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説教日:2005年11月13日 |
すでにお話ししましたように、イエス・キリストが、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。 と教えてくださったときの「同じことばを、ただくり返す」と訳されている言葉は、おまじないや呪文のように「同じことばを、ただくり返す」ことだけでなく、空しい言葉を話すことや、考えることなく話すことを意味しています。そして、このように祈ることの問題は、イエス・キリストが、 彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 と教えておられるように、祈りの言葉によって「神」を操作して動かそうとすることにあります。そして、その背後には、さらに深い問題が隠れています。その一つは、「神」はなかなか言うことを聞いてくれないという考え方です。それは祈る対象が物言わぬ偶像であればもっともなことです。もう一つは、「神」を自分の願いや欲望を実現するために動かすための手段が祈りであるという考え方です。実際には、自分の欲望を実現するためというようにあからさまな形で言われるわけではなく、丁寧な言い方がなされるのですが、その陰に隠れているのは、そのような人間中心の発想です。 これに対して、イエス・キリストは、 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 と教えておられます。 ここでは、神さまのことが「あなたがたの父なる神」と呼ばれています。先週取り上げましたルカの福音書11章11節〜13節に、 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。 と記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、父なる神さまは人間の父親以上に深く私たちのことを心に掛けていてくださり、まったき知恵をもって私たちのことを配慮してくださっています。 ですから、私たちは祈るときには父なる神さまが私たちをお心に留めてくださっており、私たちのことをご配慮してくださっていることを信じて祈ります。そのような祈りは、神さまを操作して動かすための祈りではなくなります。 イエス・キリストが、 とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。 と教えてくださっていますように、父なる神さまは私たちにもっとも豊かな賜物としての聖霊をくださいます。先週もお話ししましたように、父なる神さまはこの聖霊によって私たちの間にご臨在してくださいます。そして、この御霊は、私たちを御子イエス・キリストに結びつけてくださり、私たちをイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いにあずからせてくださって、新しく生れさせてくださり、神の子どもとして導いてくださる御霊です。 ローマ人への手紙8章14節〜16節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されています。御霊は私たちを神の子どもとして導いてくださり、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことができるようにしてくださいます。そして、私たちがこの父なる神さまとの深く親しい交わりをとおして「神の子どもであること」を確信できるように導いてくださいます。 すでにいろいろな機会にお話ししましたように、この「アバ、父。」という呼びかけは、子どもが父親に向かって呼びかける言葉です。それは子どもが幼いときに父親に呼びかけるときに用いるだけでなく、さらに、その子どもが成人になってもなお用い続ける言葉です。その意味で、これは尊敬の念と親密さと信頼のすべてが込められた呼びかけの言葉です。真の意味でこの「アバ、父。」という言葉を、父なる神さまに対する呼びかけの言葉として用いることができるのは、ご自身が永遠の神の御子であられるイエス・キリストです。実際、聖書の中で父なる神さまのことをこのように個人的で親しく「アバ、父。」と呼びかけたのはイエス・キリストが初めてのことです。多くの学者が指摘していますように、神さまのことを「父」と呼ぶ例は旧約聖書の中に見られます。けれども、それは、神さまのことを個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけるものではありません。 ローマ人への手紙8章15節で、私たちが「子としてくださる御霊を受けた」と言われているときの「子としてくださる」という言葉(フイオセシア)は「養子とすること」を表しています。その当時の社会では、養子とされた子も実子と同じ特権・権利をもっていました。私たちは御霊によって御子イエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせていただいているので、父なる神さまの子として迎え入れられています。私たちが父なる神さまの子とされていることは法的なことで、いわば、天における神さまの法廷において父なる神さまご自身によって宣言されていることであり、この上なく確かなことです。そして、これを今この地上にある私たちの現実としてくださっているのが、御霊のお働きです。それで、私たちはこの御霊によって父なる神さまに向かって個人的に、親しく、また敬意と信頼の思いを込めて「アバ、父。」と呼びかけることができるのです。 このことによって、私たちの祈りは変えられました。かつての私たちの祈りは、イエス・キリストが、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 と教えておられるときの、父なる神さまを知らない「異邦人」の祈りでした。その祈りは祈っている「神」との個人的で親しい交わりではなく、自分の思いを通すために「神」を動かすための手段でした。しかも、そこには「神」の愛に対する確信があるわけではなく、「神」を求めるというより、自分の願うことへの思いの強さが祈りとなって現れてきているだけでした。このような私たちが御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みによって新しく造り変えられたことにより、私たちの祈りも変わったのです。 これらのことを踏まえたうえでなお、私たちが気をつけなければならないことがあります。 先ほども触れましたが、先週はルカの福音書11章5節〜13節に記されているたとえによるイエス・キリストの教えを引用してお話ししました。実はその教えは、その前に記されているイエス・キリストの教えを受けて語られたものです。そのイエス・キリストの教えは「主の祈り」に関する教えなのです。1節〜4節には、 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 私たちの罪をお赦しください。 私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」 と記されています。 先週は、この後に記されている、たとえによるイエス・キリストの教えを取り上げて、私たちが「恥知らずなまでの大胆さ」をもって父なる神さまの御前に近づいて、父なる神さまに祈るべきことが教えられているということをお話ししました。けれども、それは私たちの欲望のままに父なる神さまを振り回してもいいという意味ではありません。その教えに先だってイエス・キリストは私たちが何を祈るべきであるかを教えてくださっているのです。ここで教えられている祈りに沿って祈るために、「恥知らずなまでの大胆さ」をもって父なる神さまの御前に近づいて、父なる神さまに祈るようにという教えなのです。 少し話が逸れますが、ここには「主の祈り」が記されています。けれども、このルカの福音書に記されている祈りの方がマタイの福音書に記されている祈りより短いものです。それで、多くの学者はここに記されている祈りの方が古いもので、マタイの福音書に記されている祈りは後に発展させられたものであると考えています。それと同時に、マタイの福音書に記されている祈りがユダヤ的なものであることも認められています。つまり、マタイの福音書に記されている祈りは、ルカの福音書に記されている祈りがもとになって、それにユダヤ的なものが付け加えられて発展させられたものであるというのです。 けれども、ルカの福音書に記されている祈りの方が短いからより古いものであるということは、必ずしも客観的な判断ではありません。確かに、一般的な傾向としては、短いものを補足して長くすることはあっても、長いものを短くしてしまうということはありません。けれども、この主の祈りの場合には、その基準だけで判断することはできないように思われます。というのは、イエス・キリストが元々教えられた人々はユダヤ人で、ユダヤ的な背景と発想をもっている人々でした。それで、もともとマタイの福音書に記されている祈りをイエス・キリストが教えられたということには何の不自然さもありません。もしルカの福音書の記事がなかったなら、それを問題とする必要もありません。また、マタイの福音書はそのユダヤ人を対象に記されていると考えられます。それで、マタイの福音書にはそれがそのまま残されていると考えることができます。 問題は、ルカの福音書に記されている祈りの方が短いということです。これについては、ルカの福音書の読者が異邦人で、ギリシャ的な背景と発想をもっている人々であったことがかかわっていると考えられます。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、マタイの福音書で「天の御国」と呼ばれているものが、ルカの福音書では「神の国」と言い換えられています。それは、ギリシャ的な背景と発想をもっている異邦人が「天の御国」という言葉を聞いたときに抱くイメージが、イエス・キリストの教えの背景となっているユダヤ的なものとかなり違ったものであるために、大きな誤解を招きやすいことによっていると考えられます。そのうち「御国」の方は「天の御国」と「神の国」に共通していますので、誤解を招きやすいのは「天」についての発想の違いからくるものです。ギリシャ的な発想をもっている人々には、「天」をもって神さまご自身を代表的に表すということは理解しがたいことです。このことから「天の御国」は「神の国」と言い換えられていると考えられます。また、神さまがこの世界のすべてのものと区別される方であることを表すという意味での「天」の概念も、天もこの世界の一部と考えているギリシャ的な発想をもっている人々にとっては理解しがたいものでしょう。このことが主の祈りの記事に反映していると考えることもできます。 主の祈りについて言いますと、マタイの福音書に記されている祈りとルカの福音書に記されている祈りの違いは、言葉遣いの違いのような細かい点を除きますと三つあります。そのうちの二つは「天」にかかわっています。一つは、マタイの福音書に記されている、 天にいます私たちの父よ。 が、ルカの福音書では、単純に、 父よ。 となっていることです。もう一つは、マタイの福音書に記されている、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りに当たる祈りがルカの福音書に記されている祈りにはないということです。先ほどの「天の御国」についての例に見られますように、ルカの福音書は、そのようなユダヤ的なもので、それをそのまま異邦人の読者に伝えると大きく誤解されるものをできるだけ修正したり最小限に留める傾向があります。このことから、ルカの福音書に記されている祈りはマタイの福音書に記されている祈りからユダヤ的なものを排除して縮小したものであるという考え方も成り立ちます。 ちなみに、 天にいます私たちの父よ。 という言い方は、同じマタイの福音書に記されている「山上の説教」の中で、5章16節、45節、6章1節、7章11節の4箇所に用いられている「天におられるあなたがたの父」というイエス・キリストの言葉を反映しています。 話を戻しますが、先ほど引用しましたルカの福音書に記されている教えでは、イエス・キリストが、 祈るときには、こう言いなさい。 と言われたことが記されています。そして、この後に主の祈りが記されています。これは、直訳調に訳しますと、 あなた方が祈るときには(いつも)、言いなさい。 となります。ここには「このように」という言葉はありません。ここに示されていることに沿って言いますと、主の祈りはそのまま祈ることができる祈りであるということです。 これに対しまして、マタイの福音書6章9節には、 だから、こう祈りなさい。 と記されています。これは直訳調に訳しますと、 ですから、このようにあなたがたは祈りなさい。 となります。この場合、「このように」が冒頭にきて強調されています。また「あなたがたは」も、ルカの福音書のように動詞の人称と数で表されるのではなく、それとして(「フメイス」と)言われているとともに、最後に置かれていて強調されています。ここでは、主の祈りは私たちの祈りの模範として示されています。これらのことから、私たちは主の祈りをそのまま祈ることができますし、主の祈りをお手本として、ここに示されている祈るべきことを自分たちの言葉で、また、発展させて祈ることもできます。 それで、私たちは、イエス・キリストが示してくださった主の祈りの言葉をそのまま祈っています。このように祈る場合、私たちは、イエス・キリストが、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 と教えてくださった誤りを犯してしまう可能性があることをわきまえておきたいと思います。一つは、主の祈りを唱えれば効果があるというような考え方です。もう一つは、すでに覚えてしまっている主の祈りを、考えもなしに祈ってしまうということです。これは主の祈りを祈ることではなく、空しく唱えてしまうということで、異邦人の祈りに近いものに変質してしまいます。 私たちは自らのうちにこのような危険があることをわきまえるからこそ、主の祈りについて学んでいます。主の祈りは簡潔で明瞭な祈りですが、私たちが生涯をとおして祈り続けてもきわめ尽くすことができない深さと豊かさを秘めている祈りです。それはまた、神である主の約束に基づく救いの完成を待ち望む終末論的な望みに満ちた祈りです。 |
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