(第41回)


説教日:2005年12月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りの最初の言葉は、

  天にいます私たちの父よ。

です。ギリシャ語原文の順序は「父よ」、「私たちの」、「天にいます」で、「父よ」が最初にきています。そして、これを説明する「私たちの」と「天にいます」が続いているわけです。ここでは、御子イエス・キリストが、父なる神さまのことを「父よ」と呼びかけるようにと教えてくださっています。
 このことに関してはすでにいくつかのことをお話ししています。今日は、少し話がそれる感じになりますが、また、皆さんには十分お分かりのことと思いますが、一つのことを確認しておきたいと思います。
 イエス・キリストは、父なる神さまのことを「父よ」と呼びかけるようにと教えてくださいましたが、これは、いわゆる「普遍の父性」というような意味で造り主である神さまのことを「父」と呼ぶことではありません。この「普遍の父性」というのは、人類は一つであり、それを支え養っている「神」がその父であるという考え方です。私たちがイエス・キリストの教えてくださった主の祈りにおいて、父なる神さまのことを、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるときには、そのような意味での「普遍の父性」を考えているわけではありません。この、

  天にいます私たちの父よ。

という呼びかけは、「普遍の父性」と矛盾するわけではありませんが、これには、それ以上の意味があります。
 先週お話ししましたように、父なる神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を、自分の罪過と罪の中に死んでいた私たちに当てはめてくださって、私たちを御霊によって新しく生かしてくださいました。そして、ご自身の子として迎え入れてくださいました。これによって、私たちは父なる神さまの子どもとしての身分を与えられ、それにともなうすべての祝福にあずかっています。その祝福の中心に父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかることがあります。
 そして、このことは、エペソ人への手紙1章4節、5節において、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころから出たことです。


 このように、私たちが祈りにおいて父なる神さまに、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることは、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づくことです。そして、それを今ここにいる私たちの現実としてくださっているのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださって、私たちを新しく生れさせ、神の子どもとして生かしてくださる御霊のお働きによることです。
 これらのことは、すべて福音の御言葉の中であかしされていることであって、人間が哲学的な思索の中で考え出したことではありません。これに対して、いわゆる「普遍の父性」ということは、広く人類の文化の中に見られる発想です。ただしそれには、自分たちの国や民族や自分たちの文化を中心としたものであるという傾向があります。そして、そのような発想がぶつかって覇権争いが生じることがあります。身近な例としては、第2次大戦における日本がアジアの諸国を侵略したときの考え方にはこのようなものがありました。
 このように、現実の「普遍の父性」の概念には人間の罪の自己中心性からでた歪みが潜んでいます。とはいえ、このことは、「普遍の父性」ということに御言葉の根拠がないという意味ではありません。今日は、そのことについてお話ししたいと思っているわけです。
 使徒の働き17章22節〜31節には、一般に「パウロのアレオパゴスの説教」として知られている、アテネの人々に対するパウロのあかしが記されています。これは、先日主の御許に召されました渡辺公平先生が、ご自身の葬式の時に読む御言葉としてお選びになっておられた個所です。その中の24節〜29節には、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、「私たちもまたその子孫である。」と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

と記されています。
 ここでは神さまのことが、24節で、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神

と紹介され、25節では、

すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方

と紹介されています。この場合、新改訳の「万物」という訳には問題があります。「万物」という日本語の言葉は、存在する「すべてのもの」を意味しています。そして、「万物」が人に与えられたということは、何となく、詩篇8篇5節、6節に記されています、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉を指しているような気がします。けれども、ここでパウロはアテネの人々に、神さまが天地の造り主であり、お造りになったすべてのものを真実にお支えになっておられる方であるということをあかししています。そして、それ以上の、人間に委ねられた使命のことには触れていません。それで、この新改訳が「万物」と訳している言葉(タ・パンタ)は、神さまが天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた「万物」のことではなく、人が必要としている「すべてのもの」のことであると考えられます。神さまがすべての人に「いのちと息」と、人が必要としている「すべてのもの」をお与えになっておられるということです。これと同じことは、マタイの福音書5章45節に記されています、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる

というイエス・キリストの教えにも示されています。
 さらに、使徒の働き17章28節で、パウロは、

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、「私たちもまたその子孫である。」と言ったとおりです。

とあかししています。この、

私たちもまたその子孫である。

というギリシャの詩人たちの言葉は、古代教会の時代からアラトゥスの言葉であるということが指摘されてきました。それとともに、ゼウスに対する賛歌にも、同じような言葉があると言われています。「あなたがたのある詩人たち」という言葉からうかがわれますように、これは複数の人々がそのように述べているものと思われます。ギリシャ人にとっては、それはゼウスに当てはまることでしょうが、パウロはそれを天地の造り主であられる神さまに当てはめています。
 そして、これを受けて、29節では、

そのように私たちは神の子孫ですから

というように、話を進めています。
 ここには、先ほどらいお話ししていますいわゆる「普遍の父性」に当たることが記されています。
 少し前の26節でパウロは、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

とあかししています。これは、基本的には、造り主である神さまがこの世界の歴史と文化を支えつつ導いておられることをあかしするものです。その際に、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、

というように、人類の一体性を示しています。
 使徒の働きはルカが記したものですが、同じルカが記したルカの福音書3章23節〜38節にはイエス・キリストの系図が記されています。これには、マタイの福音書1章1節〜17節に記されている系図と違っている部分があるということにかかわる問題がありますが、そのことには触れることはいたしません。このルカの福音書に記されている系図はイエス・キリストから父祖たちへとさかのぼっていくものです。その初めの23節、24節には、

教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子、

と記されています。新改訳は、この系図がイエス・キリストから父祖たちへとさかのぼっているということを伝えて理解を助けるために23節の最後に「順次さかのぼって」という原文にない言葉を補っています。さらに、ここで「誰々の子」と言われているときの「」という言葉は最初の「ヨセフの子」に出てくるだけで、後は「誰々の」という言葉だけが続いています。これをこのまま日本語にしたらわけが分からないことになってしまいますので、新改訳のように、その一人一人に「」という言葉をつけていくほかはありません。
 そして、この系図の最後の38節には、

エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。

と記されています。新改訳では、

このアダムは神の子である。

というように、この部分だけ独立した文として訳しています。そうしますと、これはアダムのことを述べているということになります。けれども、原文のギリシャ語では、これは独立した文ではなく、その前の「エノスの子、セツの子、アダムの子」と同じ言い方です。それで、38節は

エノスの子、セツの子、アダムの子、神の子。

となります。ただ、このように「神の子」で終ってしまいますと、この「神の子」が何を意味するのか分かりにくくなってしまいますので、新改訳は、

このアダムは神の子である。

と説明的に訳しているのだと考えられます。
 確かに、この「アダムの子、神の子」という言葉は、

アダムは神の子である。

ということを示しています。言うまでもなく、これは最初の人アダムが造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして、神のかたちに造られたということに触れるもので、アダムが神さまから生まれたという意味ではありません。
 先ほど言いましたように、これを、

このアダムは神の子である。

というように独立させてしまいますと、これはアダムのことを述べているということになってしまいます。けれども、この系図は全体が一つの文で、イエス・キリストが人としてはどのような家系から出られたかを示しています。もちろん、これは、この系図の初めに、

教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。

と言われていますように、イエス・キリストと父祖たちとの法的なつながりを示しているのであって、イエス・キリストに人間の父親との血のつながりがあったという意味ではありません。それで、この系図の最初に記されているイエス・キリストと、最後に記されているアダムはその出自(起源、よって出たところ)が特別なものであるわけです。
 ちなみに、ここでは、

教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。

と言われていますが、「教えを始められたとき」の「教えを」は新改訳の補足です。これはその前の21節、22節に、

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

と記されていますことを受けていて、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められた時を指しています。
 このように、ルカの福音書では、イエス・キリストと父祖たちとの法的なつながりを、最初の人アダムにまでさかのぼっています。そして、そのすべての始まりが、神さまが最初の人アダムを神のかたちにお造りになったことにあることを示しています。このことは、ルカの福音書が異邦人の読者たちを念頭において記されていることとの関連で意味を持っています。それは、人となって来られて、メシヤとしてのお働きを始められたイエス・キリストの出自ををたどっていくと、最初のうちはユダヤ人の父祖たちですが、やがてそれを越えて、最初の人アダムにまでさかのぼるということを示しているからです。つまり、イエス・キリストのメシヤとしてのお働きが、ユダヤ人と異邦人の区別を越えて、全人類に対して意味を持っているということを示しているのです。
 もちろん、それはすべての人が自動的に救われるという意味ではなく、誰でも福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを父なる神さまが備えてくださった贖い主として信じて受け入れるなら、その贖いにあずかって救われるということです。このことにおいては、その人がユダヤ人であるか、異邦人であるということは関係がないということです。イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業には、このような広がりと効果があります。
 先ほど引用しました使徒の働き17章26節で、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、

と言われているときの「ひとりの人」は、ルカの福音書3章38節に記されているイエス・キリストの系図の中で、

アダムの子、神の子。

とあかしされているアダムのことです。先ほどお話ししましたように、アダムが「神の子」であるということは、神さまがアダムをご自身のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりの中に生きるものとされたことを意味しています。そして、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して

ということは、本来は、この「すべての国の人々」が神のかたちに造られた最初の人の子孫として、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものであることを意味しています。
 けれども、ローマ人への手紙5章12節に、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

とあかしされていますように、最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、罪が人類の中に入り、罪によって死が全人類に広がってしまいました。すべての人は罪の性質をうちに宿して生れてきて、実際に、思いと言葉と行いにおいて罪を犯しています。
 そうではあっても、パウロがアテネの人々に、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、

とあかししている事実が変わるわけではありません。「すべての国の人々」は神のかたちに造られているアダムの子孫として、神のかたちに造られています。そして、本来は、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものです。さらに、パウロが、

神は、すべての人に、いのちと息と万物[すべてのもの]とをお与えになった方だからです。

とあかししていることも変わらない事実です。そして、

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

ということも変わらない事実です。
 もし人類がアダムにあって罪を犯すことがなかったら、そして御前に堕落してしまうことがなかったら、すべての人が、

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

と告白し、造り主である神さまを神として礼拝し、その恵みに満ちた栄光をほめ讚えていたはずです。そして、そのように、神さまに栄光を帰して礼拝し、あがめつつ、深い愛と信頼の思いをもって、神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけていたはずです。言い換えますと、もし人類がアダムにあって罪を犯して、御前に堕落することがなかったら、いわゆる「普遍の父性」は単なる哲学的な概念ではなく、全人類が豊かな愛にある神さまとのいのちの交わりのうちに生きていることを表すものであったはずです。しかし、実際には、すべての人が「神の中に生き、動き、また存在している」にもかかわらず、造り主である神さまを神として礼拝することもなく、あがめることもしない者となってしまいました。
 ルカの福音書3章23節の、

教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、

という言葉から始まり、38節の、

エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。

という言葉をもって終っている系図にあかしされているイエス・キリストのメシヤとしてのお働きは、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して、「すべての国の人々」の中から、豊かな愛にある神さまとのいのちの交わりのうちに生きるようになる神の子どもたちを生み出すものです。
 それで、地理的には地の果てに位置しているような私たちも、福音の御言葉にあかしされている御子イエス・キリストを贖い主として信じた結果、その贖いにあずかって、罪を赦されて義と認められ、神の子どもとしての新しい歩みを続けています。そして、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかける特権と祝福にあずかっています。

 


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