔」という言葉で表すということを聞きますと、すぐに思い出されることとがあります。それは民数記6章24節〜26節に記されている、一般に「祭司の祝福」と呼ばれる祝福の祈りです。それは、

  主があなたを祝福し、
  あなたを守られますように。
  主が御顔をあなたに照らし、
  あなたを恵まれますように。
  主が御顔をあなたに向け、
  あなたに平安を与えられますように。

というものです。この三つの祝福のうちの最後の二つには、主の「御顔」が出てきます。

  主が御顔をあなたに照らし、

ということと、

  主が御顔をあなたに向け、

ということは、主のご臨在が私たちとともにあることを表しています。

  主が御顔をあなたに照らし、
  あなたを恵まれますように。

という祈りにおいては、主が「御顔」を「照らし」てくださることが、恵みが与えられることと結びつけられています。聖書のほかの箇所でも、主が「御顔」を「照らし」てくださることや、主の「御顔の光」が、主の恵みによる救いの御業や守りと結びつけられています。たとえば、イスラエルの父祖たちのことを歌っている詩篇44篇3節には、

  彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、
  自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
  ただあなたの右の手、あなたの腕、
  あなたの御顔の光が、そうしたのです。
  あなたが彼らを愛されたからです。

と記されています。また80篇7節には、

  万軍の神よ。私たちをもとに返し、
  御顔を照り輝かせてください。
  そうすれば、私たちは救われます。

と記されています。この言葉は、19節でも繰り返されています。
 また、

  主が御顔をあなたに向け、
  あなたに平安を与えられますように。

という祈りにおいては、主が「御顔」を「向け」てくださることが、「平安」を与えてくださることと結びつけられています。この場合の、主が「御顔」を「向け」てくださるということは、文字通りには「御顔」を「上げてくださる」ということです。この「顔を上げる」ということは、確信や喜びや愛情などを表すことを意味しています。この場合は、主が私たちをお喜びくださる喜びといつくしみに溢れた「御顔」を私たちに向けてくださることを意味しています。ある人は、主が笑顔を向けてくださることだと言っていますが、まさにそのような感じです。
 主のご臨在は、主がご自身の契約の民の救いの御業と、ご自身に敵対する暗やみの主権へのさばきを遂行してくださるためのものです。それで、主の聖なる御怒りの「御顔」が向けられることもあるわけです。そのような場合には、主の「御顔」は恐れとおののきをもたらすものです。
 しかし、ここでは、主が私たちへの喜びといつくしみに溢れた「御顔」を向けてくださることによって、私たちに「平安」が与えられると言われています。この「平安」は一般によく知られているシャロームです。いくつかの機会にお話ししましたが、これは、必ずしも波風が立たない状態のことを意味しているわけではありません。もちろん、波風が立たない状態にあることも、このシャロームに含まれますが、シャロームはそれ以上のものでもあります。
 マルコの福音書4章35節〜41節には、

さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

と記されています。
 これは、ガリラヤ湖の上での出来事です。ご存知のように、イエス・キリストの弟子たちの中のペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、それぞれ兄弟でともに漁師でした。そのような者たちにもどうすることもできないほどの「激しい突風」が起こりました。弟子たちも死の危険を感じている中で、

ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

と言われています。この後、形としては、弟子たちがイエス・キリストを起こして嵐を静めていただいたので、弟子たちは救われたということになっています。けれども、イエス・キリストは、

どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。

と言われて、弟子たちを叱っておられます。その後に記されています、

風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。

という「大きな恐怖に包まれ」た弟子たちの驚きの言葉から、弟子たちはイエス・キリストがどなたであるかを悟っていなかったことが分かります。そして、弟子たちがイエス・キリストから、

どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。

と言われて叱られたのは、弟子たちが、イエス・キリストがどなたであるかを悟っていなかったためであることが分かります。
 そうしますと、この場合、もし弟子たちが、イエス・キリストがどなたであるかを悟っていたとしたら、どうしていたことでしょうか。おそらく、「自分たちがこのガリラヤ湖の上にいることは、イエスさまのみこころによっている。イエスさまは永遠の神の御子であられるから、この風も波も治めておられる。また、イエスさまは、自分たちのことを忘れてしまわれることは決してない。だから、イエスさまが眠っておられるということは、まだ大丈夫ということなのだ。自分たちはイエスさまに信頼して進んでいこう。」というように考えていたことでしょう。もし弟子たちがこのように考えていたとしたら、弟子たちの苦闘は続いたはずです。しかし、行くべき所に着いたはずです。その場合、弟子たちの中に恐怖感がなくなるということではありません。恐れがわき上がるたびにイエス・キリストを信じて、自分たちの分を果たしたということです。
 これはイエス・キリストを絶対的に信頼している状態ですが、これには、そこまでは行かないけれども、それなりの信仰を表すこととして、もう一つの可能性もあります。それは、弟子たちがイエス・キリストを信頼して、イエス・キリストを起こしていたであろうという可能性です。
 そのことを踏まえた上でのことですが、シャロームについて考えるための仮定として、弟子たちが永遠の神の御子であられるイエス・キリストにまったく信頼して、イエス・キリストを起こさなかったという方を考えてみましょう。その場合、弟子たちを支えているのは、永遠の神の御子であられるイエス・キリストがともにいてくださるということ、すなわち、イエス・キリストのご臨在です。そして、そこには、イエス・キリストのご臨在にからあふれ出る「平安」があるわけです。これが、ただ単に回りの状況が波風が立たない状態にあるということを越えて、なおあるシャロームの姿です。
 神さまのご臨在はご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださるために、神さまがご自身の民の間に臨んでくださることです。永遠の神の御子が人の性質を取って来てくださったことは、まさに、神さまのご臨在としての意味をもっています。そして、先ほど引用しました「祭司の祝福」における、

  主があなたを祝福し、
  あなたを守られますように。
  主が御顔をあなたに照らし、
  あなたを恵まれますように。
  主が御顔をあなたに向け、
  あなたに平安を与えられますように。

という祈りは、イエス・キリストにおいて私たちの現実となっています。父なる神さまは、イエス・キリストにおいて、「御顔」を私たちに照らしてくださり、イエス・キリストにおいて、喜びといつくしみの「御顔」を私たちに向けてくださるのです。

 


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