![]() |
説教日:2005年12月18日 |
御子イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流された血によって、新しい契約を確立してくださいました。主の晩餐のことを述べているコリント人への手紙第一・11章23節〜25節に、 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 と記されているとおりです。このイエス・キリストの血による新しい契約が、私たちが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかっていることの法的な根拠です。父なる神さまは、ご自身の一方的な愛と恵みによって、私たちをこの新しい契約のうちに入れてくださり、この契約に基づいて、私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずからせてくださいました。 具体的には、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださって、私たちを復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。そのようにして新しく生まれた私たちは、福音の御言葉をとおしてあかしされているイエス・キリストを、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じて、受け入れることができるようになりました。そして、その信仰によって義と認められ、父なる神さまの子どもとしての身分を授けられました。それで、父なる神さまは、その私たちのうちに住まわれる御子の御霊を遣わしてくださり、私たちがご自身に向かって、「アバ。父」と呼ぶことができるようにしてくださいました。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおりです。 このように、私たちが父なる神さまの子どもとしての身分を与えられているのは、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった新しい契約によっています。ですから、神の子どもとしての私たちの身分は、この新しい契約に基づくものであり、神の子どもとしての私たちの歩みは、この新しい契約のうちにあっての歩みです。 当然のことですが、この新しい契約には、いわば「契約事項」とも言うべきものがあります。これには神さまの愛と恵みに満ちた聖さと義のご性格と、それに基づくみこころの表現としての律法がかかわっています。けれども、この「契約事項」には、神さまのご性格とみこころの表現としての律法のさらに奥に、より基礎的なものがあります。それは神さまの契約の祝福です。この祝福は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、父なる神さまが、私たちをご自身の子としてくださること、そして、御霊によって私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるということです。これは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章4節、5節に記されています、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 という、父なる神さまの永遠の聖定によるみこころを私たちの現実としてくださることに他なりません。 そして、このことを基盤として、神さまのご性格とみこころの表現としての律法が与えられています。その意味で、神さまの律法は神さまの契約の中に位置づけられ、契約の祝福を基礎としています。 このような基本的な構造をもっている神さまの律法は、ばらばらな戒めではなく、そのすべては、いちばん大切な二つの戒めに集約されます。大切な戒めについての律法学者の問いかけに対するイエス・キリストのお答えを記しているマタイの福音書22章37節〜40節に、 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 と記されているとおりです。このイエス・キリストの教えから分かりますように、神さまの律法は、それがどのようなものであれ、すべてこの二つの大切な戒めから出ており、この二つの大切な戒めに集約され、この二つの大切な戒めと調和します。 神さまの律法は私たちが従うべき神さまのみこころを示しています。いわば、それは私たちに対する神さまの要求です。とはいえ、それはちょうど親が子どものことを考えて踏むべき道を教えるのと同じように、私たちに対する神さまの愛と恵みのみこころを示すものです。その際に、神さまは私たちに何かを要求なさる前に、私たちに必要なものを備えてくださっています。それが、神さまの契約の中心にあります。それは、先ほど言いましたように、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、父なる神さまが、私たちをご自身の子としてくださること、そして、御霊によって私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるということです。私たちは、このような新しい契約の祝福にあずかっているので、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される神さまの律法の示す道を歩むことができるのです。 このことを、これまでお話ししたことと関連させて考えてみましょう。私たちは、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約のうちに、神さまの一方的な恵みによって入れられて、神の子どもとしての身分を与えられています。そして、この契約のうちにあって、神の子どもとしての歩みを続けています。そのように歩む私たちを導いてくださるのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。ローマ人への手紙8章14節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と記されているとおりです。ですから、神さまの一方的な恵みによって、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった契約のうちに入れていただき、神の子どもとしての歩みを続けていますが、その歩みは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される神さまの律法の示す道を歩むようになります。言い換えますと、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることと、隣人との愛にある交わりのうちに生きることです。 主の祈りにおいて、私たちは父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけます。この「私たちの父」ということは、父なる神さまが自分だけの神ではなく、同じように父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけている神の子どもたちがいることを踏まえています。ですから、この、 天にいます私たちの父よ。 という呼びかけにおいて、私たちは、父なる神さまへの愛と信頼を表しているだけでなく、ともに父なる神さまを「私たちの父」と呼ぶ神の子どもたちとのつながりを意識しています。ですから、私たちは、祈りにおいて、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることにおいて、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される神さまの律法の示す道を歩み始めるわけです。 このように、父なる神さまの一方的な愛と、御子イエス・キリストの一方的な恵みによって、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約のうちに入れていただき、神の子どもとしての身分を授けられている私たちの歩みは、御霊のお導きによって、神さまのご性格とみこころを示す律法と調和するものとなります。ローマ人への手紙8章3節後半〜4節に、 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 と記されているとおりです。また、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節には、 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 と記されています。 しかし、このように言いますと、ある人々は異議を唱えることでしょう。その人々は、私たちが救われて神の子どもとされたのは律法の行いによってではなく、ただ、イエス・キリストの恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰よったのであるから、私たちはもはや律法を守る必要はないと主張します。これは「無律法主義」という、いつの時代にも見られた考え方ですが、今日、私たちの間でよく聞かれるようになった考え方です。 確かに、私たちが救いを受けたのは、私たちがイエス・キリストを信じるようになる前の行いによることではありませんし、私たちがイエス・キリストを信じて、神の子どもとしていただいた後の行いによるのでもありません。私たちが救われて、神の子どもとしていただいたことは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストの恵みによることであり、イエス・キリストを信じる信仰によっています。エペソ人への手紙2章8節、9節に、 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 と記されているとおりです。 ですから、私たちが神さまの御前に義と認められて救われるためには律法にかなった行いをしなければならないという律法主義的な考え方は断固として退けなければなりません。そればかりではありません。私たちが神さまの御前に義と認められる状態に留まり続けるためには、義と認められて神の子どもとされた後の歩みにおいて、律法にかなった行いをしなければならないというような考え方も、律法主義的なものとして退けなければなりません。 私たちが神さまの御前に義と認められる根拠も、また義と認められ続ける根拠もただ一つです。それは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業です。イエス・キリストがご自身の十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださったことによって、私たちのすべての罪は、過去に犯した罪ばかりでなく、これから犯すであろう罪も、すべて完全に贖われています。そして、イエス・キリストが、地上の生涯において十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立てられた義が、私たちがイエス・キリストを信じたときに私たちに転嫁されて、私たちは義と認められています。このすべては、私たちに賜物として与えられたことであって、私たちは、それを信仰によって受け取っているだけです。そして、私たちが受け取っている、イエス・キリストが十字架に至るまでのご自身の生涯によって立ててくださった義は完全な義であり、私たちが神さまの御前に義と認められたことは一時的なことではなく、永遠に有効なことです。 けれども、このことは、私たちが神さまの律法の下にないということを意味してはいません。私たちは神さまのみこころによって神のかたちに造られています。そして、神のかたちとしての人間の本質的は、愛を特性とする人格的な存在であることにあります。そのようなものとして造られている人間が、真に人間らしく生きることは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される神さまの律法の示す道を歩むことによって実現します。 何となく混乱しそうなことかもしれません。しかし、これは、先週お話ししました、私たちが義と認められて神の子どもとされていることの法的な面と実質的な面を区別して考えると分かりやすくなります。私たちがイエス・キリストを信じて、神さまの御前に義と認められていること、そして、神の子どもとしての身分を与えられていることは、法的なことです。このことの根拠は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって私たちの罪をすべて贖ってくださったことと、地上の生涯において十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、私たちのために義を立ててくださったことです。私たちはそのイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められています。これは永遠に有効です。 これに対して、私たちが義と認められて、神の子どもとされていることには、実質的な面があります。それは、私たちが神の子どもとしての実質をもつようになるということです。言い換えますと、ただ神の子どもとしての身分をもつだけでなく、実際に、神の子どもとして生き、神の子どもとして歩むようになることです。そして、それによって、私たちが栄光のキリストのかたちに似た者に造り変えられていくということです。 私たちが栄光のキリストのかたちに似た者に造り変えられていくことが私たちの存在の目標であることは、ローマ人への手紙8章29節、30節に、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されています。また、実際に、私たちがそのような目標に向かって歩んでいることは、コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。そして、このことには完成の時があります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 私たちが神の子どもとして御霊に導かれて、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約される神さまの律法の示す道を歩むことによって、神の子どもとしての実質をもつようになります。言い換えますと、御霊は、私たちが父なる神さまと新しい契約の家族である兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに歩むことをとおして、私たちをイエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えてくださるのです。 私たちはこのような御霊のお働きと導きの下に、神の子どもとしての歩みを続けています。その御霊のお導きの最も大切なことの一つは、私たちが心を一つにして父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることに現れてきます。 |
![]() |
||