(第40回)


説教日:2005年11月27日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについてのお話を続けます。
 主の祈りは、9節に記されています、

  天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけから始まっています。言うまでもなく、これは、イエス・キリストが私たちに父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるようにと教えてくださったということです。
 私たちが父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることは、私たちから出たことではありませんし、私たちにその権利があったのではありません。そのすべては父なる神さまご自身から出ています。先週お話ししましたように、父なる神さまはその永遠の聖定におけるみこころにしたがって、私たちがご自身の子となるように定めてくださいました。エペソ人への手紙1章3節〜6節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されているとおりです。
 繰り返しお話ししていますように、4節で、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と言われていることは、私たちが罪ある者であり、自らのうちに罪の性質を宿し、思いと言葉と行いにおいて罪を犯してしまう者であることを踏まえています。父なる神さまは、そのような私たちをイエス・キリストにあって「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めてくださいました。そして、実際に、イエス・キリストを私たちの贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、御前に「聖く、傷のない者」として立たせてくださり、ご自身の子として迎えてくださいました。これによって、私たちは父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるようになりました。それで、イエス・キリストは、私たちに父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるようにと教えてくださったのです。
 私たちは、ただそのように教えられているだけではありません。実際に、御霊のお働きによって、父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるようにしていただいています。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。


 今日はこのこととのかかわりで一つのことを考えてみたいと思います。
 生まれながらの私たちは自らのうちに罪を宿している者であり、実際に、思いと言葉と行いにおいて罪を犯している者でした。その罪は誰よりも神さまに対するものです。それで、私たちは父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることはありませんでしたし、呼びかけることはできない者でした。
 生まれながらの私たちと神さまの関係については、エペソ人への手紙2章1節〜3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 ここでは、私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であると言われています。ここで新改訳が「死んでいた者」と訳している言葉(ネクロス)は、形容詞としては「死んでいる」状態を表しています。新改訳はこれの実体化された意味の方を取って「死んでいる者」と訳しています。いずれにしましても、ここでは、かつての私たちが「死んでいる」状態にあったと言われています。もちろん、これは、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました

と言われていますように、この世での生活をしていることについて言われています。つまり、この世の尺度から言いますと生きているとされる人が「死んでいる」状態にあると言われているのです。これは神さまの御目から見てのことであり、特に、私たちのいのちの源であられる神さまとの関係において「死んでいる」状態にあるということです。
 そして、それが「自分の罪過と罪との中に」あってのことであると言われています。この「自分の罪過と罪との中に」は(与格で表されていて)「自分の罪過と罪によって」とも訳すことができます。いずれにしましても、これはローマ人への手紙6章23節に、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されていますように、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているために、神さまとの愛にあるいのちの交わりから断たれてしまい、死の力に捕えられてしまっている状態にあることを指しています。
 そのような状態にあった私たちは、さらに「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でもあったことが示されています。この「御怒り」は私たちの「罪過と罪」に対する、聖なる神さまの義に基づく怒りのことです。この「御怒りを受けるべき子ら」は「御怒りの子ら」というような言い方で、すでに「罪過と罪」に対する神さまの「御怒り」の下にありつつ、なお、「罪過と罪」に対する最終的なさばきにおいて表される「御怒りを受けるべき子ら」であることを意味しています。このことこそが、「死んでいる」状態にあることの行き着く先です。
 3節では「私たちもみな」というように、主語がそれまでの「あなたがたは」から変わっていますが、

ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした

というように、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であったという点では「ほかの人たちと同じ」であると言われています。ですから、人はすべて、ユダヤ人も異邦人も、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であるのです。
 このエペソ人への手紙2章では、続く4節〜8節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

と記されています。
 5節、6節では、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。ここでは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと言われています。それは、私たちをキリストとともによみがえらせてくださったことに現れています。
 6節の新改訳の、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

という言葉は、私たちがともによみがえり、ともに天の所に座するようになったのは誰とともになのかということが分かりにくいので、私たちお互いがともにというような感じがしないでもありません。これは新改訳の訳文の問題ではありません。新改訳はギリシャ語の原文の言い方を反映しています。この場合の「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも、その前の4節で、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし

と言われているときの「ともに生かす」という言葉と同じように、「ともに」という意味の接頭辞(スン)がついている言葉で表されています。それで、この「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも「キリストとともに」ということであると考えられます。この「キリストとともに」ということは、イエス・キリストの在り方が私たちの在り方を決定しているということを意味しています。その意味では、これは、ローマ人への手紙6章3節〜5節に、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されていることと符合しています。
 エペソ人への手紙2章5節、6節では、先ほどお話ししました「自分の罪過と罪との中に」あって、あるいは「自分の罪過と罪によって」「死んでいる」状態と対比されるのは、キリストとともによみがえっている状態にあることであるということが示されています。キリストとともによみがえっていることこそが真の意味で「生きている」という状態にあることなのです。
 ここでは、さらに、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていますように、父なる神さまは私たちをキリストと「ともに天の所にすわらせて」くださったと言われています。これは、1章20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われていることを受けています。私たちは、父なる神さまが「死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」られたイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに死者の中からよみがえり、天の所に座らせていただいているのです。1章20節で、父なる神さまがイエス・キリストを「天上においてご自分の右の座に着かせられた」と言われているときの「天上において」と、2章6節で父なる神さまが私たちをイエス・キリストと「ともに天の所にすわらせて」くださったと言われているときの「天の所に」は、同じ言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)で表されています。
 もちろん、これは私たちがイエス・キリストとともに父なる神さまの右の座に着座しているという意味ではありません。父なる神さまの右の座に着座しておられるのは栄光のキリストお一人です。私たちはその栄光のキリストの民として、そしてそのゆえに栄光のキリストの御前にある者として、「天の所に」座らせていただいているということです。
 1章21節では、父なる神さまの右の座に着座されているイエス・キリストについて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われています。さまざまな機会にお話ししてきましたので、詳しい説明は省きますが、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、詩篇110篇1節に、

  主は、私の主に仰せられる。
  「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
  わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、父なる神さまがメシヤとしてお立てになったイエス・キリストに敵対している暗やみの主権者たちを指しています。そして、この暗やみの主権者たちを治めているのが、先ほど引用しました、2章1節、2節で、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と言われているときの「空中の権威を持つ支配者」です。「空中の権威を持つ支配者」は単数形で、この「すべての支配、権威、権力、主権」を統合する存在としてのサタンを指していると考えられます。
 この二つの箇所のつながりが私たちにとって意味していることを考えてみたいと思います。
 まず、1章20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われているイエス・キリストの現実があります。それで、2章1節、2節で、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と言われている私たちは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」の主権の下から解放されているのです。コロサイ人への手紙1章13節、では、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と言われています。
 この「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」のことは、コリント人への手紙第二・4章4節では「この世の神」と呼ばれています。この「この世の神」も単数形で表されていて、一つの人格的な存在です。コリント人への手紙第二・4章1節〜4節には、

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

と記されています。
 ここでは、

この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしている

と言われていて、「この世の神」は、人々が福音の御言葉を悟ることができないように働いていることが示されています。つまり、「この世の神」は、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に逆らう働きをしているのです。人々が福音の御言葉のうちにあかしされているイエス・キリストの贖いの御業を信じて救われることを阻止しようとして働いているのです。かつての私たちはその働きに欺かれていました。そのことが先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章1節、2節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されていました。繰り返しになりますが、私たちはこのことにまったく気がついていませんでしたが、これは神さまの御目から見たときのかつての私たちの現実でした。
 これと同じ状態のことが、ガラテヤ人への手紙4章8節には、

しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

と記されています。「本来は神でない神々」には神としての本質も実体もなく、まったく空しいものです。それなのに、人が「本来は神でない神々の奴隷」となるのは、「この世の神」すなわち「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」がその背後にあって働いているからです。
 ここで、

しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

と言われているときの「しかし」は、その前の部分との強い対比を示しています。その前の部分とは、初めの方で引用しました4節〜7節です。そこには、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されています。
 このことから、まず、私たちが父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができるのはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる「御子の御霊」のお働きによることであることが分かります。それとともに、「この世の神」すなわち「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」が、私たちが父なる神さまに向かって、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることを阻止しようとして働いていたこともくみ取ることができます。
 ですから、私たちが「御子の御霊」のお働きによって、父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけていることは、イエス・キリストが「すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高く」いますこと、また、私たちがイエス・キリストとともによみがえって、ともに「天の所に」座していることのあかしでもあります。

 


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