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説教日:2006年1月8日 |
このことには、いくつかのことが関わっていますが、それを考える前に、私たちがしっかりとわきまえておかなければならないことがあります。 神さまは存在においても知恵と知識においても無限、永遠、不変の方です。これに対して、神さまによって造られたものである私たちには、被造物であることからくる限界があります。私たちは、存在においても知恵と知識においても、限りがあり、時間的な経過の中にあって、変わっていくものです。そのために、私たちは「無限」、「永遠」、「不変」という言葉を使いはしますが、それらが神さまのこととして、どのようなことであるかを、ありのままに、あるいは完全に知ることはできません。言うまでもなく、神さまは、このすべてをご自身のこととして完全にご存知です。 また、そのことと関わっていることですが、私たちは存在と知恵と知識において無限、永遠、不変の方であられる神さまと、神さまによって造られたこの世界がどのように関わっているかを、ありのままに知ることもできません。さらに言いますと、私たちには、神さまと、神さまのお住まいであるとされる「天」の関係、また、この「天」と、私たちが住んでいるこの世界の関係がどのようになっているかも、ありのままに知ることはできません。言うまでもなく、これらのことは、神さまにはすべて明らかなことです。 これらのことをわきまえることは、造り主である神さまと神さまによって造られた私たちとの絶対的な区別をわきまえるということです。それで、これは神さまの聖さに関わっています。この区別をわきまえないままに、神さまを私たちの議論の俎上に載せて論じることは、神さまを私たちのイメージにしたがって作り上げていくことになってしまいます。そして、神さまの聖さを冒すことになってしまいます。それで、私たちは自分自身の限界をわきまえつつ、しかし、神さまが福音の御言葉をとおしてご自身について示してくださっていることは、できる限り理解し、知ろうとする姿勢が大切です。 まずは、このようなことを心に刻んだうえで、お話を進めていきます。 最初に、その当時のユダヤ社会において「天」のことがどのように考えられていたかということについて、一つのことをお話しします。 列王記第一・8章27節には、ダビデの子であるソロモンが主の神殿を建設して、それを奉献するに当たって祈った祈りの言葉の一部が記されています。そこには、 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。 と記されています。これと同じような言葉は、ネヘミヤ記9章6節に、 ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。 と記されています。これは、バビロンの捕囚から帰還して主の神殿の再建に携わった人々が、主の律法の言葉を聞いて自らの罪と先祖たちの咎を告白した時のことを記している中に出てくるもので、レビ人たちの言葉です。 これらの箇所には「天」という言葉と「天の天」という言葉が出てきます。ヘブル語では「天」は複数形で表されますす。それは「天」の広大さを示す複数形、いわゆる「尊厳の複数」です。また「天の天」という言い方は最上級を示すもので、「最も高い天」というような意味になります。 これら二つの箇所に記されていることとの関連で注意しておいていただきたいのは、神さまは「天と、天の天」をお造りになった方であり、「天も、天の天も」神さまをお入れすることはできないということです。神さまは「天と、天の天」をはるかに越えた方です。私たちが主の祈りにおいて、 天にいます私たちの父よ。 と神さまに呼びかけるときの「天」に神さまはおられるのですが、その「天」は神さまをお入れすることはできないということです。これがどのようなことであるかについては、今日ではありませんが、後ほどお話しします。 これらの箇所に記されていますように、「天」という言葉と「天の天」という言葉の積み重ねがあるということに基づいて、その当時のユダヤ教のラビの神学においては、「天」にはいくつかの階層があるという考え方がありました。そして、その数については、二つの階層があるという意見から始まって、三つの階層、五つの階層、七つの階層、さらには十の階層があるというように、意見が分かれていたようです。その中で最も一般的なものは七つの階層があるというもので、それは後ののクリスチャンの著作家たちにも受け継がれた意見であるようです。しかし、このソロモンの祈りの言葉から、「天」にいくつの階層があるかということを結論づけることはできません。 それでは、これらはまったくの思弁であって無意味なことであるかというと、そうとも言いきることはできません。コリント人への手紙第二・12章1節〜4節にはこの手紙を書いたパウロの経験が記されています。そこでは、 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に と言われています。 ここでパウロは、自分が「第三の天にまで」引き上げられたと言っています。この場合パウロは、この「第三の天」が「最も高い天」であると考えていたと考えられます。というのは、「第三の天にまで」というときの「にまで」という言葉(ヘオース)は最終地点を示す言葉であるからです。また、これと同じことが4節では、 パラダイスに引き上げられ と言われています。後ほどお話ししますが、この「パラダイス」は神さまのご臨在のあるところとして「最も高い天」を示しています。 ここでパウロは、パウロに敵対する者たちがパウロには、幻を見たり、啓示を受けたりするような特別な経験がないというような批判をしていることに対して答えようとしていると考えられます。1節で、 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。 と述べていることからもうかがわれますように、パウロはここに記されている自分の経験をあまり語らなかったようです。パウロとしてはもっぱら福音の御言葉を宣べ伝えていたわけです。そのことから、幻を見たとか啓示を受けたということを吹聴して人々を引きつけていた者たちは、パウロは特別な経験をしていないというような批判を受けていたのではないかと思われます。その場合に、パウロが引き上げられたのが七つの階層、すなわち第七の天があるうちの「第三の天」にまで引き上げられたというのであれば、敵対者たちは、パウロは「第三の天」に引き上げられただけだというようなケチをつけてくることでしょう。けれども、パウロに敵対する人々にはそのような言いがかりをつける余地はありません。そのようなこともあって、パウロはこのような自分の経験をあえて述べているのであると思われます。 そうしますと、このパウロの、 第三の天にまで引き上げられました という言葉から、「天」には三つの階層があると結論づけることができるのでしょうか。これについては、明確なことは言えません。というのは、この「第三の天」という言葉も、先ほどの「天の天」という言葉と同じように、最上級を示すもので「最も高い天」という意味であるという可能性もあるからです。いずれにしましても、ここでパウロは自分が神さまのご臨在の御前にまで引き上げられた、そして啓示を受けたということを述べていると考えられます。ちなみに、4節に記されています、 人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 ということは、パウロが啓示を受けたことを指していると考えられます。 ここでパウロが、 第三の天にまで引き上げられました と述べていることに基づいて、「天」には三つの階層があると考えている人々の間でも、具体的なことになると意見が一致しているわけではありません。 このうち、「第一の天」は、今日の言葉で言う大気圏、大空のことであるという点では、意見は一致しているようです。創世記1章6節〜8節には、 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。 と記されています。また、使徒の働き14章16節、17節には、 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです と記されています。 さらに、「第三の天」が神さまのご臨在しておられるところであるという点でも、意見は一致しています。「天」には三つの階層があると考えている人々にとっては、それが「最高の天」であるわけですから、当然のことです。 意見が分かれるのは、「第二の天」がどのようなものであるかということにおいてです。ある人々は、「第二の天」とは天体があるところ、すなわち、今日の言葉で言う宇宙空間のことであると考えています。他の人々は、その宇宙空間も物理的な天として「第一の天」に含まれると考えます。そのように考える人々は、「第二の天」は悪霊たちが住んでいるところであると考えます。霊的な戦いのことを記しているエペソ人への手紙6章12節には、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されています。この人々は、「天にいるもろもろの悪霊」と言われているときの「天」が「第二の天」であると考えているのです。 「第二の天」についての、これら二つの見方にはそれぞれ問題となることがあります。けれども、この問題には触れることは差し控えます。というのは、先ほどお話ししましたように、パウロが、 第三の天にまで引き上げられました と述べていることに基づいて、「天」には三つの階層があると結論づけることはできません。それで、「第二の天」が何であるかを論じることには、あまり意味がないからです。 これまでお話ししてきたことから私たちが心に留めておくべきことは、少なくとも、この世界の物理的な「天」と、神さまがご臨在されるところとしての「天」、いわば「霊的な天」があり、この二つの「天」は区別されるということです。 このうちの神さまがご臨在されるところとしての「天」が、パウロの言う「第三の天」、「最も高い天」です。そして、私たちが主の祈りにおいて、 天にいます私たちの父よ。 と父なる神さまに呼びかけるときの「天」は、この神さまがご臨在されるところとしての「最も高い天」のことです。 先ほど引用しましたパウロの経験を記しているコリント人への手紙第二・12章2節〜4節には、 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に と記されていました。 ここでは、2節で、 第三の天にまで引き上げられました と言われていることが、4節で、 パラダイスに引き上げられて と言われています。 ここで「パラダイスに」と言われているときの「に」というのは、先ほどお話ししました「第三の天にまで」の「にまで」が「終着点」を表すのとは違って、ごく一般的な「に」あるいは「の中に」という言葉(エイス)で表されています。後ほどこのことに触れますので、心に留めておいてください。 この「パラダイス」は、もともとはペルシャの王や貴族たちの、壁に囲まれた「庭園」、「園」を表す言葉でした。これがギリシャ語化されて聖書の中で用いられています。これは、聖書では、創世記2章に記されている神さまのご臨在の場であったエデンの園を原形としています。聖書の中では、エデンの園を「パラダイス」という言葉で表している事例はありません。けれども、「パラダイス」の原形となっているのは神さまのご臨在の場であるエデンの園です。そして、このエデンの園がより豊かなものとして完成することが、黙示録22章1節〜5節に、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。ここに記されていることから分かりますように、「パラダイス」とは「神と小羊との御座」のあるところ、神さまのご臨在のあるところです。 ここで問題なのは、この「第三の天」と「パラダイス」は同じものかということです。 これについては、この二つは別のものであると論じる人々がいます。その人々は、パウロはまず「第三の天」に引き上げられて啓示を受け、次に、神さまの御座のある「パラダイス」にまで引き上げられたと主張します。そして、この「パラダイス」が「第七の天」であるというのです。この見方は、天には「第七の天」までの階層があるということを前提としています。けれども、天には「第七の天」までの階層があるということには御言葉の根拠がありません。むしろ、御言葉の示すところでは、先ほどお話ししましたように、「第三の天にまで」ということは終着点を示していると考えられますので、このような主張には無理があります。 そうしますと、「第三の天」と「パラダイス」は同じものであるということになります。ところが、これにはもう一つの見方があります。それは、先ほどお話ししました「第三の天にまで」と言われているときの「にまで」と「パラダイスに」と言われているときの「に」あるいは「の中に」の違いに注目して、「第三の天」と「パラダイス」を全体と部分の関係にあると考えるのです。つまり、パウロは「第三の天」という「最高の天」にまで引き上げられ、さらに、その「第三の天」の中でも「パラダイス」という神さまの御座のあるところにまで引き上げられたというのです。 これも可能な見方ですが、最初に「第三の天にまで」というように「にまで」という言葉を使ったので、次には「パラダイスに」といえば十分であったと考えることもできます。また、「パラダイス」が「神と小羊との御座」のあるところとして、「第三の天」の中でも特別なところであるというのであれば、まさにそこにまで引き上げられたことこそが大切なことなのですから、先ほどの「にまで」という言葉(ヘオース)を「パラダイス」の方につけて、 第三の天に引き上げられた と言ってから、 パラダイスにまで引き上げられた と言った方がいいのではないかと思います。 このように、「第三の天」と「パラダイス」を全体と部分の関係にあると考えることには十分な根拠はありません。その場合には、「第三の天」と「パラダイス」は同じものであるということになります。 これらのどちらの見方を取るべきかということに関しては、それを判断するのに十分な材料がなく、決定的なことを言うことはできませんが、私はこの二つは同じものを指していると考えています。。 いずれにしましても、この「パラダイス」は「第三の天」であって(あるいは「第三の天」にあって)、そこは「神と小羊との御座」のあるところです。そして、私たちが主の祈りにおいて、 天にいます私たちの父よ。 と祈るときの「天」は、この「最高の天」としての「第三の天」であり、そこでは父なる神さまは「神と小羊との御座」に着座しておられます。ちなみに、この「神と小羊との御座」の「御座」は単数で一つの「御座」です。 このことからいくつかのことが考えられますが、今日はその一つのことをお話しします。 黙示録22章1節〜5節に記されていることから分かりますように、世の終りに再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地においては、私たちはこの「神と小羊との御座」のある「パラダイス」の豊かさにあずかるものとなります。それは、「神と小羊」のご臨在にともなう豊かさに満たされ、神さまとの愛にあるいのちの交わりが完成するということです。その意味で、この「パラダイス」に住まうものとしていただくことは、終りの日に向けての私たちの望みであります。私たちが、 天にいます私たちの父よ。 と祈るときの「天」は私たちの慕うべき方、「神と小羊」のおられるところであり、私たちの慕うべきところでもあります。そこは「神と小羊との御座」のあるところであり、私たちは「小羊」と一つに結び合わされています。そして、このことのゆえに私たちはそこに住まうようになるのです。 同時にこの「パラダイス」に住まうことは、すでに主に召されてこの世を去った聖徒たちにおいて実現し始めている現実でもあります。そのことを示すものとして、ルカの福音書23章41節には、イエス・キリストとともに十字架につけられた犯罪人の一人が、その十字架の上でイエス・キリストを信じて、自らの罪を告白したことが記されています。他の福音書の記事によりますと、この犯罪人ももう一人の犯罪人と一緒にイエス・キリストのことをののしっていました。それが十字架の上のイエス・キリストとその御言葉に触れるうちに、イエス・キリストを信じるようになったのだと思われます。続く42節には、この人が、 イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。 と言ったことが記されています。 あなたの御国の位にお着きになるとき という言葉は「神と小羊との御座」を思い起こさせます。もちろん、この犯罪人がそのことを分かっていたということではありません。この記事を読んでいる私たちには、この二つのつながりが見えるということです。もちろん、イエス・キリストご自身は、 あなたの御国の位にお着きになるとき ということが本来はどのようなことであるかをご存知であられて、この犯罪人の言葉をお聞きくださっています。 これらのことを受けて43節には、 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 と記されています。 |
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