(第36回)


説教日:2005年10月23日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日もマタイの福音書6章9節〜13節に記されている主の祈りに先だって、5節〜8節に記されています、祈りについてのイエス・キリストの教えについてお話しします。
 この5節〜8節は、5節、6節と7節、8節に分けることができます。
 5節、6節には、

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と記されています。このイエス・キリストの教えについてはすでにお話ししました。ここでは、祈るときにはただ父なる神さまにだけに心を向けて、父なる神さまに語りかけるようにすべきことが教えられています。


 これに続いて、7節、8節には、

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

と記されています。
 先週お話ししましたように、新改訳で、

同じことばを、ただくり返してはいけません。

と訳されているときの「同じことばを、ただくり返す」と訳されている言葉は、おまじないや呪文のように「同じことばを、ただくり返す」ことだけでなく、空しい言葉を話すことや考えることなく話すことを意味しています。それがどのようなことであるかは、さまざまな状況や文化によって異なっていることでしょう。それがどのようなことであれ、問題は、イエス・キリストが、

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

と述べておられることにあります。
 先週はそのようなことの典型的な例として列王記第一・18章20節〜39節に記されています、カルメル山において預言者エリヤが対決した450人のバアルの預言者たちの祈りのことをお話ししました。バアルの預言者たちは朝から真昼までバアルに向かって叫び続け、それでも答えがないと、午後からは自らの身体を傷つけるまでになりました。そのようなことが、450人の預言者たちによって、いっせいになされたのですから、それはまた大変な儀式であったわけです。これに対して、エリヤは一人で、契約の神である主の御名を呼び求め、簡潔で明快な願いの言葉を述べました。
 目に見える形としてはバアルの預言者たちの祈りの方が、エリヤの祈りよりはるかに長く熱心なものでした。けれども、その祈りの長さや熱心さは、バアルが人間の考え出した神であって、自らはなにもすることができないものであることに起因しています。そして、エリヤの祈りの簡潔で明快なことは、契約の神である主、ヤハウェが天地の造り主であられ、とこしえに生きておられる神であられることに基づいています。
 このこととのかかわりで、私たちは、イエス・キリストが教えてくださった祈り、すなわち「主の祈り」が簡潔で明快な祈りであること、簡潔であるけれど、豊かな内容が込められた祈りであることを思い起こします。
 イエス・キリストが、

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

と述べておられることを、私たちの生きている社会に当てはめて考えてみましょう。私たちはある定められた言葉を繰り返して唱えることが頻繁に見られる社会に生きています。そのような祈祷やおまじないは、「運」や「運命」を好転させようとしてなされるものであって、自分を越えた力を操作して動かそうとするものです。その際に意識されているのは、自分の願いだけです。そして、そのためには、人間の側も相当の時間や努力を傾けなければならないとされています。それが神と呼ばれるものに向けてのものであっても、その神と呼ばれるものの意向や意志を考えることは、まずありません。とにかく、その祈祷やおまじないによって、その神と呼ばれるものを自分のために動かそうと操作します。言うまでもなく、これは、生きておられる神さまと向き合って、親しく語り合うこととはまったく異なったことです。
 それでは、長い祈りはよくないということなのでしょうか。決して、そのようなことはありません。

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

というイエス・キリストの教えは、長く祈ることをいさめているのではありません。言葉数の多さが神さまを動かすというような考え方が誤っていることを示しているだけです。そして、この、

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

というイエス・キリストの教えは、祈りが聞かれるためには長く祈らなければならないという、祈りにおける一種の強迫観念から私たちを解放してくれるものでもあります。
 私たちがイエス・キリストの御名によって父なる神さまだけに心を向け、父なる神さまに語りかけるとき、父なる神さまはいつでも、また、どこでも私たちの祈りをお聞きくださるのです。私たちは祈りにおいてそのような自由を与えられています。
 イエス・キリストが、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と言われたとき、イエス・キリストは父なる神さまのことを2度も「あなたの父」と呼んでおられます。
 このことにかかわるすべては、父なる神さまご自身から出ています。エペソ人への手紙1章3節〜5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。そのように、父なる神さまはご自身の永遠の聖定において、私たちを御子イエス・キリストのうちにお選びくださり、御前に聖く傷のない者として立たせてくださり、ご自身の子としてくださるように定めてくださいました。そして、これを実現してくださるために、天地創造の御業においては、人を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛の交わりのうちに生きる者としてくださいました。そして、人が罪を犯して御前に堕落してしまった後には、贖い主をとおして、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として回復してくださいました。
 私たちはこの贖い主であられる御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪をすべて贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしていただいています。このように御子イエス・キリストにあって神の子どもとされている私たちは、子どもが自由に父親に近づいて、自分の思いを語ることができるのと同じように、神の子どもとしての自由と特権を与えられています。そして、私たちが御子イエス・キリストにあるこの事実を信じて祈るときに、父なる神さまはご自身の子である私たちの言葉に耳を傾けてくださるのです。
 ですから、最初は耳を傾けることを渋っている父なる神さまが、私たちが長く祈ることによって、途中から耳を傾け初めてくださるということではありません。父なる神さまは、私たちを御子イエス・キリストにあって子として受け入れてくださっていますので、いつでも、また進んで私たちの祈りに耳を傾けてくださるのです。

  見よ。まことにわたしは
  新しい天と新しい地を創造する。
  先の事は思い出されず、心に上ることもない。

という御言葉から始まるイザヤ書65章17節〜25節には、終りの日のことが預言的に記されています。その中の24節には、

  彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、
  彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

と記されています。
 このことは、確かに終りの日に再臨されるイエス・キリストによって再創造される新しい天と新しい地において、私たちの現実となります。けれども、このことは、終りの日に再創造される新しい天と新しい地に限られたことではありません。

  彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、
  彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

ということは、すでに、御子イエス・キリストにあって私たちの現実となっています。なぜなら私たちは御子イエス・キリストにあって父なる神さまの子どもであり、父なる神さまは私たちを子として迎え入れてくださっているからです。
 このように、父なる神さまが私たちの祈りを聞いてくださるのは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちをご自身の子としてくださったことによっています。父なる神さまは進んで私たちの祈りをお聞きくださいます。ですから、父なる神さまに祈りを聞いていただくためには、長い祈りをしなければならないということはありません。
 同時に、父なる神さまが御子イエス・キリストを十字架につけて私たちの罪を贖うことまでして、私たちをご自身の子としてくださったということを知るとき、そして、そのようにしてご自身の子としてくださった私たちの祈りを喜んでお聞きくださるということを知るとき、私たちはどんなときにも、また、できるだけ長く父なる神さまとの親しい交わりをもちたいと願わないでしょうか。そのような願いが私たちのうちにあるので、そして、父なる神さまに語りかけることが私たちのこの上ない喜びであるので、結果的に、祈りが長くなるということはいくらでもあります。
 アウグスチヌスは、その『告白』の冒頭で、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。
『告白』一巻一章一(山田 晶訳)

と告白しています。そこで、

よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。

と言われていますが、それはそのまま祈りに当てはまります。私たちを喜んで祈らずにはいられないように、私たちの気持ちをかき立てられるのは、御子イエス・キリストにあってご自身とその愛を示してくださった父なる神さまです。イエス・キリストが、

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と教えてくださるとき、それは、私たちを縛りつける教えではありません。それは、父なる神さまが私たちをご自身に向くようにと、私たちの気持ちをかき立ててくださっているということに裏打ちされています。そして、そのように、父なる神さまの愛に包まれて父なる神さまと語り合う祈りは、しばしば、長い祈りとなることがあります。
 イエス・キリストは、

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

と教えておられます。このことは、祈りについてかつて私たちがもっていたイメージを変えるものです。祈りは私たちの状態や必要を知らない神さまに、私たちがどういう状態にあり、どういう必要があるかを伝えるものではないということです。私たちがどういう状態にあり、どういう必要があるかは、誰よりも、そして私たち自身以上に、父なる神さまがご存知であられます。
 言うまでもないことですが、このことは、ただ単に父なる神さまが私たちがどのような状態にあって、私たちに何が必要であるかを知っておられるということを伝えているだけではありません。父なる神さまは私たちに必要なものをすべて備えていてくださり、それを最もふさわしいときにお与えくださいます。そのことは、先ほどお話ししましたように、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって私たちをご自身の子としてくださっておられるということを考えれば、すぐ分かることです。人間の父親でも、自分の子どものことを考えないということはまずありません。父なる神さまは御子イエス・キリストにある完全な愛と恵みをもって私たちのことをお心に留めてくださっています。それで、祈りは、私たちに必要なものを与えてくださることを渋っておられる神さまを説得するものでもありません。
 そうしますと、一つの疑問がわいてきます。父なる神さまが私たちの状況と私たちに必要なものをすべてご存知であられ、しかも、そのためにすべてを備えてくださっているのであれば、そもそも、祈る必要はないのではないかという疑問です。けれども、そのような疑問はどこからわいてくるのでしょうか。それは、祈りは父なる神さまに私たちの状況や私たちの必要を知らせることであるとか、私たちに必要なものをなかなか与えてくださらない神さまにお願いすることであるというように考えることから生れてくるのではないでしょうか。しかし、祈りは、私たちのことをよく知らない神さまに私たちのことを伝えることではありませんし、私たちに必要なものをなかなか与えてくださらない神さまにお願いすることでもありません。
 そもそも、私たちのことをそんなによく知らないし、心にかけてもいない他人のような「神」に祈ること自体が空しいことです。父なる神さまは、決してそのような方ではありません。子どもがことあるごとに父親や母親にのところに行って自分のことをいろいろ話すのは、父親や母親が自分のことを子として愛してくれていること、親として心を尽くしてくれていることを実感として知っているからです。そのようなことを実感している子どもは、父親や母親の前では自由になれます。父親や母親と語り合うことが最も自然なことと感じられます。その子どもは、他の大人に対しては、そのように自由になることはできません。
 人間の場合には、父親や母親であっても限界があります。子どものことを自分の尺度で勝手に判断して誤解することは避けられません。しかし、父なる神さまにはそのようなことはまったくありません。以前取り上げました、詩篇139篇1節〜6節には、

  主よ。あなたは私を探り、
  私を知っておられます。
  あなたこそは私のすわるのも、
  立つのも知っておられ、
  私の思いを遠くから読み取られます。
  あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
  私の道をことごとく知っておられます。
  ことばが私の舌にのぼる前に、
  なんと主よ、
  あなたはそれをことごとく知っておられます。
  あなたは前からうしろから私を取り囲み、
  御手を私の上に置かれました。
  そのような知識は私にとって
  あまりにも不思議、
  あまりにも高くて、及びもつきません。

と記されています。さらに13節〜16節には、

  それはあなたが私の内臓を造り、
  母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
  私は感謝します。
  あなたは私に、奇しいことをなさって
  恐ろしいほどです。
  私のたましいは、それをよく知っています。
  私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
  私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
  あなたの目は胎児の私を見られ、
  あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
  私のために作られた日々が、
  しかも、その一日もないうちに。

と記されています。
 これが旧約聖書に記されていることから分かりますように、これらのことは、それがいつの時代であっても、主の民すべてにそのまま当てはまることです。しかし、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪をまったく贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせていただいている私たちにとっては、このすべてのことが、父なる神さまが私たちをご自身の子としてお心に留めてくださることとして、現実となっています。
 このように、父なる神さまは私たちのすべてを完全に知っていてくださり、愛と恵みのうちに私たちを置いてくださっています。そのことを、福音の御言葉をとおして知るとき、私たちは祈りにおいて自由になることができます。心から父なる神さまを信頼して祈ることができるようになります。
 私たちは今なお、自らのうちに罪の性質を宿しており、思いと言葉と行いにおいて罪を犯します。父なる神さまはそのような私たちの状態を十分にご存知であられます。私たちがそのようなものであることをご存じないので、私たちを子としてくださったのではなく、すべてをご存知であられるからこそ、御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして私たちをご自分の子としてくださって、御前に立たせてくださっているのです。ですから、私たちは自分の罪を偽る必要はありません。御子イエス・キリストの御名によって、率直に、父なる神さまに自らの罪を告白することができます。そして、罪の赦しと罪のきよめを願い求めることができます。
 事実イエス・キリストは、

  私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るようにと教えておられます。
 ですから、私たちは自らの罪の深さや恥ずべき己の姿に打ちのめされているときであってさえ、父なる神さまに対しては、御子イエス・キリストにあって、自由で率直であることができます。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第35回)へ戻る

「主の祈り」
(第37回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church