(第39回)


説教日:2005年11月20日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、マタイの福音書6章9節〜13節に記されています主の祈りについて、その全体的なことのお話を続けます。
 9節には主の祈りを導入するイエス・キリストの言葉が記されています。それは、

だから、こう祈りなさい。

というものです。先週も触れましたが、これを直訳調に訳しますと、

ですから、このようにあなたがたは祈りなさい。

となります。この場合、「このように」という言葉(フートース)が冒頭に置かれていて強調されています。また「あなたがたは」という言葉(フメイス)も、最後に置かれていて強調されています。その意味で、この「あなたがたは」という言葉は省略しないで訳し出したほうがいいと思われます。
 ここでは、「ですから」という言葉によって、これが前の部分で語られたことを受けていることが示されています。これに先立つ7節、8節においては、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

と言われていて、永遠に生きておられるまことの神さまを知らない異邦人の祈りの問題が示されています。そして、このことを受けていますので、「あなたがたは」ということが強調されていると考えられます。つまり、永遠に生きておられるまことの神さまを知らない異邦人の祈りはそのようなものであるけれど、「あなたがたは」というように、異邦人の祈りとの違いを際立たせているわけです。
 これもすでにお話ししたことですが、イエス・キリストが、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

と教えてくださったときの「同じことばを、ただくり返す」と訳されている言葉(バッタロゲオー)は、おまじないや呪文のように「同じことばを、ただくり返す」ことだけでなく、空しい言葉を話すことや、考えることなく話すことを意味しています。そして、そのような祈りの特徴は、イエス・キリストが、

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

と教えておられますように、自分たちの祈りの言葉によって「神」を動かそうとすることにあります。


 これに対しまして、イエス・キリストが教えてくださっている主の祈りは、

  天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
   地でも行なわれますように。
  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
   私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、
   悪からお救いください。

というものです。
 これは、本当に短い祈りです。今ゆっくりお読みしましても1分かかったでしょうか。とても、言葉数の多さにものを言わせて神さまに訴え、神さまを動かそうとするようなものではありません。さらに、ここに記されている祈りの言葉は単純なもので、言葉の巧みさに訴えるようなところはまったくありません。さらにこの祈りの言葉は明快なもので、曖昧さの陰はまったくありません。この単純で明快な祈りを祈ることによって、私たちは神さまの御前に率直に祈るようにと導かれます。また、無意味な言葉を繰り返すことから守られます。
 このように、主の祈りの言葉はとても短いものであり、単純であり明快であるのですが、この祈りの言葉が示している事柄は限りなく広く深いのです。代々の聖徒たちがこの主の祈りの言葉をそのまま用いて祈り続けてきました。けれども、この祈りの言葉が古くなってしまったということはありません。何よりも、この祈りを祈る者たちは、この祈りに示されている神の子どもとしての幸いをかみしめてきました。それは、無限、永遠、不変の栄光の神さまを「私たちの父」と呼ぶことができるという幸いです。そして、そのことは、この祈りを示してくださった御子イエス・キリストによって保証されているのです。それで、主の聖徒たちがこの世にあるがゆえの様々な試練の中にあって、この祈りを祈ることによって慰められてきました。
 個人的なことですが、今から40数年前に一冊の小冊子を買い求めました。その小冊子を通して与えられたものは今も私の心に響いています。それは、第二次大戦の末期にドイツが敗戦した直後に、ヘルムート・ティーリケという方がなさった『世界を包む祈り』という、主の祈りの説教集でした。日本語の題は『主の祈り』です。
 少し長い引用になりますが、その本の序文の中で、ティーリケは次のように述べています。

ここに収めた説教は、シュトゥットガルトでの礼拝で行なったものであるが、当時、その聴衆は、空襲に脅かされながら、或いは没落のきざし明らかな恐怖政治の恐れの下に、さらに祖国の完全な軍事的・政治的崩壊のさ中に、或いは初期の被占領下に集まった人々であった。ここに収めた説教はシュトゥットガルト市が未だどうにか損なわれず、その文化生活が―― 戦時下ではあったが―― なお繁栄を誇っている時に、ホスピタルキルヘではじめられ、そして小さい、しかし当時にしては最も大きなマテウスゲマインデハウスの講堂で終ったものである。終りの説教がなされた当時は、もうシュトゥットガルトには一つの教会堂もなくなって、奇妙な残壁が、かつてはそこに神聖なホスピタルキルヘが建っていたことを、幾世紀にもわたって人々がそこに集まり、永遠なものに邂逅していたことを、静かに物語っていた。
 説教者は、その聴衆の顔に彼らを取りまく過酷な運命が刻みつけられているのをみ、いまにもサイレンの音が自分たちをここから追い散らすのではないかと―― そのようなことは稀ではなくなっていた―― 緊張しきっているのを読みとった。彼らの顔には絶望の苦悩がありありと浮かび、慰めを求める飢えと渇きが刻みつけられていた。しかもそれは、激しい労働、しばしばのがれる地下の防空壕、肉体も精神もさいなむ間断なき苦痛の連続によって、いつまでも消されないままであった。
 わたしがこの人々の顔の中に読みとったもの、また自分自身も同じ状況にあるものとして同様に顔に出ていたあの絶望的な苦悩、飢えと渇きは、この説教の中にも現われていることであろう。しかし、主の祈りはすべてこれらのものをつつみ得たのであった。もし真に主の祈りが祈られるならば、きっとそれらは秘かに変えられてゆくことを疑わなかった。
 主の祈りは、ほんとうに世界をつつむ祈りである。日常的な瑣事の世界と「世界史的展望」をもった世界、幸福な時と底知れぬ苦悩の時、市民の世界と兵士の世界、「何事もない日常」と恐るべき異例の破局、悩みを知らない子供の世界としかし同時に大人をも打ち砕く問題に満ちた世界をつつむ祈りである。
『主の祈り 世界を包む祈り』(新教新書)五ー七頁

 これは、第二次大戦末期のドイツの敗戦という状況の中にある主の民の間で語られた説教をおして、主の祈りががどのようなものであるかをくみ取った方の証言です。これはもう過去のことになってしまったと言うべきものではありません。今日においては、同じように絶望的とも思える苦悩、飢えと渇きの中に置かれている神の子どもたちが世界中に散らされています。
 先主日(13日)と本主日は、迫害下にある諸教会のための国際祈祷日です。私たちは毎週、世界福音同盟の宗教的な自由に関する委員会から迫害下にある諸教会のための祈りの課題を送っていただいて、祈祷会で祈り続けています。そこに記されている主の民の置かれた状況の厳しさに、声を失うこともしばしばです。祈祷会における祈りは主の祈りをもって閉じるのですが、迫害のさ中にある聖徒たちの厳しい状況に触れれば触れるほど、主の祈りにおいて祈り求めていることの切実さが増してくるのを覚えます。
 このようにして、主の祈りを祈ることにおいて父なる神さまを「私たちの父」と呼んでいる者たちは、お互いが神の家族として結ばれていることを自覚させられてきました。それは、今この時ここにいて、声を合わせて主の祈りを祈っている私たちがお互いに神の家族として結び合わされているというだけのことではありません。御子イエス・キリストが教えてくださったように、これとまったく同じ祈りを、今この時、世界中に散らされている主の民が祈っています。その中にはまことに厳しい状況の中にある聖徒たちもおられます。その方々も声を合わせて、主の祈りを祈っておられるのです。そして、そこから主の民であることの慰めを受け、時代を同じくするすべての聖徒たちとの、神の家族としての連帯を覚えておられるはずです。
 そればかりではありません。これとまったく同じ祈りを代々の聖徒たちが祈り続けてきたのです。その点で、確かに私たちは代々の聖徒たちと同じ思い、同じ願いをもって祈り続けていると言うことができます。
 さらには、私たちは、この世を去って主の御許に召された聖徒たちと同じ思いをもって祈っています。もちろん、主の御許に召された聖徒たち自身には試みや飢えや渇きはありません。また罪を犯すこともありませんので、自らの罪の赦しを祈り求める必要もありません。けれども、だからといって、その聖徒たちが主の祈りを祈らないとは言えません。というのは、その聖徒たちも地にある聖徒たちのことを心に留めて祈るからです。
 このような、主の祈りを祈り続けている主の民のつながりの広がりと深さを思い巡らしますと、私のような小さな者の想像力が追いつかないことを感じるばかりです。そのような結びつきの広がりと深さに驚くほかはありません。それは、今の時代の国境を越えて、民族や人種の違いを越えて、私たちを結び合わせている祈りです。しかも、その中にはまことに厳しい状況の中にあってなおも、主の祈りに示されている祈りをもって主を呼び求め、すべての聖徒たちとともに声を合わせる方々がおられます。さらに、この主の祈りを祈ることにおける結びつきは歴史における時代の違いをも越えて、代々の聖徒たちを一つの祈りを祈る者として結び合わせてきました。また、すでに主の御許に召された聖徒たちをも一つの祈りを祈る者として結び合わせています。
 しかし、主の祈りにおける私たちの結びつきは、このような、いわば水平の結びつきで終るものではありません。すでにお話ししましたように、私たちは主の祈りにおいて、すべての聖徒たちとともに、父なる神さまと出会い、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者であることを表します。そして、このことこそが、私たちを国境と民族や文化の違いを越えてすべての聖徒たちと結びつけていることですし、時代を越えて、私たちを代々の聖徒たちと結びつけていることです。
 今この小さな会堂に集って、御子イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝している群れはまことに小さなものです。けれども、この小さな群れが、御子イエス・キリストにあって、すべての聖徒たちとつながっていることを、主はいろいろなことを通して示してくださっています。その重要な一つが主の祈りを祈ることです。
 このように主の民がその歴史をとおして主の祈りを祈り続けてきたのは、一体、何によっているのでしょうか。それにはいくつかのことが考えられます。何よりもそれは、主の祈りにおいて祈る事柄自体の大切さと、それがいつの時代の誰にも当てはまることであることによっています。けれども、ここではそれとは別の一つのことを取り上げます。
 私たちは、人が同じ祈りを祈り続けるのは、祈りが応えられていないからだというように考えがちです。けれども、もしその祈りが応えられない祈りであれば、いつしかその祈りを祈ることはなくなってしまいます。主の祈りはそのように応えられない祈りではありません。むしろ、必ず応えられる祈りです。
 ヨハネの手紙第一・5章14節、15節には、

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

と記されています。
 私たちはこのような御言葉を読むときに、果たして自分はここで言われているような、「神のみこころにかなう願いをする」ことができるのだろうかと思ってしまいます。けれども、それは不可能なことではありません。私たちは主の祈りを真に祈ることによって、父なる神さまのみこころにかなったことを祈り求める者であることができるのです。
 このように、私たちは真に主の祈りを祈ることによって父なる神さまのみこころにかなった祈りを祈ることができます。そのような意味をもっている主の祈りの全体的な構成を見てみましょう。広く知られていますように、主の祈りには六つの願いが含まれています。そして、それは最初の三つと、最後の三つの二つの部分に分けられます。
 日本語訳では分かりにくいのですが、最初の三つの願いには「あなたの」という言葉(スー)がついています。それを生かして訳しますと、

  あなたの御名があがめられますように。
  あなたの御国が来ますように。
  あなたのみこころが天で行なわれるように
   地でも行なわれますように。

というようになります。この場合、この「あなたの」という言葉は三つの願いとも最後に置かれて強調されています。
 いずれにしましても、この最初の三つの願いは、父なる神さまご自身のことを祈り求めるものです。とはいえ、改めて説明するまでもないことと思いますが、この三つのことが実現することは、神の子どもたちにとっても大きな意味をもっていますし、神の子どもたちの祝福はそのことのうちに現実のものとなります。ですから、これは父なる神さまご自身のことだけを祈り求めるものということではなく、その強調点が父なる神さまのことにあるということです。
 最後の三つの願いはには「私たちの」とか「私たちを」という言葉がついています。そのことは、

  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
   私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、
   悪からお救いください。

という新改訳の訳文からも分かります。これらの願いにおいては私たち自身のことを祈ります。そうではあっても、父なる神さまがこれらの恵みを私たちに示してくださることを通して、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの恵みとまことに満ちた栄光が表されることになります。その意味で、これは私たちの必要を祈り求めるものですが、父なる神さまのご栄光の現れと無関係ではありません。
 このように、主の祈りの六つの願いは、最初の三つの願いが基本的に父なる神さまに関する願いとなっており、最後の三つの願いが、基本的に祈る私たち自身に関する願いとなっています。これによって、祈りにおいては、私たちの思いが自分たちのことより先に、父なる神さまに向けられていることが分かります。かつて私たちが生きておられるまことの神さまを知らなかったころには、このような祈りはできませんでした。ひたすら自分や自分たちのことを祈るだけでした。私たちは、主の祈りを真に祈ることにおいて、私たちの願いが父なる神さまを中心としたものに変えられていることを経験的に知るようになります。
 主の祈りの六つの願いは、このような構造と意味をもっています。そして、

  天にいます私たちの父よ。

という呼びかけは、しばしば、その導入のような位置にあるとされています。けれども、

  天にいます私たちの父よ。

という呼びかけを導入とする理解には問題があります。先ほど、ヨハネの手紙第一・5章14節、15節に記されている御言葉を引用しまして、神さまのみこころにかなった祈りのことをお話ししました。そして、主の祈りこそ神さまのみこころにかなった祈りであるということをお話ししました。その父なる神さまのみこころの第一のもの、そして、最も大切なものは、私たちが父なる神さまのことを「天にいます私たちの父」と呼び、父なる神さまご自身を求めることです。それは、第一の願いとして示されている、

  御名があがめられますように。

という祈りを祈ることに先立っています。これは、イエス・キリストが教えてくださった祈りの順序において先立っているというだけのことではありません。もし私たちが父なる神さまのことを「天にいます私たちの父」と呼ぶことができなければ、いくら、

  御名があがめられますように。

と祈っても、また、それ以下に示されている祈りを祈っても、空しいのです。その意味で、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼ぶことが主の祈りにおいて第一のことであり、最も大切なことです。
 これは、すでに繰り返しお話ししてきました、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころとして示されていることに沿ったことです。それは、エペソ人への手紙1章3節〜6節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていることに他なりません。父なる神さまの永遠の聖定における、私たちに対するみこころの中心は、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださることであり、さらには、「イエス・キリストによってご自分の子に」してくださることにあります。そして、このことが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって、私たちの現実となっています。その具体的な現れが、私たちが父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼ぶことです。
 ですから、主の祈りにおいて、

  天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることは、父なる神さまの永遠の聖定における私たちに対するみこころが、御子イエス・キリストによって私たちの間に実現していることの第一にして最も重要な現れであるのです。そして、これが、これに続く六つの願いを祈ることの土台となっています。
 私たちがこのこと、すなわち、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼ぶことが祈りにおいて第一のことであり、最も大切なことであることを見逃してしまうのは、私たちが祈りを願い事を中心として考えてしまうからです。けれども、祈りを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの現れの一つとして見ますと、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼ぶことこそが、祈りにおいて第一のことであり、その中心にあることが分かります。

 


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