(第42回)


説教日:2005年12月11日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りの最初の言葉は、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけです。先週も触れましたが、ギリシャ語原文の順序は「父よ」、「私たちの」、「天にいます」です。それで、「父よ」という呼びかけが最初にきています。そして、これを説明する「私たちの」と「天にいます」が続いています。
 今日は、イエス・キリストが教えてくださった、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの「私たちの父」ということについて、特に、その法的な面を中心として考えてみたいと思います。
 すでにお話ししたことですが、ここでは、御子イエス・キリストが、父なる神さまのことを「父よ」と呼びかけるようにと教えてくださっています。イエス・キリストは、ただそのように教えてくださっただけでなく、私たちが実際に父なる神さまに向かって「父よ」と呼びかけることができるようにしてくださいました。イエス・キリストは、自分の罪過と罪の中に死んでいた私たちを罪と死の力から贖い出してくださるために、私たちの罪をご自身の身に負って、十字架にかかって死んでくださいました。その十字架において、私たちの罪に対して下される神さまの義に基づくさばきをすべて受けてくださいました。このさばきは世の終りに執行されるべき最後の審判におけるさばきに当たるものです。ですから、私たちの罪に対する神さまのさばきはイエス・キリストの十字架においてすでに終っています。それで、私たちはこの後、永遠に罪のさばきを受けることはありません。
 イエス・キリストは、そのように私たちの罪に対する神さまのさばきをその身にお受けになって死なれてから、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それは、ただ生き返ったということではありません。
 ピリピ人への手紙2章6節〜10節には、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 ここで、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と言われていますように、イエス・キリストは「実に十字架の死にまでも」父なる神さまのみこころに従いとおされました。言うまでもなく、その父なる神さまのみこころは、御子イエス・キリストが私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死なれることを中心とする贖いの御業を遂行することでした。父なる神さまはこのイエス・キリストのまったき従順に対して報いてくださって、イエス・キリストに栄光をお与えになりました。そして、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。これを逆に見ますと、栄光をお受けになったイエス・キリストが、死者の中からよみがえられたということです。


 イエス・キリストは私たちと一つとなってくださるために、人となって来てくださいました。しかし、イエス・キリストが人となって来てくださったというだけでは、私たちはイエス・キリストと一つとなることはできません。イエス・キリストと私たちが一つになったことは、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった新しい契約に基づくことです。イエス・キリストはこの契約のかしらであられ、私たちはかしらであられるイエス・キリストの契約の民として、イエス・キリストと一つに結び合わされています。
 このように、私たちとイエス・キリストの結びつきは、イエス・キリストがその血をもって確立してくださった契約に基づくものであるという点で法的なものです。しかし、この結びつきには実質的な面もあります。それは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、実際に、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださることによって生み出されています。
 このことについてもう少しお話ししますと、聖書の中では、主と主の民の関係は夫と妻の関係にたとえられています。これは、たまたま人間の間に結婚があって、そこに夫と妻の関係があるので、主と主の民の関係をそれにたとえているということではありません。むしろ、人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者として神のかたちにお造りになった神さまが、ご自身と人の交わりがどのようなものであるかを示してくださるために、結婚の関係を造り出してくださったと考えられます。このことは、エペソ人への手紙5章31節、32節に、

「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

と記されていることから推し量ることができます。夫と妻の関係は、その「奥義」である「キリストと教会」、主とその民の関係を彷彿させるものであるのです。
 いずれにしましても、聖書の中では、主と主の民の関係は夫と妻の関係にたとえられています。この夫と妻の結婚関係には、法的な面と実質的な面があります。そして、夫と妻の誓約に基づく法的な面が基礎となって、二人がともに生きるという実質的な関係が成り立っています。主とその民の関係が契約によるものであるということは、これと同じように、主との契約関係があって、それを基礎として、主と私たちの交わりが成り立っているということです。
 そして、この契約は、イエス・キリストが、十字架の上で流された血によって、確立してくださったものです。イエス・キリストが十字架の上で流された血によって新しい契約を確立してくださったのは、今から2千年前のことです。そして、イエス・キリストはご自身の一方的な恵みによって、代々の聖徒たちをこの契約の中に入れてくださっています。私たちも、この主の一方的な恵みによってこれにあずかって、新しい契約のうちにある者としていただいています。
 これは、今日の私たちの社会における契約とかなり違っていて、私たちに権利があることについて私たちが合意して、神さまと契約を結んだということではありません。私たちは、イエス・キリストが、ご自身の血によって確立してくださった新しい契約に、神さまの一方的な恵みによって入れていただいているのです。
 このように、イエス・キリストは、今から2千年前に、ご自身が十字架の上で流された血によって新しい契約を確立してくださいました。そして、私たちはイエス・キリストの一方的な恵みによって、この契約に入れていただいています。イエス・キリストは、この新しい契約に基づいて、私たちの間にご臨在してくださる御霊を遣わしてくださいました。使徒の働き2章32節、33節に記されている、ペンテコステの日におけるペテロのあかしにおいて、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と言われているとおりです。ここで言われていることも、今から2千年前に起こったことです。このとき以来、御霊は、イエス・キリストがご自身の血によって確立された契約に入れられた者たちの間に宿ってくださり、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの恵みを、その契約の民に当てはめてくださっています。
 この御霊が、私たちを栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださいました。それで、私たちはイエス・キリストを信じることができるようになりましたし、義と認められて、神の子どもとしての身分を授けていただいています。
 このようにして、私たちは父なる神さまの子どもとしていただき、それにともなう特権にあずかっています。その特権の中心が、すでに繰り返しお話ししてきましたように、父なる神さまを親しく「父」と呼ぶことにあります。
 ローマ人への手紙8章14節、15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されています。また、ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。
 私たちが父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのは、私たちが、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪と死の力から贖い出されて、父なる神さまの子として迎え入れられているからです。このすべては、私たちが、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった新しい契約に、一方的な恵みによってあずかっていることを、法的な土台としています。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙8章15節では、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。

と言われていました。ここでは、御霊のことが「子としてくださる御霊」と言われています。これは「養子とすることの御霊」というような言い方です。これによって、私たちが神の子どもであることは、父なる神さまの養子としてしていただいたことによっている、ということが示されています。
 新改訳の「子としてくださる御霊」という訳からは、私たちに与えられた御霊が私たちを子としてくださるというような印象を受けます。けれども、やはり先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節には、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。
 ここで、

そして、あなたがたは子であるゆえに

と言われているときの「ゆえに」という言葉(ホティ)の意味については意見が分かれています。一般には、この場合は新改訳のように、これを「ゆえに」として、

そして、あなたがたは子であるゆえに

と訳すことが最も自然なことであると考えられています。もう一つの可能性は、

そして、あなたがたが子であることを示すために

というように訳すことです。
 どちらの場合も、事柄の順序は同じです。子としての身分を与えられている者に、御霊が与えられるということです。ただし、これは時間的な順序のことではありません。時間的には、私たちが福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じると同時に、義と認められ、子としての身分を与えられ、御霊を与えられているのです。すべては同時に起こっています。けれども、事柄の論理的な順序としては、義と認められて、子としての身分を与えられ、御霊を与えられているということになります。
 ですから、ローマ人への手紙8章15節の「子としてくださる御霊」(「養子とすることの御霊」)は、注意深く受け止められなければなりません。この「子としてくださる御霊」は、法的に私たちを父なる神さまの子としてくださるのではなく、法的に子とされている私たちのうちに、神の子どもの実質を生み出してくださるのです。御霊は、私たちが父なる神さまの子であることを自覚させてくださり、実際に、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ばせてくださいます。そして、私たちのうちに神の子どもとしての人格と品性を生み出し、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださいます。
 かなり面倒な話になってしまいますが、ガラテヤ人への手紙4章6節においては、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と言われています。ここでは、「御子の御霊」が「私たちの心に」遣わされていると言われています。言い換えますと、御霊が私たちのうちに宿ってくださり、私たちが神の子どもとして歩むことができるように導いてくださるということです。それで、ローマ人への手紙8章14節では、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と言われています。このことは、今お話ししましたように、私たちがイエス・キリストを信じて、義と認められ、子としての身分を与えられて、御霊を与えられるという論理的な順序で起こっています。
 けれども、これが私たちに対する御霊のお働きのすべてではありません。御子イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流してくださった血によって新しい契約を確立してくださっています。そして、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださいました。これらのことは、今から2千年前に起こったことです。そして、イエス・キリストは、ご自身の一方的な恵みによって、私たちをその契約に入れてくださいました。その時、すでにイエス・キリストが遣わしてくださっている御霊が、私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださいました。その結果、私たちは福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになったのです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じることができるようになったのは、御霊のお働きによることです。
 ですから、御霊は、私たちがイエス・キリストを信じるようになることに先だって、私たちに対して働きかけてくださっていたわけです。ところが、ガラテヤ人への手紙4章6節などでは、御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされて、その復活のいのちによって新しく生れ、イエス・キリストを信じて、義と認められ、子としての身分を与えられた私たちに、御霊が与えられたと言われています。
 このようなことを聞きますと、「えっ、御霊は初めから私たちに対して働きかけていてくださったのではないの。」とか、「初めから私たちに働きかけてくださった御霊と、子としての身分を与えられた私たちに与えられた御霊は同じ御霊なの。」というような疑問が生れてきます。
 もちろん、これは同じ御霊のお働きです。その御霊のお働きが、私たちの在り方に対応しているために、違ったものとなっているわけです。私たちがいまだ罪過と罪の中に死んでいたときにも、御霊は一般恩恵に基づくお働きによって私たちの存在と生活のすべてを支えてくださっていました。御霊は、さらに、そのような状態にあった私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださいました。そして、私たちが福音の御言葉を理解し悟ることができるように、私たちの心を照らしてくださいました。すべては、御霊が父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころにしたがってなしてくださったことです。
 その結果、私たちは福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになりました。これを受けて、神さまは私たちを義と認めてくださり、子としての身分を授けてくださいました。それに基づいて、御霊は、やはり、父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころに基づいてのことですが、私たちのうちに宿ってくださって、私たちに自分が神の子どもであるという自覚を起こさせてくださり、この自覚とともに、父なる神さまに向かって、「アバ、父。」あるいは、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるようにしてくださっているのです。
 これらの御霊のお働きは、新しいお働きがすでにあるお働きに取って代わるというものではありません。すでにあるお働きはそのまま続けられて、それに新しいお働きが加えられて、さらに豊かになっているのです。
 これまでお話ししてきたことを振り返ることになりますが、このことは、今から2千年前に、イエス・キリストが、ご自身が十字架の上で流してくださった血によって新しい契約を確立してくださったことから始まっています。もちろん、これは、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころから出ていることですが、ここでは、そのことには触れないでおきます。そして、それが私たちそれぞれの現実となるのは、イエス・キリストが一方的な恵みによって私たちをご自身の契約のうちに入れてくださることによっています。そして、これを法的な土台、法的な根拠として、私たちを御霊によってイエス・キリストと結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださったのです。その結果、私たちは福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになりました。そして、義と認められ、神の子どもとしての身分を与えられて、御霊によって導いていただいて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。
 繰り返しになりますが、このすべての土台になっているのが、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった新しい契約です。これまでお話ししてきたことからお分かりになると思いますが、神さまの一方的な恵みによってこの新しい契約に入れられた者たちは、すべて、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされており、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れています。このように、神さまの一方的な恵みによって、新しい契約に入れられている者たちは、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れて、父なる神さまの子としての身分を与えられている神の家族です。この神の家族は、イエス・キリストがご自身の十字架の血によって確立された新しい契約を法的な土台として、その上に成り立っています。
 イエス・キリストは、私たちに、

  天にいます私たちの父よ。

と祈るようにと教えてくださいました。これによってイエス・キリストは、父なる神さまが「私たちの父」であられることを示してくださっています。ですから私たちは、祈るときに、自分たちが神の家族であり、お互いが主にある兄弟姉妹であることをわきまえていなければなりません。このことをわきまえていないのに、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることは、実質を欠いた空しい言葉をはくことになってしまいます。イエス・キリストは、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるようにと教えてくださいました。それは、私たちに、ご自身の血によって確立してくださった契約の上に成り立っている神の家族のうちにあることを自覚して祈るべきことを教えてくださったものです。

 


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