(第37回)


説教日:2005年11月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 マタイの福音書6章9節〜13節には主の祈りが記されています。これに先だつ5節〜8節には祈りに関するイエス・キリストの教えが記されています。
 伝道集会のために一週空きましたが、今日は、前回に続いて、7節、8節に記されています、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

というイエス・キリストの教えについてお話しいたします。このイエス・キリストの教えについては、すでに、基本的なことをいくつかお話しいたしましたので、それを踏まえてさらにお話を続けます。
 7節には、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここで言われていますように、「異邦人」も「神」に祈ります。それは、人が神のかたちに造られているからです。祈りは、神のかたちに造られている人間のうちから自然と、また必然的に生れてくるものです。
 天地創造の初めに神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。それは、人をご自身との愛の交わりのうちに生きる者としてお造りになったということを意味しています。人間は造り主である神さまに向けて、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として、神のかたちに造られています。これは、神のかたちに造られている人間の本質にかかわることであって、人が人であるかぎり、決して失われることがないことです。
 祈りは、この造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりの具体的な表れです。
 実際には、そのように、造り主である神さまに向き、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として、神のかたちに造られている人間は、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。これによって、人は造り主である神さまの聖なるご臨在の御前から退けられてしまいました。罪ある人間が罪を自らのうちに宿したままで、神さまの聖なるご臨在の御前に近づくなら、神さまの聖さを冒す者として滅ぼされてしまいます。人がそのようなさばきによって滅びてしまうことがないためにも、神さまは人をご自身のご臨在の御前から退けられたのです。また、自らのうちに罪を宿している人間は造り主である神さまを神として認めることもなく、あがめることもありません。それが、人間の罪の本質です。
 このように、人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまい、自らのうちに罪を宿し、罪の腐敗がその人の思いと言葉と行いのすべてを汚染してしまっています。しかし、そうではあっても、それによって人が神のかたちでなくなってしまったのではありません。人が神のかたちであるということは、神さまが人を神のかたちにお造りになったことによっています。それで、人が人であるかぎり、人は神のかたちです。ただし、その神のかたちが罪によって腐敗してしまっているのです。
 神のかたちであることの本質的な特性は造り主である神さまに向くこと、そして神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにあります。そして、罪による腐敗は、その神のかたちの本質的な特性が腐敗してしまったことにあります。その腐敗は、人が造り主である神さまを神として認めることもなく、礼拝することもなくなってしまったことに表れてきます。けれども、それで人が造り主である神さまに向く者として、そして、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として、神のかたちに造られているということがなくなってしまっているわけではありません。先ほども言いましたように、人が神のかたちであるということは、神さまが人を神のかたちにお造りになったことによっています。それで、人が人であるかぎり、神のかたちです。ただ、その神のかたちが罪によって腐敗してしまっているのです。そのために、人は造り主である神さまを神として認めることもなく、愛することもなく、礼拝することもありません。それは、神のかたちに造られている人としての本来の在り方、本来の生き方を失ってしまっているということです。
 このことから、実際に、二つのことが生じてきています。
 一つは、人は神のかたちに造られて、神さまに向けて造られているので、どうしても「神」を求めます。これは、神のかたちとしての人の本質にかかわることです。
 もう一つのことは、人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっていますので、造り主である神さまを神として認めることもなく、礼拝することもありません。それで、人は、神のかたちに造られている者としての本質的な要求を満たすために、自分で「神」を考え出し、自分で「神」を作り出してしまっています。このようにして生み出されたのがさまざまな「偶像」です。ですから、「偶像」は人の手によって作られた、物言わぬ「神」です。


 私たちもかつてはそうでしたが、「異邦人」はこの物言わぬ「神」である偶像に祈ります。そのことから、「神」はなかなか自分の祈りを聞いてくれないものというイメージが生まれてきます。それで、長い祈りをしなければならないとか、巧みな祈りをしなければならないというような考えが生まれてきます。そのような祈りにおいて重きを置かれるのは、祈る者の姿勢の方です。祈る者の姿勢や祈りの仕方が祈りを決定すると考えられているわけです。
 けれども、今お話ししたことから分かりますように、祈りは、神さまが私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として神のかたちにお造りくださったことから生れてきています。祈りはこの神さまとの愛にあるいのちの交わりの具体的な形です。そして、私たちが神のかたちに造られていることも、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者であることも、私たちから出たことではありません。神さまが一方的な恵みによって私たちをそのような者としてお造りくださったことによっています。
 さらに、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっていた私たちを、再び神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださったのも、神さまご自身です。神さまは今から2千年前に、ご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは私たちの罪をご自身の身に負ってくださり、私たちに代わってその罪に対するさばきを受けてくださいました。そして、私たちを生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。それによって、私たちは罪を完全に贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としていただきました。このことによって、私たちは父なる神さまとの交わりが許され、父なる神さまに祈ることができるようになりました。
 このように、私たちの祈りは、神さまが創造の御業と贖いの御業をとおして私たちに与えてくださった恵みです。祈りにおいて大切なことは、神さまが私たちをご自身の御前に立たせてくださり、私たちの語りかけに耳を傾けてくださることです。そして、それは神さまがご自身から望まれたことです。神さまは私たちがご自身の御前に立つことを喜んでくださり、進んで私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。ですから、私たちは神さまに祈りを聞いていただくために長い祈りをする必要はありません。
 イエス・キリストの、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

という教えの奥には、このようなことがあります。
 ここで、イエス・キリストは、

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる

と教えておられます。ここでは神さまのことが「あなたがたの父なる神」と呼ばれています。それで、

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる

ということは、父なる神さまが私たちにお心をかけてくださり、ご配慮してくださっていることを示しています。ですから、私たちは祈りにおいて神さまを説得しなければならないということはありません。
 ここで、これらのことを踏まえて、一つのことを考えてみたいと思います。
 ルカの福音書11章5節〜13節には、

また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

と記されています。
 その当時のユダヤの社会は今の私たちの住んでいる社会と違って、物が常に溢れているようにあるわけではありません。その日の家族の食べ物がかろうじて満たされるということはめずらしいことではありませんでした。ですから、

  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りは、私たちが感じる以上に切実な祈りであったのです。それで、不意の来客があった場合に、そのために必要なものを「友だち」から借りるということもあったわけです。まして、真夜中の来客では、店も閉まっていてそれ以外に方法がなくなってしまいます。
 真夜中に来た友人というのは、私たちの感じでは非常識ということになるでしょう。けれども、これは今日のように交通手段が発達していなかった時代のことです。長い旅をしている途中で友人としての自分を頼って来てくれたためのことですが、きっと、思わぬ事故など何らかの事情があって遅くなってしまったのでしょう。そのような旅人をもてなすことは、聖書の中でも大切なこととして教えられています。これらのことは、イエス・キリストの教えを聞いている人々にはすぐに分かったことです。
 さらに、その人が食べ物を借りようとした「友だち」の方を見ますと、その「友だち」はいかにも冷たそうに見えます。けれども、必ずしもそういうことではありません。その家族はすでに寝てしまっています。今のように電気がある社会ではありませんから、早寝早起きの社会です。しかも、その当時の普通の家は一つの部屋しかなかったようですから、そこに家族全員が寝ていたと考えられます。そこにはやっと寝かしつけた子どもたちもいます。そこでバタバタと物音を立てれば子どもたちは起きてしまいます。また戸締まりのための鍵も、横棒をかんぬきのようにして使うものであったでしょうから、それを外したりまた掛けたりすることは、音がすることとなります。「友だち」はこれらのことを訴えているわけです。
 これらのことを受けて、8節には、

あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 このようなたとえによるイエス・キリストの教えを読みますと、祈りについて、これまでお話ししてきたことと違うのではないかというような気がしないでしょうか。祈りにおいて神さまを説得し続けなければならないと教えられているのではないだろうかというような疑問がわいてきます。
 けれども、このたとえによるイエス・キリストの教えは、そのようなことを教えているのではありません。
 ここで、

あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう

と言われているときの「あくまで頼み続けるなら」と訳されている部分は、翻訳するのに難しいところです。ここで「あくまで頼み続ける」と訳されているのは一つの言葉(アナイディア)で、しかも名詞です。これは新約聖書の中にここだけに出てくる言葉ですが、「恥」を意味する言葉(アイドース)と関連する言葉です。この言葉は、「恥を知らないこと」と「大胆であること」が組み合わさったような意味をもっています。それで「恥知らずなまでの大胆さ」という感じになります。このことを生かしてこの部分を少し前から訳しますと、

彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、実に、恥知らずなまでの大胆さのゆえに、起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

となります。ここには「実に」という言葉(ゲ)があります。ここでは、この「恥知らずなまでの大胆さ」が大切なこととして教えられています。そして、このことを受けて、9節、10節に記されている、

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

という教えがなされています。
 ですから、ここでは、この「恥知らずなまでの大胆さ」をもって、父なる神さまに求めなさいということが教えられているのです。けれども、これは、父なる神さまがあの「友だち」のように、なかなか願いを聞いてくださらないから「恥知らずなまでの大胆さ」をもって願いなさいという意味ではありません。
 これに続く11節〜13節には、

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは人間の父親が自分の子どものことを心に留めて、子どもにとって「良い物」を与えるということをに触れておられます。そして、それを基にして、

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

と教えておられます。「とすれば、なおのこと」という言葉に示されていますように、父なる神さまのご配慮は人間の父親の自分の子どもたちに対する配慮以上のものであるということが示されています。ですから、父なる神さまはあの「友だち」のように、なかなか願いを聞いてくださらない方ではないのです。父なる神さまは御子イエス・キリストによって私たちを子としてくださり、私たちが求める先にあらゆることをご配慮してくださっています。
 ですから、イエス・キリストはここで、父なる神さまがこのように私たちのことを心に留めてご配慮くださっているのだから、「恥知らずなまでの大胆さ」をもって願い求めなさいと教えてくださっているのです。
 父なる神さまが無限、永遠、不変の栄光の神であられることを知っている人が、「恐れ多くて、とても父なる神さまの御前には近づけない。」と考えているとします。その人が、子どものように大胆に父なる神さまに近づいて、大胆に祈っている人を見たとしますと、その人は父なる神さまに近づいている人のことを「何と恥知らずな」と感じることでしょう。それは一見すると神さまを敬っているように見えます。けれども、それはここでイエス・キリストが教えてくださっていることに反することです。イエス・キリストの教えに反しているのに、父なる神さまを敬っているということはあり得ません。その人は、父なる神さまが無限、永遠、不変の栄光の神であられることを知ってはいますが、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちを子としてくださり、御前に立たせてくださっていることを知っていないのです。
 私たちは祈りにおいて「恥知らずなまでの大胆さ」をもって祈るようにと勧められています。けれども、私たちがそのように大胆であることができることの根拠は、私たち自身のうちにはありません。その根拠はイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの完全さによっています。ヘブル人への手紙10章19節、20節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と記されています。
 イエス・キリストは先ほどの教えの最後に、

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

と述べておられます。この「聖霊」は父なる神さまの御霊です。父なる神さまは「聖霊」によって私たちの間にご臨在してくださいます。またこの「聖霊」は、私たちを御子イエス・キリストと結び合わせてくださり、その贖いの御業にあずからせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださる御霊です。ローマ人への手紙8章15節には、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されています。
 ですから、私たちが「恥知らずなまでの大胆さ」をもって祈るのも、父なる神さまが「聖霊」を下さるのも、私たちが御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことであり、その交わりをますます深く豊かなものとするためのことです。

 


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