(第46回)


説教日:2006年1月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています、主の祈りについてのお話を続けます。これまで、その最初の言葉である、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけについてお話ししてきました。先週は私が日本長老教会の姉妹教会の一つにおいて奉仕させていただきましたので、主の祈りのお話は一週空いてしまいましたが、いつものように、簡単に復習しながらお話を進めていきたいと思います。
 前回は、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけにおいて示されている、父なる神さまが「」におられるということについてのお話を始めました。この、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけは、神さまは「」におられ、「」は神さまのおられるところであるということを意味しています。
 ところが、神さまは存在とすべての属性において無限、永遠、不変の方です。また、神さまはこの世界とその中の見えるものも見えないものも、すべてお造りになり、真実な御手をもって支えておられます。前回も引用しましたネヘミヤ記9章6節には、

ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

と記されています。この「天の天」は「最高の天」という意味で、そこが神さまのおられるところであると考えられます。ところがここでは、「天の天」は神さまによって造られたものであると言われています。そうしますと、存在において無限の神さまが、造られたものとしての限界がある「」におられるということはどういうことであるのかという疑問が生じます。
 これも前回引用しましたが、列王記第一・8章27節には、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

というソロモンの祈りが記されています。この祈りに示されていますように、「天も、天の天も」無限、永遠、不変の神さまを「お入れすることはできません」。
 このことから私たちが心に留めておきたいことは、確かに、神さまは天におられますが、「」は神さまを包み込むように入れることはできないということです。その点は、私たちの場合と違っています。私たちが家にいると言いますと、私たちは家の中に入っています。家の方が私たちより大きさが大きいからです。けれども、神さまのお住まいである「」は、そこにお住まいになる神さまを入れることはできません。ですから、「」が神さまのお住まいであるということは、「天も、天の天も」お入れすることができない神さまが、ご自身のみこころによって「」にご臨在しておられるということを意味しています。そのように神さまが「」にご臨在しておられることには、意味と目的がありますが、それについては後ほど少し触れますが、より詳しいことは日を改めてお話しします。そのことをお話しする前に考えておきたいことがあるからです。


 エレミヤ書23章24節には、

  人が隠れた所に身を隠したら、
  わたしは彼を見ることができないのか。
  ―― 主の御告げ。――
  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
  ―― 主の御告げ。――

と記されています。
 これは偽預言者を告発する主の御言葉の一部です。人の目に隠れているとしても、すべてのことが神である主の御前には明らかであることが示されています。そして、その根拠として、

  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

と言われています。
 この、

  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

と訳されている言葉は、文字通りには、

  わたしは天と地を満たしていないだろうか。

です。そして、「天と地を」というのは、創世記1章1節で、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「天と地を」と同じヘブル語の慣用句で、この世界とその中のすべてのものを指しています。神さまはご自身がお造りになったすべてのものを満たしておられるということです。この場合、神さまが何によってご自身がお造りになったすべてのものを満たしておられるのかが問題になります。これについては、その前で、

  人が隠れた所に身を隠したら、
  わたしは彼を見ることができないのか。
  ―― 主の御告げ。――

と言われていて、神さまの存在とこの世界の関係のことが問題になっています。それでこれは、神さまがご自身のご臨在によってこの世界のすべてを満たしておられるということであると考えられます。このようなことから、新改訳は、

  天にも地にも、わたしは満ちている

と訳していると考えられます。
 このように、神さまはご自身がお造りになったこの世界のすべてをご自身のご臨在をもって満たしておられます。言い換えますと、神さまは「天にも地にも」、この世界のどこにでもおられるということです。ところがその一方で、神さまのお住まいは「」にある、神さまは「」におられると言われています。このことから分かることは、神さまが「」におられるということは、神さまがご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられるということとは違う、特別な意味をもったご臨在であるということです。
 それがどのようなことであるかということについては、先ほども申しましたように、日を改めてお話ししますが、それと関連することを、このエレミヤ書23章24節の前の23節に記されている主の御言葉との関わりで考えてみましょう。
 23節には、

  わたしは近くにいれば、神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいれば、神ではないのか。

と記されています。これは、

  わたしは近くにいる神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいる神ではないのか。

とも訳すことができますし、このように訳した方が、ここで主が語っておられることをよく伝えていると思われます。
 これは、神である主がご自身の契約をとおして与えてくださった約束によって、ご自身の民としてお選びになったイスラエルとともにいてくださるということに関わっています。その約束は、まず出エジプト記24章8節、9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されている主がシナイ山でモーセに語ってくださった御言葉に示されています。ここで、神である主はご自身の「聖所」にご臨在してくださると約束してくださいました。同時に、その「聖所」と「聖所」のある幕屋はイスラエルの民の考えにしたがってではなく、神である主ご自身が示されるとおりに造らなければならないと戒められました。
 その「聖所」は、イスラエルに一つしかなく、専門の祭司たちがそこで仕えているものですから、人間の感覚から言いますと、どう考えても、本物の聖所であるということになります。けれども、御言葉に示された神さまのみこころに照らして言いますと、それはイスラエルの民に大切なことを教えてくださるために神である主が用いられた地上的なひな型、いわば視聴覚教材のようなものです。
 出エジプト記26章1節には、

幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。

と記されています。主の「聖所」は、そこに主のご臨在があることを表示するとともに、主のご臨在を守っているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。神である主はこれをとおして、ご自身に罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、その罪のために、そのままではご自身の御前に立つことができないことををあかししてくださいました。人が罪あるままで主の御前に近づくなら、主の聖さを冒すものとしてさばきを受け、滅ぼされてしまいます。ケルビムはそのさばきを執行する御使いです。
 同時に、主が備えてくださるいのちの血による罪の贖いによって、その贖いにあずかる者が主の御前に近づいて、主との愛にあるいのちの交わりに生きることができるようになるという約束を示してくださいました。そのために用いられた視聴覚教材が、動物のいけにえでした。聖所で仕えた祭司たちは、聖所の前にある祭壇でいけにえの動物を屠って、主の定めにしたがってささげてから、聖所での務めを果たしました。また、イスラエルの民のためにも、さまざまないけにえとささげものが規定されていました。言うまでもなく、そのすべての本体、本物は人の性質を取って来てくださった永遠の神の御子が、ご自身の民の罪をその身に負って、十字架の上でいのちの血を流して死んでくださったことです。「聖所」と「聖所」のある幕屋にはこのような意味がありますので、それは主が示してくださったとおりに造らなければならなかったのです。
 エルサレム神殿は、このような主の契約の約束のもとに建設されました。それは壮大な神殿ではありましたが、それが地上的なひな型であり、教育的な意味をもっていたことには変わりがありません。ですから、主の「聖所」のある神殿を与えられているイスラエルの民は、その神殿があかししている自分たちの罪の現実を認めて、主の御前に身を低くしなければなりませんでした。その上で、主が約束してくださっている贖いを信じて、その恵みにより頼んで、主とともに歩まなければなりませんでした。
 ところが実際には、ユダ王国には偶像礼拝がまん延し、権力者たちによる搾取と、不義と不正が横行していました。先ほど引用したのはエレミヤ書23章23節、24節ですが、同じ章の1節には、

ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。―― 主の御告げ。――

という主の御言葉が記されています。この「牧者たち」はユダ王国の王を初めとする指導者たちのことです。本来は群れを集め、養い育てるはずの「牧者たち」が、その「群れを滅ぼし散らす」と言われて、糾弾されています。
 偽預言者たちはこのようなユダ王国の状態を助長するような働きをしていたのです。13節、14節には、

  サマリヤの預言者たちの中に、
  みだらな事をわたしは見た。
  彼らはバアルによって預言し、
  わたしの民イスラエルを惑わした。
  エルサレムの預言者たちの中にも、
  恐ろしい事をわたしは見た。
  彼らは姦通し、うそをついて歩き、
  悪を行なう者どもの手を強くして、
  その悪からだれをも戻らせない。
  彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、
  その住民はゴモラのようである。

という、偽預言者たちを糾弾する主の御言葉が記されています。
 ここに「サマリヤの預言者たち」が出てきますが、「サマリヤ」は、このエレミヤの時代にはすでに主のさばきを受けて滅亡してしまっていた北王国イスラエルの首都です。北王国イスラエルが主のさばきを受けて滅亡してしまったのは、王たちを初めとする指導者たちによる偶像礼拝と、民に対する圧制と、不義、不正が横行したからです。「サマリヤの預言者たち」はそのことをいさめて主の御名によって警告するどころか、それを助長するような働きをしたのです。ここで主は「エルサレムの預言者たち」を糾弾するときに「サマリヤの預言者たち」のことに触れておられます。それは、「エルサレムの預言者たち」が「サマリヤの預言者たち」の事例に学ぶどころか、それと同じことをしてしまっているということを指摘しておられるからです。

  彼らは姦通し、

というのは、性的な姦淫の罪を犯していたことを示している可能性もありますが、「サマリヤの預言者たち」が「バアルによって預言し」と言われていることに対応しているとすれば、偶像礼拝を取り込み、偶像を頼みとしていたことを表しているということになります。また、続く、

  うそをついて歩き、

ということは、一般的な意味で嘘を言うことを表す可能性もありますが、エレミヤはしばしばこの「うそ」という言葉(シェケル)を用いて偽りの預言を表しています。この言葉は同じ章の25節と26節にも出てきます。このような偽りの預言の結果が、

  悪を行なう者どもの手を強くして、
  その悪からだれをも戻らせない。

と言われている言葉に示されています。これは、必ずしも「エルサレムの預言者たち」が直接的に悪を行うことを推奨したり、罪を悔い改めることを阻止したということではありません。「悪を行なう者ども」にとって都合のいいことを言い続けて、結果として、彼らが罪を悟って悔い改めることができないようにしてしまったということです。
 言うまでもなく、

  彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、
  その住民はゴモラのようである。

という言葉に出てくる「ソドム」と「ゴモラ」は、アブラハムの時代にその罪が満ちて主のさばきを受けて滅びた町のことです。このことによって、ユダ王国の罪が満ちてしまっていることが示されています。
 主は、このような偽預言者を糾弾する言葉の中で、

  わたしは近くにいれば、神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいれば、神ではないのか。

あるいは、別の訳で言いますと、

  わたしは近くにいる神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいる神ではないのか。

と述べておられます。新改訳と違う訳の方でお話ししたいと思いますが、「近くにいる神」とは、ここでは、自分の手元にある神というような意味です。
 造り主である神さまに対して罪を犯して御前から堕落してしまった人間が考える神は、自分たちに都合のいい神です。罪を犯して堕落してしまった人間は、自分たちがその神を担げば、その神は自分たちを守ってくれるというように考えます。そこには一種の取り引きの関係があります。自分たちが神を必要としているだけではなく、その神も自分たちを必要としているということです。それで、自分たちが神のために神殿を建設し、神に供え物をささげたりして、神の世話をすると、神は自分たちのために働いてくれるというように考えるのです。そのような考え方は、形や表れ方が違っても、根本にある発想は同じで、どの時代のどの文化の中にも見られるものです。
 「エルサレムの預言者たち」もこのような考え方をもっていたと考えられます。ユダ王国には主のための神殿があり、祭司たちがそこで仕えていました。そのような神殿があるかぎり、主はユダ王国のために働いてくださる。王を初めとする国の指導者たちが悪事を働き、民をしいたげている現実には目をつむり、神殿を中心とした祭儀が滞りなく行われていることで、主はユダ王国を守ってくださるという預言をし続けたわけです。16節、17節には、

  万軍の主はこう仰せられる。
  「あなたがたに預言する預言者たちの
  ことばを聞くな。
  彼らはあなたがたを
  むなしいものにしようとしている。
  主の口からではなく、
  自分の心の幻を語っている。
  彼らは、わたしを侮る者に向かって、
  『主はあなたがたに平安があると告げられた。』と
  しきりに言っており、
  また、かたくなな心のままに歩む
  すべての者に向かって、
  『あなたがたにはわざわいが来ない。』と
  言っている。」

という主の御言葉が記されています。
 先ほど、「エルサレムの預言者たち」が、

  彼らは姦通し、

と糾弾されていることは、彼らが偶像の神を頼みとしていた可能性があるということをお話ししました。それは、彼らが主の御名によって語らなかったという意味ではありません。彼らは主の御名によって語っていたのです。けれども、彼らは主を人の支えを必要としている偶像の神と同じような発想で考え、その考えに基づいて判断を下し、それを民に語り続けたのです。それは、実質的に主を偶像化することです。そして、そのように偶像化された神こそが、主が、

  わたしは近くにいる神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいる神ではないのか。

と言っておられるときの「近くにいる神」です。
 本来「近くにいる神」とは、神である主が先ほどお話ししました契約に基づいて、ご自身の民の間にご臨在してくださることを指す言葉であるはずです。実際に、主はご自身の契約に基づいてイスラエルの民の間にご臨在してくださいました。そして、イスラエルの民が主の御前にあって、主に仕えるようにしてくださいました。本来は、主がご自身の「聖所」をとおして示してくださっている自分たちの罪の現実を認めて、御前に身をを低くし、主の備えてくださる贖いの恵みに頼って、主とともに歩むべきでした。ところが、イスラエルの民は主が自分たちとともにいてくださることを誤解して、偶像の神と同じような発想をもって主のことを考えるようになってしまったのです。そのようにして、「近くにいる神」の理解は、根本的に歪められてしまいました。
 そうしますと、「遠くにいる神」とは、その正反対で、人間が神殿を建てたり、ささげものをささげることによって手なずけることができない神、自分たちの都合のとおりに働かせることができない神のことです。生きておられて、人間の世話を必要とされないばかりか、天と地とその中のすべてのものをお造りになって、そのすべてを支えておられる神のことです。この場合、「遠くにいる神」とは、特に、ご自身のみこころをもっておられて、それをご自身が治めているこの世界のすべてのものに対して行っておられる主権者であられる神さまを表すものです。
 ですから、

  わたしは近くにいる神なのか。
  ―― 主の御告げ。――
  遠くにいる神ではないのか。

という主の御言葉は、主が「遠くにいる神」であられること、すなわち、人が手なずけることのできない神、お造りになったすべてのものに対してみこころをなされる主権者であられることを示しています。
 すでにお気づきのことと思いますが、ここで「遠くにいる神」という御言葉で表されていることが、神さまが「」におられるということに当たります。神さまが「」におられるということは、神さまがご自身がお造りになったすべてのものを、何ものにも左右されることなく、ご自身のみこころに従って治めておられる主権者であられることを意味しています。ローマ人への手紙11章33節〜36節には、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と記されています。神さまが「」におられるということにはさまざまな意味がありますが、その最も大切なことの一つとして、神さまがこのような主権者であられることを意味しています。

 


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