(第44回)


説教日:2006年1月1日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りの最初の言葉は、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけです。ギリシャ語原文の順序は、最初に「父よ」という呼びかけがあり、これに「私たちの」と「天にいます」という説明が続いています。これまで、これにしたがって、まず、神さまに向かって「父よ」と呼びかけることについてお話ししました。そして、それに続いて私たちが呼びかけている神さまが「私たちの父」であられることの意味についてお話ししてきました。
 先週は降誕節の礼拝で、主の祈りのお話はお休みしました。それで、今日は、先にお話ししたことを復習しながら、補足をしていきたいと思います。
 父なる神さまへの、

  天にいます私たちの父よ。

という呼びかけにおいては、父なる神さまが「私たちの父」であられることが意識されています。父なる神さまは私一人だけの「」ではなく、「私たちの父」であられます。
 本来、父なる神さまを「わたしの父」と呼ぶことができる方は、永遠の神の御子であられるイエス・キリストです。もちろん、私たちも父なる神さまのことを「私の父」と呼ぶことができます。けれども、その根拠はイエス・キリストの場合と異なっています。
 御子はご自身が無限、永遠、不変の神であられ、永遠に父なる神さまからお生まれになっておられる方です。御子が永遠に父なる神さまからお生まれになっておられるということは、私たちには十分に理解することができません。ある程度の説明をしますと、時間や時間の経過に伴う変化は、神さまによって造られたこの世界のものです。この世界が造られなければ時間もなく、変化というものもありません。また、この世界のすべてのものは、時間の中にあり、時々刻々と経過していくものです。けれども、御子は造られた方ではなく、この世界のすべてをお造りになった方です。それで、御子は時間の中にあって経過したり、変化したりする方ではありません。その御子は永遠に父なる神さまからお生まれになった方として存在しておられるのであって、御子がある時に生まれたということはありません。
 このように、御子は永遠に神の御子であられ、父なる神さまを「わたしの父」とお呼びになる方です。御子イエス・キリストはそのような方として、人の性質をお取りになって来られた時も、父なる神さまに向かって「わたしの父」と呼びかけられました。


 これに対しまして、私たちは造られたものであり、御子イエス・キリストとは別の意味で父なる神さまの子どもとされています。エペソ人への手紙1章4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。父なる神さまは「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」。ここで「ご自分の子にしようと」と訳されているときの「子とすること」という言葉(フイオセシア)は「養子とすること」を表します。
 父なる神さまは自分の罪過と罪によって死んでいた私たちを「ご自分の子」としてくださるために、ご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださいました。御子は、この父なる神さまのみこころに従って人の性質をお取りになってこの世に来てくださり、この世において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされました。御子イエス・キリストは私たちの罪をご自身の身に負ってくださり、十字架にかかってくださり、私たちの罪に対する神さまのさばきをすべて受けてくださいました。これによって私たちの罪はすべて完全に清算されています。
 さらに、御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまに従いとおされたことに対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。これも、私たちのための贖いの御業です。これによって、イエス・キリストと一つに結び合わされた私たちは、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、そのいのちによって新しく生きる者となりました。
 ヨハネの福音書3章3節には、ユダヤ人の指導者であったニコデモに対するイエス・キリストの、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

という教えが記されています。ここでイエス・キリストが言われる、「新しく生れる」ことは、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるようになることです。さらに、これに対するニコデモの問いかけに対して、5節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

というイエス・キリストのお答えが記されています。この場合の「水と御霊によって生まれる」ことは、エゼキエル書36章25節、26節に記されている、

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

という主の約束を受けていると考えられます。「水と御霊によって生まれる」ことは一つのことで、御霊によって生れることを示していると考えられます。それは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちを栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださることを意味しています。
 このように、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを、福音の御言葉にしたがって信じた私たちは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いにあずかっています。そして、罪を完全に贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるようにしていただいています。さらに、私たちは父なる神さまの養子として迎え入れられています。ヨハネの福音書1章12節、13節には、

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

と記されています。
 私たちは、このような父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みにあずかっているので、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのです。
 ですから、私たちが父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのは、父なる神さまの一方的な愛から出たみこころによることであり、御子イエス・キリストの一方的な恵みによることです。私たちのうち誰一人として、自らの資質や力や業績によってこの祝福にあずかっている者はいません。このことを深く心に留めるとき、私たちはこのことにおいて父なる神さまの永遠の愛に基づくみこころがすべてであることを認めて、御前に頭を垂れます。そして、この父なる神さまの愛が、同じく、御子イエス・キリストの恵みにあずかって、神の子どもとされているいるすべての人に注がれていることを心に銘記します。
 父なる神さまと御子イエス・キリストを信じる信仰は個人的(パーソナル)なものです。けれども、それは個人主義的なものではありません。私たちそれぞれが自分で福音の御言葉を聞いて納得し、自分の意志で父なる神さまと御子イエス・キリストを信じるものであるという点で個人的(パーソナル)なものです。その意味で、父なる神さまは「私の神」であられ、御子イエス・キリストは「私の主」です。そのことを示す例として、ヨハネの福音書20章28節には、十字架にかかって死なれた後、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストに出会ったトマスが、イエス・キリストに向かって、

  私の主。私の神。

と告白したことが記されています。
 けれども、このことは、父なる神さまが私一人だけの父であられるとか、御子イエス・キリストが私一人だけの主であられるという意味ではありません。私には三人の子どもがいます。その一人一人が、私のことを人に話すときには、「私の父は」と話し始めるでしょう。けれども、どの子も私のことを自分だけの父であるとは思っていません。これは、父なる神さまと私たちの関係においても同じです。
 先ほどのトマスの告白を記したヨハネは、その第一の手紙4章19節〜5章1節において、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

と教えています。
 19節で、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と言われているときには、誰を愛しているのかということは示されていません。これに「神を」あるいは「彼を」という言葉を補足している写本もかなりありますが、これは「誰を愛しているのか」という、自然にわいてくる疑問に答えようとして付け加えられたものであると考えられます。また、もともと「神を」あるいは「彼を」という言葉があったとしたら、それをどうして削除しなければならなかったかの説明がつかなくなります。それで、ここでは、誰を愛しているのかということは示されていないとすべきです。そして、それが誰に対する愛であれ、私たちに愛があるのは、先に神さまが、その一方的な愛をもって私たちを愛してくださったからである、ということが示されていると考えられます。この少し前にある9節、10節では、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われています。
 19節に戻りますが、ここで、

  私たちは愛しています。

と言われているときの「私たちは」は強調の形です。普通ギリシャ語では主語はそれとして表されないで、動詞の人称と数によって表されます。この場合には、「愛しています」という動詞が一人称の複数ですので、「私たち」という言葉がなくても、その主語は「私たち」であることが分かります。けれども、ここでは、「私たち」(ヘメイス)という言葉が述べられていることと、それが冒頭に置かれていることで、「私たちは」が二重に強調されています。他ならぬこの「私たちが」愛しているのだ、というような感じでしょうか。なんと、かつては罪過と罪の中に死んでいたこの「私たちが」愛している。それはひとえに神さまが私たちを愛してくださったからであるというのです。私たちの愛は、父なる神さまの御子をも賜った愛から出ており、神さまの愛に支えられており、神さまの愛を映し出しているのです。
 このことを受けて、20節では、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません

と言われています。これによって、神さまを愛することと兄弟を愛することは一つのことの裏表であって互いに切り離すことができないことが示されています。この場合の「兄弟」は、主にある兄弟姉妹とは限らないという意見もありますが、5章1節で、

イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

と言われていることから分かりますように、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、神の子どもとされている者たちのことです。
 ここで、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら

と言われているときの「兄弟を憎む」ということは、私たちが普通に考えることと違っていて、より意味が広いことです。これは、その後で、

目に見える兄弟を愛していない者に

と言い換えられていますように、「兄弟を愛していない」ことを意味しています。そして、その典型的な現れが兄弟に憎しみを覚えることなのです。これは聖書によく見られる表現の仕方で、いわゆる「中間状態」がないことを示しています。この場合は、「愛していないけれども、憎んでもいない」というような状態はないということです。「愛していないけれども、憎んでもいない」ということは、私たちがそのように考えるだけのことです。神さまの御前ではそのようにはなっていません。神さまのみこころは、21節に、

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

と記されていますように、兄弟を愛することです。さらに、先ほど引用しました5章1節では、

イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

と言われていました。兄弟を愛することは、神さまの戒めであるだけでなく、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れている者にとっては、最も自然なことなのです。なぜなら、イエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性は愛であるからです。ですから、兄弟を愛するようにという神さまの戒めは、イエス・キリストの復活のいのちによって生きている者の自然なあり方を示しています。このように、「兄弟を愛していない」ということは、神さまのみこころに反することですし、私たちを新しく生かしているイエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性に反することなのです。
 イエス・キリストが、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるようにと教えてくださったこと、「わたしの父」ではなく「私たちの父」と呼びかけなさいと教えてくださったことには、このような事情があります。
 このこととの関連で思い出されることがあります。
 マタイの福音書6章では、主の祈りによる教えに先立って、5節〜8節には、祈りに関するイエス・キリストの教えが記されています。その中の6節には、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と記されています。
 すでにこの部分を取り上げたときにお話ししたことを繰り返すことになりますが、6節の冒頭には「あなたは」という言葉が出てきます。これは、先ほど触れましたヨハネの手紙第一・4章19節に記されている、

  私たちは愛しています。

という御言葉の「私たちは」と同じで、「あなたは」が二重に強調されています。
 また、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と言われている中では、「あなたの」という言葉が繰り返し出てきます。ここで「自分の奥まった部屋」と訳されているのは「あなたの奥まった部屋」です。また、「戸をしめて」と言われているときの「」にも「あなたの」という言葉があります。これを生かして訳しますと、

あなたは、祈るときには、あなたの奥まった部屋にはいりなさい。そして、あなたの戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

となります。
 さらに、ここに出てくる「奥まった部屋」(タメイオン)は物を貯蔵しておくための部屋です。ここで、祈りのための部屋としてそこが選ばれているのは、その部屋が鍵がかけられる唯一の部屋であったからであると考えられます。この「奥まった部屋」に入ることによって、祈る人が一人きりになることができます。
 このように、6節では、祈りが個人的なものであることが強調されています。祈るときには、まさに一対一で神さまと向かい合い、神さまに心を向け、神さまだけに思いを集中して語りかけるということが教えられています。
 もちろん、これは、私たちがともに祈ることを否定するものではありません。イエス・キリストご自身もともなる祈りをなさいました。これは、ともに祈りをささげるときであっても、それぞれが、神さまと向かい合い、神さまに心を向け、神さまだけに思いを集中して、神さまに語りかけるようにということを教えるものです。
 イエス・キリストは、この教えを踏まえて、主の祈りを教えてくださっています。そして、私たちが祈るときには、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけなさいと教えてくださっています。それで、私たちは、それぞれの「奥まった部屋」において、父なる神さまの愛に包まれて、神さまと向かい合い、神さまに心を向け、神さまだけに思いを集中して祈るときに、イエス・キリストある兄弟姉妹たちのことを心にかけて祈るのです。兄弟姉妹たちへの愛は、父なる神さまの御前で兄弟姉妹たちを覚えることから始まります。エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。

 


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